安倍首相は白川日銀総裁後任に財務省国際部門トップ元財務官、現アジア開発銀行総裁の黒田東彦(はるひこ)氏、二人の副総裁のうちの一人に岩田規久男習院大教授を起用する意向でいる。
「NHK NEWS WEB」が、〈黒田氏は、国際金融の世界に豊富な人脈を持ち、海外への発信力に対する期待があるものとみられます。〉と解説している。
勿論、安倍首相が金融に関わる政策としている積極的な金融緩和論者だそうだ。
ところが日本のホープ、日本の維新の会共同代表の橋下徹は黒田東彦日銀総裁就任に反対している。
《黒田氏に不同意も=維新・橋下氏》(時事ドットコム/2013/02/25-13:33)
2月25日、大阪市役所内で記者団に発言。
橋下徹「いきなり財務省OBの就任を認めてしまうよりも、民間人からまずは幅広く(人材を)探っていくべきではないかという維新の哲学を、しっかり示すべきではないか」――
要するに橋下徹はこの発言によって日本維新の会国会議員団に対して黒田東彦日銀総裁ノーの意思表示をすると同時に同調を要求した。
そうでなければ、橋下徹はこのような意思表示を先ず最初に直接国会議員団に示して、国会議員団との間で議論を経て、多数決等の方法で結論を得る民主的な手続きを取ったはずで、もしそういった手続きを取っていたなら、記者たちを介した「しっかり示すべきではないか」という同調要求の言葉は不要となる。
いわば議論もしていない、結論も得ていない、そういった手続きを経る前に、「しっかり示すべきではないか」と同調を要求したのだから、全体的議論や全体的結論を排している上に国会議員団が従うことを前提とした独裁意志の働きを見て取ることができる。
だが、国会議員団が黒田総裁、岩田副総裁を「ベストに近い人事」と容認、賛成する意向だと分かると、橋下徹の独裁的同調要求に反することになるからだろう、国会議員団に対して手厳しい批判を浴びせた。
《橋下氏:維新議員を「当選ぼけ」 黒田日銀総裁案の容認に》(毎日jp/2013年02月26日 13時07分)
2月26日、大阪市役所で記者団に発言。
橋下徹「当選ぼけというか、野党の役割がぼけ始めている。大阪で見ていると、野党としての哲学が見えにくい。
外部から人材を探さないと、永田町と霞が関だけで固定してしまう。維新の哲学なら、(外部人材である)岩田氏が総裁、黒田氏が副総裁だ」
政治の世界にはよくあることだろうが、例えば能力は認めても、参院選を有利に進めるために世論受けを狙って霞ヶ関反対・元官僚反対でいこうということであったとしても、あるいは反対のための反対であっても、議員団と議論して納得という結論を得ていなければならないはずだが、ここでも一切省いて自身の意思を押し付けようとする独裁意志だけを露わにしている。
このことは乱暴な発言となっているところに現れている。「野党の役割」、「野党としての哲学」は何も日銀総裁は外部人材でなければならないとすることではないだろうし、元官僚は副総裁が適任だと枠をはめることではないはずなのに、出身母体に応じて職業上の地位を決めつる独裁ぶりである。
真にそれが有能な人材であるなら、出身母体で排除することは損失以外の何ものでもないことになる。
天下りの弊害は民間や法人内に有能な人材がいながら、単に出身官庁との取引上のコネ、あるいは許認可のコネを維持するために役立てるという、有能とは無縁の利用方法で多額の報酬でもって要職に迎えるところにあるはずだ。
《橋下共同代表 岩田規久男氏を総裁に》(NHK NEWS WEB/2013年02月26日 20時34分)でみると、橋下徹は黒田氏の能力を否定していないばかり、その有能性を認めている。
橋下徹「黒田氏の能力がないということではなく、財務官としての実績も、国際的な人脈もあるだろうが、結局、頼るところは財務省であり、官なのかということだ。そういう日本社会はつまらないので、政治家が必死になって、官以外の人材を探すというプロセスは重要だ。
日本維新の会の哲学からすれば、総裁は財務省OBではない岩田氏にお願いし、国際的に人脈も広く、官僚として、実務を取り仕切ってきた黒田氏を副総裁にすることが一番合うのではないか。この考え方を入れて、国会議員団に議論してもらう」――
あくまでも自説に拘っている。自説への拘りは独裁意志への拘りに他ならない。
「財務官としての実績も、国際的な人脈もあるだろうが」と自身はその有能性を認めながら、「結局、頼るところは財務省であり、官なのかということだ」と、官僚出身の経歴に依存して人事を決定する「そういう日本社会はつまらない」、間違いっているから、そこから脱却しなければならないと主張して、その有能性を排除している。
そして岩田総裁、黒田副総裁で「国会議員団に議論してもらう」と言って、さも民主主義的手続きを取るような姿勢を見せているが、自身が既に結論を出している人事に対する同調要求――独裁意志表示であることに変りはない。
だが、このような官僚経歴否定の人事観は元経産官僚の古賀茂明氏を、その有能性を認めて大阪府特別顧問、大阪市特別顧問、大阪府市統合本部特別顧問に重用していることと矛盾する独裁意志ではないだろうか。
日本維新の会の国会議員団が黒田総裁を容認姿勢でいることに橋下徹が「当選ぼけ」と言ったことに対して渡辺喜美みんなの党代表まで巻き込んで横槍が入った。
《渡辺、橋下氏は野党ぼけ=自民・高村副総裁》(時事ドットコム/2013/02/27-15:09)
