中山成彬の『創氏改名』は強制でない、自由だったとする主張の認識能力

2013-03-10 13:37:00 | Weblog

 日本維新の会中山成彬が3月8日(2013年)の衆院予算委員会で日本の朝鮮半島植民地支配時代の朝鮮人の姓名を日本式に改める「創氏改名」は強制ではなく、自由だったのではないか、「高校日本史の教科書3つで、創氏改名を強制したと書いてある」が、正すべきではないかと追及していた。

 果たして朝鮮人の自由意志に任された創氏改名だったのだろうか。質疑答弁の内容はインターネットで見つけたブログを、「引用転載はご自由に。連絡不要です。但し誤字などに後日気づいて修正をすることが多々ありますので、必ずこちらのURLを添えておいて下さい」の注意書きに甘えて横着して利用することにした。議員名の細字を太字に替えた。新聞記事の写真が何枚か挿入してあったが、知りたい方はどうかアクセスを。

 記事題名が示すように中山発言を肯定する観点からの記事となっている。 

 《中山成彬議員が衆院予算委で日本の真の朝鮮統治(インフラ整備、創氏改名、慰安婦など)を語ってくれました》ぼやきくっくり/2013.03.08 Friday)

中山成彬議員
「実は国際的に日本の子供たちがいじめられている話を今日はしたいんです。いま日本の留学生がアメリカやカナダで、中国・韓国の留学生に『あんたたちの祖先から自分たちの祖先は酷い目に遭った』と迫られ、肩身の狭い思いをしている。そういう話を聞いたことがありますか?」

下村博文文科相
「我が国の子供たちは日本の歴史・文化・伝統を知らない。真の国際人は真の日本人であるからこそ、諸外国の人たちともきちっと話すことができる。外国に行ってみたら自分の国のことを知らない。そのために反論できない。いじめられるというよりは、多くの日本人が留学して、自分がいかに日本を知らないかを痛切に感じ、改めて日本の勉強し直す。日本の教育を変えてほしいという話をたくさん聞いているし、指摘もあると思う」

中山成彬議員
「中国・韓国は常に『歴史を直視して、未来志向で』と言う。今日は歴史を直視するとはどういうことかを考えてみたい。日本の台湾や朝鮮の統治は、欧米の略奪だけの植民地主義とは違っていた。学校などインフラを整えた。台湾では八田技師が大変な灌漑事業をやった。ちょうど出くわしたことがあるが、5月8日には地域住民が集まり、八田の徳を偲んでいた。朝鮮でも同じようなことをしていたことを、理解してほしい」

中山成彬議員
「京城に地下鉄という新聞記事が。東京で一番古い地下鉄の銀座線、浅草-渋谷が開通したのは1939年。1940年にはもう京城に地下鉄ができた。日本が韓国の近代化にいかに熱心だったかが分かる。昭和12年時点で朝鮮の国鉄・私鉄あわせて5000キロの鉄道できていた。昭和20年までにはさらに1000キロ延長。明治32年、1899年、わが国が京城と仁川の間に鉄道敷くまで、鉄道はなかった。鉄道網を短期間につくった。左の写真は京城帝国大学。大阪帝国大学より7年早く、名古屋帝国大学より15年も早く建てられた。併合時点では公立学校は100校しかなかったが、昭和5年で1500校、昭和17年には4271校を設置した。しかも鉄筋コンクリート、煉瓦造り。日本というのは、台湾もそうだし、朝鮮にも内地と同じような統治をした」

中山成彬議員
「創氏改名は朝鮮人が望んだと麻生さんが東大で講演し、朝日新聞でたたかれた。現在、使われている検定を通った高校日本史の教科書3つで、創氏改名を強制したと書いてある。しかし、氏の創設は自由だ、強制と誤解するな、総督から注意を促すという当時の朝日新聞記事がある。内地式に変更、締切後も変更できますという記事も。決して強制ではない。創氏改名に殺到しているソウル市民という写真記事も。平成15年に麻生さん発言した時は、これら知らなかったでしょ?(麻生副総理、うなづく) 今どう思いますか?」

麻生太郎副総理
「日韓関係に齟齬を来すということで私の方からその後、記者会見で、こういった話で韓国の方々に不愉快な思いをさせたとお詫びしたと記憶しています。個人的な認識をいま改めて言うのはいかがなものかと思うが、いまは閣僚なので個人的見解は差し控えさせていただきます」

中山成彬議員
「下村大臣、教科書検定は事実に基づき行われるべきだと思います。3つの教科書、明らかに間違ってますよね。これで学んだ学生が大学入試で、創氏改名は強制と答えた場合、これは○か×か? 大きな問題になる。本来であれば回収すべき。あるいは、これを使ってる学校へ正誤表を配布するなどしてもよいのでは?」

