安倍晋三のその国家主義的歴史認識が国会で追及に遭遇している。但し首相に就任前は威勢いい自らの歴史認識をご披露に及んでいたが、国会では終始一貫、「いたずらに外交問題、政治問題にするべきではない」とか、「政治問題化、外交問題化をしていくことを配慮していくべきだ」とか言って、打って変わって頑なに口を噤んで自らの主張に臭い物に蓋をしている。
昨日、3月8日(2013年)の衆院予算委でも辻元清美が歴史認識で追及していた。
辻元清美「(安倍首相は)いたずらに政治問題化、外交問題化させるべきではないとおっしゃった。選挙中になぜこの問題が取り上げられることになったかというと、慰安婦の問題で直接・間接に日本が関与したことを認め、お詫びと反省を表明した、1993年の河野談話を見直すという趣旨の発言を繰返されたことから端を発している。
総理がおっしゃる外交問題、どこの国とどういう問題になるんでしょうか」
安倍晋三「どこの国とどういう問題になるということを総理大臣の私が申し述べることが外交問題ですか(笑いを漏らしながら)、繋がって参りますので、それは答弁は控えさせて頂きます」
同じ答弁で逃げてばかりいるから、自分でも呆れてつい笑いを漏らしてしまったのだろう。だが、この心理の裏には同じ答弁で逃げることを決めている決意の強さを窺うことができる。
とすると、河野談話や従軍慰安婦問題等の歴史認識に関わる追及は政治問題化・外交問題化を避けるとする安倍晋三の論理自体を打ち破る必要がある。
だが、辻元清美はそうする意図は頭になかったようだ。
1993年の《河野談話》(外務省HP)が「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と日本軍の強制性を認めていたことに対して辻元清美の2007年3月の安倍第1次内閣に対する質問主意書の答弁書が、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と強制性を否定していて、これが閣議決定された答弁書であることから、例え河野談話が閣議決定されたものではなくても、歴代内閣が河野談話を踏襲していくとしたことと矛盾しないかといった趣旨の追及を行ったことに対して、安倍晋三は次のように答弁している。
安倍晋三「矛盾はしておりません。なぜ矛盾していないかということについて、お話させて頂きたいと思いますが、それはいわば、歴代の内閣に於いて答弁してきた。
あなたは今、たまたま質問したことについて閣議決定した。つまり、質問主意書って出されたのは重たいんですよ。閣議決定しますから。閣議決定。全員の閣僚の、いわば花押を押すという閣議決定なんです。
今、そこでです、その重たい閣議決定をしたのは初めて。その重さの中で、では果たして、そうしたファクトについて、どうなったかということについては、様々な資料がございます。そういうことについて、むしろその場でですね、え、外交問題に発展するかも知れないという場に於いて、ここで議論するよりも、静かな場に於いて、ちゃんと見識を持った、専門家同士がちゃんと議論すべきだろうと、いうのが私の考え方であります。
つまり、何の、私は矛盾していないということは、はっきりと申し上げて、お・き・た・い・と・お・も・い・ま・す」
最後は小馬鹿にするように一語一語区切って、席に就いた。要するに閣議決定した内容だから重たいことを以って、矛盾していない理由とする矛盾を犯している。
この程度の認識能力だということなのだろう。
閣議決定されていなくても、一方に於いて日本軍の強制性を認めた河野談話が罷り通っていて、その一方でその強制性を否定した安倍内閣閣議決定が罷り通っていることの矛盾は打ち消し難く存在する。
一つの事実に統一すべきであって、それが「静かな場に於いて、ちゃんと見識を持った、専門家同士がちゃんと議論」することが望ましいというなら、審議会なりを設けて決着をつけるべきが、河野談話の強制性を否定した者の果たすべき責任であるはずだ。
その責任は政治問題化・外交問題化を避けるという姿勢の一貫性を矛盾なく貫く責任よりも重たいはずだ。
政治問題化・外交問題化を避けるとする安倍晋三の論理を打ち破るカギが2月7日(2013年)衆議院予算委員会での前原誠司の質問と安倍晋三の答弁の中に見い出すことができる。
前原誠司「去年の9月12日、自民党総裁選挙立候補表明。強制性があったという誤解を解くべく、新たな談話を出す必要があると御自身がおっしゃっている。菅さんがおっしゃっているんじゃない、御自身が総裁選挙でおっしゃっている。総裁になれば政権交代で総理になる、そういう心構えで総裁選挙に出た総理がおっしゃっている、御自身が。