〈日銀総裁人事案をめぐる野党内の容認論を、渡辺喜美みんなの党代表と橋下徹日本維新の会共同代表が批判〉していることについて、2月27日自民党本部で記者団に発言。
高村正彦副総裁「多くの国民は渡辺氏、橋下氏を『野党ぼけ』『政局ぼけ』と思っている。野党は政局より国益ということで対応してほしい」
渡辺代表を巻き込んだのは、渡辺氏が〈財務省OBでも柔軟に対応するとした海江田万里民主党代表の発言を「与党ぼけ」と非難〉したことに対する当てつけだそうだ。
どうもレベルの低い争いにしか見えないが、ここで問題にしているのはあくまでも橋下徹氏の日本維新の会に於ける意志決定の方法が民主的であるか、独裁的であるかである。
ところが国会議員団は橋下徹の独裁意志に抵抗した。
問題はどの程度の抵抗かということである。大袈裟に言うと、一政党内のこととは言え、民主主義が問われることになる。
この抵抗に橋下徹の日本維新の会国会議員団に向けた独裁意志が思い通りに結末を手に入れることができないからだろう、感情的様相を示すに至った。
《橋下氏:「維新代表に固執しない」 国会議員団にメール》(毎日jp/013年02月28日 15時23分)
橋下徹の独裁的意志の押し付けに対して議員団側は「国会のことは議員団が決める」と不満を募らせていたそうで、その中の誰かが「口を出すな」と発言し、マスコミがそのことを報道した。当然、橋下徹の耳に入る。
2月28日記者団に。
橋下徹「(議員団が)口を出すな、と言うなら維新の会には関わらない。そんなことを言われて代表にしがみつくような人生哲学を持っていない」
自分の独裁意志を通すか、通らないかの力学しかない。説得という力学はどこを探しもない。だから、簡単に感情的になるしか手はないことになる。
問題は次である。
「口を出すな」と発言したのは民主党を離党して維新の会から衆議院に立候補、当選した小沢鋭仁維新の会国対委員長で、2月28日、橋下徹にメールを送って、謝罪したことを明かしたという。
小沢鋭仁「大阪と議員団の関係は、特殊な関係だ。コミュニケーションを十分図らないといけない」
自分たちの考えが正しいことの証明もなしに「口を出すな」は言論封殺に当たる。カミナリ親父が子どもや妻に対して、「俺が正しいと言ってるんだから、正しいんだ」と子供や妻の言論を封殺するようにである。
当然、そこには正しいとしていることの証明がなければならない。
いわば「口を出すな」と言う前に、誰が日銀総裁にふさわしいのか、黒田か岩田か、橋下徹と議員団の間で議論し、結論を得るコミュニケーションの手続きを取り、自分たちの考えが正しいことの証明をしなければならないはずだが、その証明の努力を放棄して謝罪したということは、自分たちが正しいとしていることの放棄に当たり、相手を正しいとして橋下徹の独裁意志を半ば容認したことを物語っている。
「コミュニケーションを十分図らないといけない」と議論の必要性を言っているが、黒田か岩田か、決着をつけようという提案の文脈で言っているのではないのだから、単なる後付けの反省に過ぎない。
松野頼久維新の会議員団幹事長「政党代表として意見を言える場をつくらなければいけない」――
政党代表として橋下徹が国会議員団に対して「意見を言える場をつくらなければいけない」との意味であろう。だが、この発言にはお互いに意見を言い合う場――議論し合う場が必要だとする対等な意思疎通の双方向性を存在させていない。橋下徹が「意見を言える場」だとしている。
橋下徹を上に置き、自分たちを受け身の状態に置いたニュアンスとなっている。
そして決着を見た。
《「国会議員団とは解決」=維新・橋下共同代表》
(時事ドットコム/2013/02/28-22:14)
2月28日の記者会見。
橋下徹「(日銀総裁人事に関わる軋轢に関して)松井一郎幹事長(大阪府知事)らが奔走してくれたので大体、解決した。
(人事について)議員団が僕の意見も聞きながら議論し、判断すればいいことだ」
一見民主的手続きに従い、議員団の判断に任せるようなことを言っているが、人物本位なら人物本位という同じ判断基準を一つ土俵に乗せているわけではなく、議員団は官僚出身であるか否かは問題とせずに黒田氏の人物本位を基準とし、橋下徹は黒田氏の人物本位は問題とせずに非官僚・民間人を基準としていて、異なる判断基準を一つ土俵に乗せている以上、その人物に対する判斷の良し悪し、あるいはその人物を見る目は無視され、両者間の力関係が否応もなしに影響するはずだ。
大体が黒田氏が有能な人材であることを前提とすると、私自身には判断できないが、橋下徹の黒田日銀総裁人事に関わる非官僚・民間人は脱永田町を見せる象徴的な意味しか持たないところへもってきて、岩田総裁、黒田副総裁でも、岩田総裁の能力不足を黒田副総裁が補うことができれば、入れ替わりの人事にしても象徴的な意味しか持たない。
それを正当化しようとした場合、否応もなしに力関係をが決定要素としなければならない。
日本維新の会国会議員団が橋下徹の独裁意志を覆して黒田日銀総裁・岩田副総裁で決定できれば大したものだが、もし橋下徹の独裁意志通りに岩田総裁・黒田副総裁で決定した場合、民主主義を装った独裁主義の横行だと見做さざるを得ない。
例え前者のように覆したとしても、橋下徹が独裁意志を素地としていることに変りはない。今後共、機会あるごとにその独裁意志は大手を振ることになるだろう。
何だか桜宮高校体育会系入試中止をゴリ押しをしたときの独裁意志に似た、日銀総裁人事の独裁意志に見える。