新しい卒業式は校長・市長の祝辞よりもトーク番組形式で別れゆく友達を知る相互理解が相応しい

2013-03-28 12:09:46 | Weblog

 卒業式のシーズンが幕を閉じつつあり、新入式のシーズンを迎えようとしている。卒業式の式次第(式次)はほぼ形式化されている。平成何年度の○○学校卒業式を開会しますの「開会式の言葉」、「君が代斉唱」、「校歌斉唱」、「卒業証書授与」、「学校長式辞」、市長や県知事の「来賓祝辞」、在校生の卒業生を送る言葉を述べる「在校生送辞」、それに答える「卒業生答辞」、そして「仰げば尊し」や「蛍の光」を全員で歌う「式歌斉唱」と大体が決まっている。

 最も最近では定番となっている「仰げば尊し」や「蛍の光」に替えて、SMAPの「世界に一つだけの花」や森山直太郎の「さくら」、長淵剛の「乾杯」を歌うケースも多くなっているという。いわば時代なのだろう。

 どんな歌であれ、式歌斉唱が最も感動的で、最も涙を誘う場面であろう。だが、感動も涙も記憶に僅かに残るとしても、一過性で長続きはしない。

 なぜなら、卒業式が終わって現実世界に戻ると、感動などザラには転がっていないからだ。

 尤も高校の卒業式となると、既に希望通りの大学受験に合格している卒業生にとっては期待に胸膨らむ思いでいるかもしれないが、逆に不合格の卒業生にとっては日々が苦い現実であるに違いない。

 何れにしても卒業は人生に於ける一つの区切りが終わり、次の区切りに向かう新たなスタートラインである。個人的には卒業式が自らの思いを新たにするキッカケを与えてくれて、人生に立ち向かう決意を奮い立たせるといったこともあるだろうが、大事なことは卒業式ではなく、小学校で6年間、中高校で3年間ずつの学校生活こそが人間形成に深く関わった大事なことであって、一見すると卒業式がそのような学校生活を締め括って次の人生に向かう転換点であるように見えるが、実際には児童・生徒個人個人が前の生活で得た自己同一的且つ実体的な経験や知識を糧に次の生活に如何に繋げつつ人間形成を高めていくかであって、その役割を卒業式が実質的に担っているわけではない。

 あくまでも個人個人が担っている人間形成であって、そのことを如何に自覚するかである。

 当然、例え来賓の市長や県知事が祝辞でいくら立派なことを述べようとも、大概は秘書が書いた原稿を読み上げるだけだと言われているが、児童・生徒のこれまでの経験と知識を刺激して、そこから新たな経験と知識を芽吹かせるような実体的な言葉でなければ、次の段階に向けた人間形成の役には立つまい。

 インターネット上にあった2010年3月1日、京都府立峰山高等学校の卒業式を一例に挙げてみる。

 中山泰京丹後市長「 本日ここに京都府立峰山高等学校 第62回卒業証書授与式が挙行されるにあたり、一言お祝いの言葉を申し上げます。

307名の卒業生の皆さん、今日の佳き日、ご卒業誠におめでとうございます。

この3年間は皆さんにとってどのような日々であったでしょうか。きっと、高き理想を持たれ充実され、そして、今、一生懸命に頑張った3年間の思い出が走馬灯のようになつかしく心を駆け巡り、感慨もひとしおのことと存じます。

今後は、いち早く実社会で活躍される方、進学される方、各々歩まれる道は変わりましても、伝統ある峰山高等学校の卒業生であることに誇りを持たれ、溢れる夢と志を抱いて、自己の信じる道を力強く、粘り強く切り拓いていかれますよう心からご期待をしています」云々――

 「高き理想を持たれ充実され」とか、「伝統ある峰山高等学校の卒業生であることに誇りを持たれ」、「溢れる夢と志を抱いて、自己の信じる道を力強く、粘り強く切り拓いていかれますよう心からご期待」とかは児童・生徒それぞれの自己同一的且つ実体的な経験と知識と響き合って、それを刺激し、高める言葉とは到底言えず、多くの来賓が口にする月並みで奇麗事に過ぎない、空疎な言葉ということになる。

 既に卒業式に何が必要かを書いた。式歌斉唱して、感動し、涙を流していっときの充実感に浸るのもいいだろう。児童・生徒が小学校で6年間、中高校で3年間ずつの学校生活で得た自己同一的且つ実体的な経験や知識に僅かな数行を付け加えて、次の生活に繋がっていく人間形成に実体的に役に立つというなら。

 だが、形式化した卒業式からはそういったことは期待できまい。

 先ずは小学生なら6年間の、中高校生なら3年間の学校生活で得た経験や知識がどのようなものであったか、それぞれが自覚しなければならない。人間形成は経験や知識に基づき、ほぼ等身大を形作るから、経験・知識を自覚することによって自らがどういった人間か確認し、そうすることが人間形成への少なくない助けとなるからだ。

