文科省は学校教科書を厚くして、何を解決しようとしているのか

2013-03-30 10:46:05 | Weblog

 ――企業の「処理能力優秀な指示待ち人間」評価は東大生に限らない――

 3月22日(2013年)放送のTBSテレビ「ひるおび」で、企業の東大卒業生に対する評価を次のように紹介していた。

 「東大生は企業から見ると処理能力は優秀だが、 指示待ち人間が多い」――

 パソコンを叩きながらで、しっかりと聞いていたわけではなく、この紹介しか頭に入って来なかった。

 評価の意味は全員が全員そうではないが、総体的に指示した仕事の処理能力には力を発揮するが、それだけの才能しか持っていない人間が多いということであろう。何しろ仕事の指示を待ってから、その仕事を、多分二流三流大学の卒業生顔負けの鮮やかさで処理する点に関しては長けているということなのだから。

 いわば指示がなくても必要とする仕事を自ら率先して創り出し(創造し)、取り組み、成果を上げていく果敢な姿勢を持ち合わせている東大卒業生は少ないと言っているのである。

 だが、こういった評価を聞いたとしても、驚かなかった。2010年7月11日放送のフジテレビ「新報道2001」で、既に建築家の安藤忠雄が自らの経験から言い当てていたからであり、言い当てるの待つまでもなく、こういったことが暗記教育の成果だと兼々考えていたからだ。

 このことは2010年9月23日当ブログ記事――《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く(1~7) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。

 須田アナ「安藤さんところに優秀な新人が入ってきたそうですが、如何ですか、期待度は?」

 安藤「優秀な、学校だと言うだけでは。優秀な学校だと言われている学校だけれども、先ずは自分から一歩踏み込むことはしないから、言われたことはやる。だけどそれ以上のことはやらない」

 須田アナ「そしたら、どんどん言うんですか?どうなんですか?」

 安藤「私はどんどん言います。朝からバンバン言いますが、掃除ひとつできない」

 吉田恵アナ「言い続けていくと、どの方向にどんどん変わっていくのですか?」

 安藤「ちょっと遅いですけどね、大学出ていたら、24でしょ?」

 須田アナ「へこたりませんか、安藤さんの強い言葉にパッパと言われると」

 安藤「大阪弁で喋る。何か恐怖感を持つらしいですよ」

 須田アナ「あの、社会に羽ばたくにはやはりチャレンジ精神ですかね?」

 安藤「ですね。やっぱり強い気持ちを持たないといけないと思います」

 安藤忠雄建築事務所には東京大学工学部建築学科卒や京都大学工学部建築学科卒等、錚々たるメンバーを採用しているそうだが、「自分から一歩踏み込むことはしない」、「言われたことはやる」、「それ以上のことはやらない」と言っているのだから、「ひるおび」で紹介した企業の東大卒評価と何ら変わらない。

 要するに決められたレールに乗って走ることは得意だが、レールから飛び出すことは知らない。

 しかも、「掃除ひとつできない」動作状態にある。例えこれまで部屋の掃除は母親任せで、一度の経験がなく、初体験であっても、どう手を付けたら効率よく綺麗にできるかを先ず頭で考えながら、兎に角試行という名の実行に移してみて、試行の過程で今まで経験してきたことからの応用をも含めてよりよい方法を見つけ出していくことが掃除に限らず、経験したことのない仕事に取り組む場合に求められる姿勢であるはずだが、経験したことのない仕事の場合は指示されても満足にできないというのでは、挑戦という文字は自らの辞書の中に存在させていないことになる。

 尤も私自身挑戦の姿勢ゼロだから、あまり偉そうなことは言えないが、私は大学にも行っていない人間で、天下の東大と言われている大学卒である以上、挑戦に縁のない姿勢と言うことなら、「天下」という名称が泣くことになる。

 頭脳優秀だと言われていて、創造的な知性・教養の発揮に関しては先頭に立っていいはずの天下の東大卒が一般的に指示された仕事の処理能力は優秀だが、指示されない仕事に関しては自ら必要性を見い出して創り出していく、仕事の創造と挑戦に劣るということなら、他は推して知るべしの全体的に創造性と挑戦的態度を欠いていることになる不満足な知性・教養は保育・幼稚園、小中高、大学生活の蓄積の上に成り立っているはずだ。

 いわば保育・幼稚園、小中高、大学とも、そこで伝達する知識・情報が創造的な知性・教養の涵養と挑戦的姿勢の涵養に役立っていないことになり、東大卒業生ですら、このような人間像を成果としているということであろう。

 原因は兼々言っているように保育・幼稚園、小中高、大学の全体を覆う日本の教育が考えるプロセスを介在させていない暗記教育だからなのは論を俟たないはずだ。

 当然、解決すべき方向性は既に決まっていることになる。

 文部科学省は3月26日(2013年)、2014年度から使用の高校2・3年生向け教科書の検定結果を発表している。1年生向け教科書の検定は昨年度終えているそうで、1・2・3年生全体の主要10教科の平均ページ数は現行版に比べ15%増えたという。

 小学校も中学校も教科書のページ数が増えている。インスタントラーメンとかの増量宣伝ではないが、教科書のページ増量が時代的趨勢であるようだ。

 文科省の学校教科書増量作戦は解決すべき方向性に的確に歩を進めているのだろか。

 いわば「東大生は企業から見ると処理能力は優秀だが、 指示待ち人間が多い」という企業の評価を払拭し、併せて他の卒業生にも応用できる方向に確実に向かう保証を備えているのだろうか。

 教科書が問題ではなく、日本の教育システム自体が問題となっているのであって、そこに生徒が自ら考えるプロセスを介在させなければ、精々可能なことは暗記量の増量に手を貸すだけのことで、考える力の増量とはならないはずだ。

 単に教科書のページ数を増やしただけでは東大卒業生を筆頭とした不満足な知性・教養人間の増量に手を貸すだけのことで終わりかねないように思える。

 この懸念は愚かな杞憂に過ぎないのだろうか。

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