文科省の体罰と指導に関わる通知は学校が考える力を持たないことの証明で、通知と学校に何も期待できない

2013-03-17 10:20:45 | Weblog

 文科省が3月13日(2013年)、《体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について》なる通知を全国の教育委員会教育長や各都道府県知事等に宛てて出しのをマスコミ報道で知った。

 マスコミが「体罰と指導の違い」を伝える通知との趣旨で報道しているところを見ると、要するに大津中2男子のイジメ自殺や桜宮高2男子体罰自殺で学校や教育委員会が満足に対処し得えず、自らのその不始末をゴマカし、責任回避を図る目的で事実を隠す情報隠蔽や異なる事実を発表したりする情報操作を図ったりしたが、その一方で指導としての体罰必要論やどこまでが体罰でどこまでが指導なのかといった声が噴出したことを受けて、体罰と指導との違い、その線引きに一定の指針を与える目的での通知ということなのかもしれない。

 文科省のHPにアクセスして、件(くだん)の通知をダウンロード、その中に6年前の2007年2月5日に、《問題行動を起こす児童生徒に対する指導について》という通知を同じく全国の教育委員会教育長や各都道府県知事等宛てに出していることを知った。

 但しイジメや体罰に関する文科省通知を出すのは何も2007年が初めてではあるまい。 

 このことを前提として、2007年通知の冒頭を見てみる。

 〈いじめ、校内暴力をはじめとした児童生徒の問題行動は、依然として極めて深刻な状況にあります。

 いじめにより児童生徒が自らの命を絶つという痛ましい事件が相次いでおり、児童生徒の安心・安全について国民間に不安が広がっています。また、学校での懸命な種々の取組にもかかわらず、対教師あるいは生徒間の暴力行為や施設・設備の毀損・破壊行為等は依然として多数にのぼり、一部の児童生徒による授業妨害等も見られます。

 問題行動への対応については、まず第一に未然防止と早期発見・早期対応の取組が重要です。学校は問題を隠すことなく、教職員一体となって対応し、教育委員会は学校が適切に対応できるようサポートする体制を整備することが重要です。また、家庭、特に保護者、地域社会や地方自治体・議会を始め、その他関係機関の理解と協力を得て、地域ぐるみで取り組めるような体制を進めていくことが必要です。〉――

 「問題行動への対応」は「未然防止と早期発見・早期対応の取組」だと言い、このような対応に反することになる問題行動の隠蔽を、「学校は問題を隠すことなく」と戒め、教職員一体の対応と、学校が適切に対応できるサポート体制の整備を教育委員会に求めている。

 だが、大津中2イジメ自殺や桜宮高2体罰自殺では事実の把握を積極的に行わなかったり、あるいは怠ったりして未然防止の機会を失ったばかりか、イジメや体罰を受ける側の精神的ダメージを過小評価して自殺自体の未然防止の機会さえ失い、当然、「早期発見・早期対応の取組」を機能させることができなかった上に、自らの不始末・無能を知られないようにするためにだろう、学校は初期的には問題を隠そうとした。

 そして2007年から6年後に今回再び通知を出したということは、全国の法務局が去年1年間にいじめに関する相談を受けて調査を行った件数は3988件、前の年に比べて682件、21%増え、教職員による体罰に関する調査件数に関しては370件、前年比で91件、33%増え、いずれも平成13年(2001年)以降最多だと「NHK NEWS WEB」記事が伝えていることと、相談しなかったイジメや体罰もあるだろうから、そのことも併せて考えると、要するに多くの教育委員会や学校が文科省の2007年通知を、冒頭の文言を読んだだけでも生徒指導や教育に生かすことができなかったことを証明することになる。生かすだけの能力を持っていなかった。

 生かす能力とは考える能力を言う。

 逆に文科省にしても出した通知は多くの教育委員会や学校に対してその内容通りに生かさせる力を持たなかったことになる。

 教育委員会や学校側が生かすだけの考える能力を備えていないことが主たる理由なのだろうが、文部省側にしても教育委員会や学校側が生かすことができる内容の通達とはなっていないということも原因となっているということもあり得るはずだ。