そして、討論会、9月16日。『河野洋平官房長官談話によって、強制的に軍が家に入り込み女性を人さらいのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている、安倍政権のときに強制性はなかったという閣議決定をしたが、多くの人たちは知らない、河野談話を修正したことをもう一度確定する必要がある、孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない』。総裁選挙の討論会でおっしゃっている。これは御自身の発言ですよね。
安倍晋三「ただいま前原議員が紹介された発言は全て私の発言であります。そして、今の立場として、私は日本国の総理大臣であります。私の発言そのものが、事実とは別の観点から政治問題化、外交問題化をしていくということも当然配慮していくべきだろうと思います。それが国家を担う者の責任なんだろうと私は思います。
一方、歴史において、事実、ファクトというものがあります。ファクトについては、これはやはり学者がしっかりと検討していくものであろう、こう申し上げているわけであります。
そして、その中におきまして、例として挙げられました、辻元議員の質問主意書に対して当時の安倍内閣において閣議決定をしたものについては、裏づけとなるものはなかったということであります。いわば強制連行の裏づけとなるものはなかった。でも、残念ながら、この閣議決定をしたこと自体を多くの方々は御存じないんだろう、このように思います。
ですから、そのことも踏まえて、いわば歴史家がこれを踏まえてどう判断をしていくかということは、私は必要なことではないだろうか、こう思うわけであります。
しかし、それを総理大臣である私自身がこれ以上踏み込んでいくことは、外交問題、政治問題に発展をしていくだろう。だからこそ、官房長官が、もう既に記者会見等で述べておりますが、歴史家、専門家等の話を聞いてみよう、こういうことであります。私は、これが常識的なとるべき道であろう、このように考えております」――
外交問題化・政治問題化回避の姿勢の一貫性はいずれの国会答弁に於いても同じであるし、「ファクト」(=事実)については学者に任せるべきだとする主張も同じである。
だが、ここでは強制性を否定した閣議決定により、「河野談話を修正した」としている。但し、「多くの人たちは知らない」から、「もう一度確定する必要がある」と発言したのは事実だと。
さらに強制性がないにも関わらず、強制性があったとする「河野洋平官房長官談話によって、強制的に軍が家に入り込み女性を人さらいのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている」と言い、「孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」とまで言っている。
河野談話を「不名誉」と価値づけたことは、閣議決定により強制性がなかったことを事実としたという意味となる。
事実としていなければ、「不名誉」と断定することはできない。いわば閣議決定の時点で、強制性はなかったことを事実としたのである。
安倍晋三の言葉を使うと、強制性はなかったことをファクトとしたのである。
強制性がなかったことを自ら事実(=フェクト)としたなら、何も専門家だ、学者だを集めて、検討する必要はない。世界に向けて河野談話を否定し、自らの閣議決定を以って新たな談話とすればいい。
また、「孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」は河野談話に関わるあるべき国の姿・国の形を語ったことになる。
「この不名誉」が続く限り、安倍晋三が掲げる「美しい国」は訪れないというわけである。いわば河野談話否定を「美しい国」の要件の一つとするあるべき国の姿・国の形を語った。
野田前首相にしても首相時代、消費税を増税し、それを社会保障費使途として財政健全化を図ろうとすべく、「将来世代に負担を残すのではなくて、今を生きる世代が連帯して負担を分かち合うという理念」(首相就任記者会見/2011年9月2日))を持ち出しことも、あるべき国の姿・国の形を語ったことになるはずだ。
だが、野田首相は消費税増税法案を通すために自公に対して解散を交換条件とし、結果、政権まで失うことになった。
安倍晋三にしても、河野談話を孫の代まで残さないことを名誉ある国の姿・形だと発言した以上、政治問題化・外交問題化を恐れずに、あるいは政治問題化・外交問題化することに用心することなく大胆に河野談話の抹消に動き、従軍慰安婦の日本軍による強制性はなかったとするファクト(=事実)を日本政府の公式見解として打ち立てるべきであり、その責任を負っているはずだ。
だが、政治問題化・外交問題化を恐れて、自らの信念に従って直接行動することを用心深く避ける小心さを見せている。