下村博文文科相
「現在の教科書検定では学習指導要領に基づき、教科書検定審議会の学術的、専門的な審議に基づいて行われ、申請図書の具体の記述について、その時点における客観的な学問的成果や政府見解、適切な資料等に照らして、欠陥を指摘するものです。これが欠陥かどうかは、日本史大事典、国史大辞典というところでも強制したという記述が表現されている中、教科書検定においては、これは欠陥には当たらないと判断されているところです」

中山成彬議員
「そこを政治主導で、間違いは間違いとちゃんと訂正すべき」

中山成彬議員
「午前中に(質疑で)辻元清美議員がいろいろ言ってた、いわゆる従軍慰安婦問題。官憲が介入したと誤解させた最初の記事は平成4年の(朝日新聞の)『慰安所 軍関与示す資料』。ところがよく見ると、悪徳業者が募集に関与しているようなので注意するようにという通達で、全く逆なんです。当時の朝鮮の道議会選挙、当選者の8割以上の人が朝鮮人。忠清南道の知事は初代、6代、8代、9代、10代、昭和20年に至るまで全部朝鮮人。他の道も同じようなものでした。この大田警察、ナンバー2の警部、高等刑事も朝鮮人。このような体制で、官権の強制連行は考えられないんじゃないですか」

中山成彬議員
「いま慰安婦問題が世界に広まってる。ソウルの日本大使館の前に慰安婦とされる少女の像が。アメリカでも朝鮮人の多いニュージャージー州に像が建てられ、高速道路には大きな看板が出て、日本軍が女性を20万人性奴隷をしたと。日本人にとって屈辱。こういうことをさせてはいけない。だいたい20万人もの女性をさらっていく、その親たちは黙って見ていたのか。まして、日本の兵隊さん、世界一軍律が厳しいと世界から賞賛された。もちろん日本が遅れて列強の仲間入りをしたから良く見られたいこともあったろうが、根底にあるものは武士道だったと思う。立派な戦いをしたのに、こういったことで侮辱されている。看過しがたい。安倍総理のお答えは入れないが、ぜひこういうことを皆で分からないといけない」

中山成彬議員
「官憲が強制連行したのではなく、これは1枚だけ東亜日報だが、あとは全部、当時の朝日新聞。朝鮮人が日本人の良家の子女を誘拐して満州に売り飛ばしたと。農村の娘に毒牙とか。警察がしっかり仕事をしていたことが分かる。日本人が何かやったというのは、調べても調べても出てこないんです。戦前の日本は貧しかった。慰安婦にならざるをえなかった女性がいっぱいいたことを私は知ってる。いかにも朝鮮人だけが従軍慰安婦にされたとか、誤解を解いてもらいたい。午前中に辻元議員が出したが、各国で慰安婦に関する決議がなされていると。朝鮮の方は粘り強いというか、しつこいというか、すごいなと思うが、こういうことがずっと蔓延しているのは自民党にも責任ある。歴代の外交が、その場しのぎで、謝ればそれ以上追及しないという言葉に乗せられて、談話等が出された。そのツケが全部いま来ている。日本人は惻隠の情や、人を騙してはいけないと小さい頃から教えられるが、しかし、騙されるほうが悪いんだと、嘘も100回言えば本当になると、プロパガンダに励んでいる国民もいることを忘れてはいけない。我々はそういう意味で、国際社会でダブルスタンダードで生きていかねばならない。総理にはあえて答えはいらないことにしておきます」

中山成彬議員
「先の戦争は侵略戦争だったと思い込まれているが、1951年、マッカーサーは米国議会の上院の軍事外交委員会で、『日本は米国によって閉じ込められ、資源供給の道を断たれた。日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障の必要に迫られてのことだった』と明確に、侵略戦争を否定している。このマッカーサーの発言を東京都では副読本で使っている。これを全国の公立学校に配布してはどうか」

中山成彬議員
「このような地域で作成した教材のうち、優れたものは他の地域でも活用されることは大変有意義。文科省として各都道府県の教育委員会などの担当者を集めた会議などを通じて、情報の共有化を図っていく」

中山成彬議員
「いま私たちは、子供たちがどういう教科書で習ってるのか調べることは困難。平成9年、安倍総理も、亡くなった中川昭一先生などと一緒に、日本の前途と歴史教育を考える議員の会をつくった。あれは最初、中川昭一先生が自分の娘の教科書を見たらとんでもないことを書いてあるので、これはいけないというので、教科書議連をつくって活動した。いまはもう中学の歴史教科書に、いわゆる従軍慰安婦という言葉がなくなった。良かった。ぜひ、日本でいま使われてる検定教科書を見られるように、文部省のHPに全部出してほしい。中韓はすごい反日愛国教育をしている。中国からもいっぱい入って来てる。彼らがどういう教育を受けてるか知っておいた方がいい。中韓の教科書もHPに載せてほしい」