 要するに文科省が「ハイ、通知を出しました」で終わり、多くの学校が(多分、殆どの学校でだろう)「ハイ、通知を受け取りました」で終わらせていることになる。

 教育委員会や学校にしても学校で何か問題が起きるたびに文科省から通知を受け取って、ああしなさい、こうしなさいと指導されること自体、教育委員会も学校も考える力を持たないことを意味する。

 2007年通達で、既に体罰と指導との線引きを行なっていながら、今なお線引きが問題となっていることも、教育委員会や学校の考える力の不在の証明としかならない。

 〈体罰がどのような行為なのか、児童生徒への懲戒がどの程度まで認められるかについては、機械的に判定することが困難である。また、このことが、ややもすると教員等が自らの指導に自信を持てない状況を生み、実際の指導において過度の萎縮を招いているとの指摘もなされている。ただし、教員等は、児童生徒への指導に当たり、いかなる場合においても、身体に対する侵害(殴る、蹴る等)、肉体的苦痛を与える懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間保持させる等)である体罰を行ってはならない。体罰による指導により正常な倫理観を養うことはできず、むしろ児童生徒に力による解決への志向を助長させ、いじめや暴力行為などの土壌を生む恐れがあるからである。〉等に相当する指導を体罰として厳禁し、体罰に替わる指導方法として「出席停止制度の活用」や、昭和60年2月22日の浦和地裁判決である「生徒の心身の発達に応じて慎重な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力(目に見える物理的な力の行使)が許容される」を持ち出して許可とし、有形力以外の許可例として、別紙で、放課後等の教室残留(但し用便の外出は許可)、授業中の教室内起立、学習課題や清掃活動の強制、学校当番の順番外の割り当て、叱責による強制等を挙げている。

 そして2013年の今回の通知でも〈懲戒と体罰の区別等についてより一層適切な理解促進を図るとともに、教育現場において、児童生徒理解に基づく指導が行われるよう、改めて本通知において考え方を示し、別紙において参考事例を示しました。懲戒、体罰に関する解釈・運用については、今後、本通知によるものとします。〉と、改めて線引きを行わなければならない状況に立ち至っている。

 その例として、別紙ではなく、追記の形で、〈退学(公立義務教育諸学校に在籍する学齢児童生徒を除く。)、停学(義務教育諸学校に在籍する学齢児童生徒を除く。)、訓告のほか、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為として、注意、叱責、居残り、別室指導、起立、宿題、清掃、学校当番の割当て、文書指導などがある。〉と、2007年と同様のことを指導している。

 2007年通知に続いて似たような内容の今回2013年通知を出さなければならなかったことを考えると、やはり教育委員会や学校自体が自ら考えて対処する力を持っていないことの証明にしかならないはずだ。

 さらに既に触れたように2007年の通知が初めてではないことを前提とすると、教育委員会にしても学校にしても通知の指導を生かす考える力を持たずに今日まで推移するに任せ、文科省も指導を生かすことのできる効力ある指導内容をつくるだけの考える力を持たずに延々と通知を繰返してきたことになる。

 要するに生かす力も考える力も発揮できない無為・無策の前科を重ねてきた。その間、何人かの児童・生徒を自殺という形で死なせきた。

 2007年通知には、〈昨年成立した改正教育基本法では、教育の目標の一つとして「生命を尊ぶ」こと、教育の目標を達成するため、学校においては「教育を受ける者が学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ことが明記されました。〉と書いてあるが、「未然防止と早期発見・早期対応」を機能させることができずに何人かの児童・生徒を死なせてしまった教育委員会や学校の責任回避からの繰返される情報隠蔽や情報操作からは「生命を尊ぶ」姿はどこにも見えてこない。

 こういった経緯から、今回改めて通知を出したとしても、何かを期待できると言えるのだろうか。

 学校の教師にしても暗記教育で育ったから、自分たちが進んで対処する方法を見い出していこうとする自律的に考えていく力を持たなかったことが原因のように思えて仕方がないし、文部省の役人にしても、暗記教育形式で上に立つ者として、ああしろ、こうしろと口を出さずにいられないから、下の自律性をいつまでも阻害する悪循環が通知の無力を誘発しているように思えるが、どんなものだろうか。

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