安倍晋三の生命(いのち)への想いを欠いた森元首相を新ローマ法王就任式に派遣する感覚

2013-03-18 02:49:29 | Weblog

 安倍晋三は新ローマ法王就任式に日本政府の代表として森本首相を派遣すると発表した。

 菅官房長官「就任式にふさわしい方という中で、森氏が最適と考えた」(MSN産経

 ローマ・カトリック教会の最高位聖職者である新ローマ法王の就任式にふさわしく、最適の人物が森喜朗だというのだから、最適任者とした安倍晋三の感覚を疑う。

 誰かの推薦であったとしても、最終判断は首相の安倍晋三だから、自らの感覚、人間を見る目に於いても最適任者と見たのだろう。

 宗教とは究極的には人間のあるべき生命(いのち)の姿を問い、安らぎを与えようとする科学であろう。

 また人間の生活とは時々刻々、あるいは1日1日、生きて在る生命(いのち)を紡いでいく、その連続であるはずである。

 当然、新ローマ法王の就任式に出席するにふさわしい人物は、常にではなくても、状況に応じて人間を生命(いのち)ある存在と受け止める感受性を十分に持ち、その感受性を、宗教者の人間のあるべき生命(いのち)の姿を問い、安らぎを与えることを自らの使命としている感受性と響き合わせることができなければ、その資格を有しないはずだ。

 では、森喜朗がそういった人間か見てみる。

 既に多くの国民が周知の事実としている出来事で、多くの国民が忘れているかも知れず、ぶり返すことになるが、首相時代の2001年2月10日、ハワイ州のオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され、5分程度で沈没する事故が起きた。

 事故の一報はSPの携帯電話に入り、知らされた。だが、森喜朗はプレーを続けた。第一報後、直ぐにはその場を離れないように言われたからだと弁解しているようだが、携帯電話で連絡を取り合う時代、しかも携帯電話を所持している者が身近にいる場合、その場所自体に危機管理上の機能を持たせている場合を除いて、その場を離れないでいるようにという指示は意味をなさない。

 直ちにプレーを中止して車なりで首相官邸に向かったとしても、いつでもどこでも携帯で連絡を受けることもできるし、指示を出すこともできる。

 だが、クラブハウスで待機するならまだしも、プレーを続けていたのである。プレーを続行していても、携帯で随時指示ができるという弁解も成り立つが、どこにいようとも犠牲者数に変りはなかったとしても、直ちに首相官邸に向かうかどうかで国民の生命の安全に対する姿勢――事故遭遇者を生命(いのち)ある存在と受け止める感受性に違いが出てくる。

 このことこそが問題であって、国民の生命・財産を預かりながら、そのような姿勢に応えることができなかった。

 えひめ丸の乗組員である教師や高校生たちを生命(いのち)ある存在と受け止める感受性を持ち合わせていなかったからこそ、プレー続行となって現れた国民の生命に対する危機管理の希薄性だったはずだ。

 特にえひめ丸乗員の高校生たちの若い生命(いのち)の行く末を考える神経を持たなかった。

 このような生命(いのち)への想いを蔑ろにした前科に時効はないはずだ。

 生命(いのち)の感受性を欠いた人物を、例え元首相であろうと、新ローマ法王の就任式に日本政府代表として派遣する。きっと安倍晋三の感覚が森喜朗の感覚と響き合って適格性を認めることとなった人選に違いない。

 響き合わなければ、頭にさえ浮かばなかったろう。

 いわば両者の精神となっている生命(いのち)の感受性が同レベルだからこそ、森喜朗は最適人物として安倍晋三の目に適った。

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