下村博文文科相
「日本の教科書を広く国民に、HP含め、より情報を提供するのは重要で、しっかり対応する。ただ、他国の教科書等を掲載するのは著作権の問題、その時の政治的、外交的な判断もあるので、できたら民間等でお考えになっていただければありがたい」

中山成彬議員
「尖閣列島の地図、上の地図は外務省HPにあるが、下の地図(「世界地図集 第一冊東亜諸国」1965年・国防研究院・中国地学研究所発行)はまだ載っていない。台湾が発行したもの。これも外務省のHPに載せてほしい。はっきりと尖閣列島は日本の領土だと明らかになっている。 日本維新の会は教育問題に一生懸命取り組んでいる。集中審議をお願いしたい。その時に、朝日新聞の関係者にもぜひ来ていただきたい。委員長にお願い申し上げます」

委員長
「後刻、理事会で取りはからいます」

中山成彬議員「ありがとうございました」(質疑終了)

 中山成彬の、いわゆる“創氏改名自由説”に対して下村文科相が「日本史大事典、国史大辞典というところでも強制したという記述が表現されている中、教科書検定においては、これは欠陥には当たらないと判断されているところです」と答弁している。

 そこで当方は、『日本史広辞典』(三省堂)を利用する。

 「創氏改名」「植民地支配の皇民化政策として、朝鮮人固有の姓を廃止して日本式の名前を名乗らせた政策。

 1939(昭和14)11月朝鮮民事令改正によって公布、翌年2月施行。同年8月までに新しい氏名の届けをさせ、改名しない者には公的機関に採用しない、食糧配給から除外するなどの圧力をかけたために、期限内に全戸数の80%が届け出た。「内鮮一体」を提唱する南次郎朝鮮総督の政策の一つ」――

 ではなぜ朝日新聞は「氏の創設は自由だ、強制と誤解するな、総督から注意を促す」といった見出しの記事を載せたのだろう。考え得ることは、戦時中の新聞は新聞紙法(1909年公布・施行)によって検閲の対象となっていたということである。新聞社は前以て記事内容を大本営等に差し出し、日本軍に不都合な内容は訂正を受けてから、発行した。

 このことが慣習となると、新聞社の方から軍に不都合と思われる記事は避け、都合のいい記事のみを書くようになったという。新聞社の権力に対する阿諛追従(あゆついしょう)である。

 大体が先祖代々の朝鮮人としての氏名を植民地支配者たる日本の法律で日本風に変えるということは朝鮮人としての意味・誇りを自ら捨てることを意味する。変えるも変えないも現実に自由であったなら、日本の権力に取り入って出世を図る、あるいは自己生存を有利に図ろうとする朝鮮人以外は誰が進んで変えるだろうか。

 創氏改名が強制とするつもりもなく、自由選択を意図していたなら、朝鮮民事令を改正して創氏改名させる必要性はなかったろう。「内鮮一体」を口実とした皇民化を先ずは氏名から始めるべく、日本風に改める必要を感じたからこその創氏改名であったはずだ。

 また、皇民化政策による「内鮮一体」と言っても、このことは2010年8月12日当ブログ記事――《韓国併合時の日本のインフラ投資が韓国近代化原動力に貢献したは正当化し得る主張なのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたが、〈「内鮮一体」と言っても、「一体」なる言葉が含意している対等性に反して、朝鮮の日本化、日本への吸収による支配的「一体」に過ぎない。当然そこには日本及び日本人による朝鮮及び朝鮮人に対する行動と精神に対する侵害が生じる。行動と精神に対する侵害とは彼らの精神の自由、行動の自由、尊厳を奪い、歪めることに他ならない。〉のだから、「改名しない者には公的機関に採用しない、食糧配給から除外するなどの圧力」を以てして初めて可能となる創氏改名であったことは容易に想像し得る。

 朝鮮全土に拡大し、日本軍に武力鎮圧され、死者7500人、負傷者4万5千人、検挙者4万6千人を出した抗日運動「三・一独立運動」は日本の植民地時代の1919年に発生している。いわば激烈な反日感情が朝鮮全土に噴き荒れていた。創氏改名を強制した1939(昭和14)11月の朝鮮民事令改正に遡ること20年前であったとしても、激烈な反日感情が収まっていたとでも言うのだろうか。

