教科書検定問題を取り上げた「沖縄タイムス」記事に、〈沖縄分離の背景とされ、米軍の長期占領を認めた「天皇メッセージ」については実教出版の日本史B1冊のみだった。〉と、「天皇メッセージ」に触れた教科書は1冊のみだとする記述があったが、「天皇メッセージ」なるものの存在についての知識は無学文盲ゆえ、一切なかった。 《昭和天皇の「沖縄メッセージ」》(風のまにまに(by ironsand)/2006-12-31)
国家主義者安倍晋三が1952年のサンフランシスコ講和条約発効から61年を迎える今年の4月28日に主権回復を記念する式典「主権回復の日」を政府主催で開催するとしたことに対して、日本本土にとっては主権回復の日であっても、沖縄にとっては独立どころか、逆に米国施政権下に置かれることとなった「屈辱の日」とされているということを新聞記事で知っていたから、天皇のメッセージが関わっていた沖縄分離ということなら、「主権回復の日」は違った側面を映し出すことになる。
《主権回復式典に強い不快感=講和条約発効、切り離された日-沖縄知事》(時事ドットコム/2013/03/12-22:39)
仲井真沖縄県知事「(条約発効で)沖縄を置き去りにして46都道府県が占領状態から解放された。向こう(日本本土)は慶賀に堪えないでしょうけど。
なぜ突然やるのか分からない。理解できないところがある」
翁長雄志那覇市長「僕らの立場からするとある意味、切り離された日だ」
沖縄の日本復帰は1952年の主権回復から20年も遅れた1972年(昭和47年)5月15日の米国の施政権返還によって実現した。
そこで「天皇メッセージ」をインターネットで調べてみて、歴史に詳しいわけではないが、調べ上げた範囲内の文言に解釈を施す形で自分なりに答を出して見ることにした。
当然、妥当な解釈となっているかどうかは、それぞれの判断に委ねるしかない。
最初にサンフランシスコ平和条約締結までの経緯を見てみる。
1947年(昭和22年)3月に連合国軍最高司令官マッカーサーが早期講和条約を提唱、極東委員会構成国に対して対日講和予備会議の開催を提案した。
但しソ連・中国(国民党政府)が反対し、挫折。
米国は日本がソ連勢力圏に取り込まれることを阻止、米国の同盟化を狙って日本の政治的安定化と、その安定化をバックアップする経済の安定化を図ることを先手とした。
経済の安定(=国民生活の安定)こそが政治を安定させるというわけである。
政治と経済の安定は1951年まで待たなければならなかった。この間、冷戦が進行して、米ソ間に色々な問題が生じたはずだが、1951年9月4日からサンフランシスコで講和会議を開催。
1951年9月7日、吉田茂首相による条約受諾演説。
1951年9月8日、会議参加国のうちソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3カ国を除く49カ国が署名。
1952(昭和27)年4月28日 サンフランシスコ平和条約と(旧)日米安全保障条約発効。
次に「天皇メッセージ」であるが、米国国立公文書館に収蔵されている1947年9月22日付の英文のコピーで、米国による沖縄の軍事占領に関して宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をシーボルト自身が纏め、国務長官宛に出したメモだそうだ。
次のブログから参考引用する。和数字を算用数字に替えた。
(a)総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡
主題:琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解
国務長官殿 在ワシントン
拝啓
天皇のアドバイザーの寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。
米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。
敬具
合衆国対日政治顧問 代表部顧問
W.J.シーボルト
東京 1947年9月22日
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「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問から1947年9月22日付通信第1293号への同封文書
コピー
連合国最高司令官総司令部外交部
1947年9月20日
マッカーサー元帥のための覚え書
天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日を約束して訪問した。
寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼及び左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような“事件”をひきおこすことをもおそれている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。
さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)にたいする米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借――25年ないし50年あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ、また、これによる他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。
手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の二国間条約によるべきだと、考えていた。寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある。
W.J.シーボルト
「擬制」とは、日本が沖縄に対して潜在主権を持つものの、それは表面的な装い・形式に過ぎず、実質的にはアメリカの占領状態であったという意味での「擬制」と言うことなのだろう。
『潜在主権』「アメリカの信託統治下にあったかつての沖縄に対し、日本が潜在的に持つとされた権利。立法・行政・司法上のあらゆる権利はアメリカが持つが、領土の最終的処分権は日本に残存されるというもの。残存主権」(『大辞林』三省堂)
要するに沖縄という領土の最終的処分権は日本にあるのだから、いつかは返還して貰うが、返還までの立法・行政・司法上のあらゆる権利はアメリカ側にあり、日本の権利はどのようにも及ばないという取り決めなのだから、実質的な占領支配と何ら変わらない。
日本の天皇が「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること」をアメリカ側に伝えたのは敗戦から2年後の1947年9月22日である。
サンフランシスコで講和会議が開催された1951年9月4日から遡る3年9カ月前のことである。当時から日本全土で主権を回復し、独立を果たそうという気運が充満していたと思うが、現実には沖縄を含めて日本自体がアメリカの占領下にあった。
いわばアメリカの占領下という点に於いて沖縄の基地問題を除いて日本本土も沖縄もほぼ平等な状態にあったはずだ。当然、主権回復と独立は沖縄を含めた日本全体を選択肢として初めて、沖縄と日本本土間の平等は維持される。
だが、天皇は講和条約締結から3年9カ月も前に沖縄の軍事占領をアメリカに勧めていた。
そして天皇が勧めてから3年9カ月経って、講和条約を締結するに至り、翌年4月28日の条約発効で独立を果たすことができ、主権を回復した。
同時にアメリカは沖縄・奄美諸島・小笠原諸島を施政権下に置き、占領状態とした。
アメリカ政府と日本政府との間に様々な取り決めがあっただろうが、要約するなら、結果的に天皇の勧めにアメリカは応じたのである。少なくともそういった経緯を取っている。
ごくごく常識的に考えても、「天皇メッセージ」がアメリカの外交・防衛上の欲求を満たして、その欲求を現実化させた講和条約締結としか見えない。
日本側から言うと、沖縄・奄美諸島・小笠原諸島の占領を交換条件に主権と独立を獲得したと指摘することができる。
悪い言い方をすると、沖縄・奄美諸島・小笠原諸島を貢物にして主権と独立を手に入れた。
問題は天皇自らの意志によって「天皇メッセージ」を発したかである。
シーボルト連合国最高司令官政治顧問が「天皇メッセージ」として国務長官宛に伝えた日付は1947年9月22日。天皇の御用掛の寺崎英成がシーボルトに天皇の意向を伝えた日は1947年9月22日からそう遠く遡ることはないはずだから、日付はそれ程違いはないはずだ。
日本国憲法の公布は1946年11月3日。施行は1947年5月3日。1946年11月3日の公布の時点で既に天皇は象徴天皇の地位に据えられ、日本国憲法第4条「天皇の機能」第1項で、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と定められる立場にあることは1946年11月3日の公布を待たずとも理解していたはずだ。
天皇の御用掛の寺崎英成自身にしても弁えていなければならない日本国憲法の天皇規定であったろう。
だが、「国政に関する権能を有しない」と規定されていながら、沖縄の地位に関する政治行為を行った。
天皇自身、背後からの日本政府の関与なくして為し得ない政治行為と見なければならない。日本政府が発した「天皇メッセージ」だということである。
沖縄犠牲の汚れた手で獲得した日本の主権回復・独立であるなら、胸を張って祝うことはできないことになるが、安倍晋三は逆にその日を、誇りとする意図があるからだろう、政府主催で祝典とする。
その歴史認識は理解し難い。
私自身にとっては安倍晋三の「主権回復の日」が炙り出した“天皇メッセージ”といったところである。