 だとするなら、卒業式という学校生活の締め括りの日に従来の卒業式に代って各個人の悩みを聞き出し、解決方法を教えるカウンセラーのように卒業生全員から、小学生なら6年間の、中高校生なら3年間の学校生活での、ときにはそれ以前にまで遡ってそれぞれの経験や知識を聞き出すことで、それぞれがどういった経験をしてきたか、どういった知識を獲得するに至っているか、どういった人間として存在しているかを聞き出すと同時に自覚させる、聞き出す側が自覚の手助けをする確認作業となる手続きこそが卒業式にふさわしいということになる。

 では、どういった手続きが最適かと言うと、大勢のゲストを全面に半円形に配置して、司会者がそれぞれのゲストに質問することでそれぞれの経験と知識を聞き出して、ユーモアを交えてゲストの人となりを炙り出すトーク番組形式の卒業式が児童・生徒の経験・知識を聞き出して自覚させる形式として最もふさわしいのではないだろうか。

 大勢が集まった場所でお互いが話をして自らがどういった人間かを確認する作業は自分以外の人間の経験・知識をも知ることになって、お互いにどういった人間かを確認する相互作用となり、その確認がまた自身の経験・知識の積み重ねとなって跳ね返り、人間形成の養分となるはずだ。

 講堂に椅子を半円形に並べて、生徒それぞれにピンマイクを付けさせ、卒業生の担任を担ったすべての教師が司会役となって、生徒それぞれの経験と知識を聞き出していく。

 教師はよりよく人間像を知り得ているクラスの生徒に質問が集中しがちとなるが、クラスの生徒に限らず、生徒の発言に応じて、様々に言葉をぶっつけて、経験と知識をより深く、より広く聞き出さなければ、生徒自身の自らの人間像を自覚する手助けとはならない。

 勿論、在校生も出席して、卒業生のトーク作業を見守る。知らなかった卒業生の人となりを具体的に知り得た場合、在校生の知識・経験の糧ともなり、自身の人間形成の一助にもなり得るはずだ。

 親が離婚したり再婚したりした児童・生徒もいるだろうから、先ず離婚統計、再婚統計を話して、離婚・再婚が特別のことではないことを知らせてから、「この中に親が離婚した児童・生徒はいるか。どうだ、辛かったこと、悲しかったこと、逆に良かったと思ったことなど話してみないか。親の離婚・再婚が経験となって、これからの人生に役立つかもしれないし、話がほかの児童・生徒の人生に役立つかもしれない」と聞き出すのもそれぞれの知識・経験の相互的な自覚と相互的な人間形成に役立つのではないだろうか。

 話を聞き出す司会役の教師は親の事情とは別に、例えハンディギャップを負っていたとしても、自分自身がどう生きていくかは自分自身が決めていかなければない問題だということを教えなければならない。

 いじめ問題や体罰も取り上げなければならないだろう。

 「先生に体罰を受けた児童・生徒はいるか。イジメを受けた児童・生徒は。先生に相談したが、相談に乗ってくれなかった先生はいるか。どうだ、もう卒業していくのだから、思い切ってぶちまけてしまわないか」

 みんなの前で話すことによって辛い経験がカタルシスの手助けとなり得る場合もある。また、このことが新たな経験と知識となって、人間形成の薬味となるはずだ。

 トークが終わったところで、「君が代斉唱」、「校歌斉唱」、「卒業証書授与」、「式歌斉唱」へと進んでいく。紋切り型の校長の式辞や来賓の祝辞などは要らない。「在校生送辞」も「卒業生答辞」も要らない。

 卒業生たちが自身の経験と知識を話し合い、それを在校生が聞くことに優る送辞・答辞はあるまい。

 「式歌斉唱」がいっときの感動、いっときの涙で終わったとしても、それぞれが知識・経験を話すことで相互に知識・経験を共有し、共有することで深めた相互理解・相互信頼はなかなかに忘れることはないだろう。

 こういった児童・生徒の経験と知識を聞き出し、自分自身をどういった人間かを相互に自覚させるトーク形式の卒業式の方が従来の形式化した卒業式よりも遥かに意義あると思うが、どうだろうか。 

 願わくば、聞き出し名人の司会者さんまみたいな教師が司会役を務めたなら、他に望むことはないのだが、教師は教師同士で絶妙なタイミングで話を巧みに聞き出す練習をしなければならない。

 教師にしても言葉を獲得する訓練となる。

 以上の新しい卒業式は空想に近く、現実的でないかもしれない。だとしても、教師と生徒が教科書の問題以外の個人的な問題でも忌憚なく話し合うことの出来る人間関係の構築は望ましいはずだ。

コメント (1)
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