 さらに言うなら、抗日運動「三・一独立運動」から4年後の1923年〈大正12年〉)9月1日の関東大震災では、1日夕刻から、「朝鮮人投毒・放火」等の流言が広まり、自警団・軍隊・警察などによって数千人の朝鮮人が虐殺されている。

 この日本人の朝鮮人に対する人種差別は戦後まで続き、今なお少なからず残っている。

 以上の況からは特に戦時中の朝鮮半島に於いて日本人と朝鮮人との間の双方向からの親和性は、日本の植民地権力に取り入る朝鮮人以外どこにも認めることはできないはずだ。

 だが、中山成彬はこの非親和性を否定して、「当時の朝鮮の道議会選挙、当選者の8割以上の人が朝鮮人。忠清南道の知事は初代、6代、8代、9代、10代、昭和20年に至るまで全部朝鮮人」云々とさも日本人と朝鮮人が親和性を持った一致協力する信頼関係にあったかのように言っているが、ナチス・ドイツは1940年フランスに侵攻、フランス人の軍人・政治家のフィリップ・ペタンを主席とするヴィシー傀儡政権を樹立、ヴィシー政権はユダヤ人迫害法を成立させ、ユダヤ人を迫害までしている。

 一方で植民地体制に頑強に抵抗する者が存在するのに対して他方に於いて植民地権力体制への協力者は存在する。両方の観点からではなく、協力者のみを取り上げて、日本の朝鮮に対する支配を正当化することはできない。

 また、上記当ブログにも書いているが、《朝鮮人 強制連行示す公文書 外務省外交史料館「目に余るものある」》朝日新聞/1998年2月28日)に、内務省嘱託員が朝鮮半島内の食料や労務の供出状況について調査を命じられ、1944年7月31日付で内務省管理局に「復命書」を報告している。そこには日本に動員(=強制連行)された朝鮮人の留守宅の生活状況について次のように書いてあると解説している。

 〈動員された朝鮮人の家庭について「実に惨憺(さんたん)たる目に余るものがあるといっても過言ではない」と述べ、動員の方法に関しては、事前に知らせると逃亡してしまうため、「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例が多くなる」と分析。朝鮮人の民情に悪影響を及ぼし家計収入がなくなる家が続出した、などの実情を訴えている。また、留守家族の様子について、突然の死因不明の死亡電報が来て「家庭に対して言う言葉を知らないほど気の毒な状態」と記している。〉――

 中山は「京城に地下鉄という新聞記事」、「日本が韓国の近代化にいかに熱心だったかが分かる」と言っているが、北朝鮮の3代に亘る金独裁体制が体制協力者を特別市民・選民として首都平壌の特別地域に住まわせて金銭的・経済的恩恵を与える一方で、大多数の国民が飢え、飢餓状態となっている状況と同じで、京城を近代化させたとする一方だけを取り上げて日本の偉業だとする認識能力に合理性を認めることはできない。

 また中山成彬は「1951年、マッカーサーは米国議会の上院の軍事外交委員会で、『日本は米国によって閉じ込められ、資源供給の道を断たれた。日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障の必要に迫られてのことだった』と明確に、侵略戦争を否定している」と言っているが、朝鮮戦争で中国軍が参戦、アメリカ軍を主導とした国連派遣軍の最高司令官を兼務していたマッカーサーは中国共産党軍集結の満州への原爆投下、その他の軍事作戦を当時のトルーマン大統領に進言、だが、受入れられず、逆に解任された。

 この解任を受けて、多くの日本人が涙し、日本を去ることを惜しんだ。帰国すべく東京国際空港へ向う沿道に20万人の日本人が詰め掛けたと言われている。

 このような日本人の反応はマッカーサーの占領政策成功の証明以外何ものでもなかったはずだ。当然、その大成功はマカーサーにとっての栄光であり、勲章となる。 

 朝鮮戦争に於ける勲章の可能性を奪った時の政権と勲章を証明し、栄光と勲章を与えた日本及日本人を対比させたとき、日本の戦争がどのような戦争であったか証言を求められた上院の軍事外交委員会で果たして日本の戦争を否定できただろうか。

 いわばアメリカに対して恨みつらみはなかったのかということである。

 もし日本の戦争を言われているとおりに侵略戦争を起こし、非人道的な戦争行為を繰り広げたと否定的に価値付けたなら、日本人自身をも否定的に価値づけることになって、そういった日本人ということで、マッカーサーに対する価値付けも疑われ、自身の栄光と勲章を自ら否定することに跳ね返ってくる。

 マッカーサーの当時の心情を考えたとき、素直には受け取ることはできない証言としか言いようがない。

 中山成彬は「我が国の子供たちは日本の歴史・文化・伝統を知らない」と言っているが、この言葉をそのまま中山成彬に返さなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする