成年後見制度選挙権喪失違憲判決の現代大岡裁きに見る判断の権威主義的一律性の崩壊

2013-03-15 10:30:40 | Weblog

 茨城県牛久市の名児耶匠(なごや・たくみ)さん(50)が選挙があるたびに楽しみにして投票所に出かけ、投票する選挙権を行使してきたが、ダウン症で知的障害がある彼女の将来を考えてのことなのだろう、6年前の2007年に父親と妹が彼女に代わって財産管理を行う2000年開始の成年後見制度を利用して後見人となり、彼女自身は成年被後見人となった。

 但し問題があった。公職選挙法では後見人がついて成年被後見人となると選挙権を失うと規定されていて、彼女は選挙権を失い、楽しみにしていた投票の権利を奪われることとなったという。

 そこで匠女史は敢然として立ち上がり(多分)、「障害者を守るはずの制度が逆に権利を奪うのはおかしい」と東京地裁に国を相手取り訴訟を起こした。

 《成年後見制度で選挙権喪失 違憲判決》NHK NEWS WEB/2013年3月14日 14時47分)

 NHKテレビでは匠女史は選挙公報を熱心に読み、誰に投票するか決めていたと、確か話していた。

 昨日、3月14日(2013年)午後、判決が降りた。

 定塚誠東京地裁裁判長「選挙権は憲法で保障された国民の基本的な権利で、これを奪うのは極めて例外的な場合に限られる。財産を管理する能力が十分でなくても選挙権を行使できる人はたくさんいるはずで、趣旨の違う制度を利用して一律に選挙権を制限するのは不当だ。

 (彼女に)どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張っていい人生を生きてください」

 記事解説。〈成年後見制度の選挙権については全国のほかの裁判所でも同じような訴えが起きていますが、判決はこれが初めてです。

 平成12年に始まった成年後見制度で後見人がついた人は最高裁判所のまとめで全国で13万6000人に上り、高齢化が進むなかで利用者は増え続けていて、判決は国に法律の見直しを迫るものとなりました。〉――

 匠女史(勝訴に)「うれしいです」

 記者「今度の選挙に行こうと思いますか」

 匠女史「思います」

 名児耶清吉氏(父親の)「うれしかったです。裁判長にあそこまで言ってもらえるとは思わなかった。

 それまで選挙に行けたものが成年後見制度を利用したとたんに行けなくなるというのは明らかにおかしいと思っていた。判決で裁判長がきちんと述べてくれたのはわが意を得た思いだ」

 裁判長が判決文を読み上げるだけで終わらずに、「どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張っていい人生を生きてください」という言葉を添え、彼女に対する餞(はなむけ)としたことは大岡裁きそのものであろう。

 【餞】「旅立ちや門出に際して激励や祝の気持ちを込めて、金品・詩歌・挨拶などの言葉を贈ること」(『大辞林』三省堂)

 裁判長は選挙権行使を通した社会参加への再度の旅立ちと把えて、「堂々と胸を張っていい人生を生きてください」と励ましの言葉を贈った。

 励ましの言葉通りの状況となるべきが人間の当然の権利だとの思いが判決を導いたということもあるはずだ。

 訴えと判決が何を問題としたかというと、法律によって人間の判断能力を権威主義的に一律的に判断し、価値付け、制限を加えたことであろう。NHKテレビでは彼女はおカネの勘定が苦手だとか言っていたが、だからこその成年後見人制度の利用ということなのだろうが、成年被後見人になったことを以って公職選挙法はすべての判断能力を不十分と見做して、選挙の権利を遮断した。

 《裁判長「堂々と胸張って生きて」 成年被後見人の選挙権、安易な制限に警鐘》MSN産経/2013.3.14 20:49)が彼女の日常生活を紹介している。

 〈匠さんは養護学校卒業後、30年近くにわたり雑貨のラベル貼りなどの仕事に従事。休日にはスポーツジムに通ったり、趣味の編み物を楽しむ。中程度の知的障害を抱えるが、ごく普通の日常を送ってきた。
 テレビのニュースにも関心を寄せ、成人後は選挙公報を熱心に読み込み、欠かさず投票所に足を運んだ匠さん。しかし、平成19年の参院選以降、選挙案内のはがきは届かなくなった。清吉さんが匠さんの将来の財産管理に備え成年後見制度の利用を申し立て、後見人に選任されたためだった。〉――

 私自身が使っている「権威主」義という言葉を改めて説明すると、上を上位権威に置き、下を下位権威に位置づけて、上の権威が下の権威を従わせ、下の権威が上の権威に従う上下の従属的関係性を以って権威主義と言っている。

 成年後見人制度に関わる公職選挙法の判断(=規定)に不合理性を抱えていながら、公職選挙法を絶対的な上位権威と見做して、その判断(=規定)を、法律が定めているから絶対だとする体の権威主義的固定観念とし、下位権威に置いた有権者をその判断(=規定)に一律的に従わせて固守させる権威主義が力学として働いていたということであろう。

 例えばかつては東京大学出身者は東京大学に入学して卒業したという事実のみで頭脳明晰、人格的にも優れた人物と見做され、上位権威者として社会一般に価値づけられていたために自ずと東大以外の大学卒業生や大学等の学歴のない者と社会的にも経済的にも、さらに社会的評価の点でも権威主義的上下関係を築くこととなっていた。

 このことは上層官僚の多くが東大出身者によって占められていたことと一流大学出身ではない者は一般的にはキャリアになれないことが東大卒と一般大学卒との間の権威主義的上下関係を証明し、その反映でもあった。

 だが、東大卒等のキャリア官僚でありながら、公金の私的流用や不正接待、収賄等の事件や不祥事が情報化社会を受けたマスコミ等の報道媒体によって広く知られるようになり、上位権威としてのメッキが剥がされ、その権威を失墜する事態が頻繁に生じた。

 このことは政治家も証明している。東大出身者にもロクでなしがゴロゴロいることが分かってきた。鳩山由紀夫・邦夫兄弟然り。朝言うことと夕方言うことが違うと言われている原口一博然り。

 調べれば、いくらでも例を挙げることができるはずだ。

 いわば能力や人格は東大卒等を絶対的権威として価値づけ、判断するのではなく、人物の個々で判断し、価値づけるべきだと分かってきた。

 そうでありながら、公職選挙法は有権者の能力を個別に判断し、価値づける時代的な人物評価に逆行して、今以てその法律を絶対的権威と見做して、成年後見人制度によって成年被後見人となった者は選挙立候補者の人物判断は不可能だと一律的に判断し、価値づける不合理性を法律的解釈とし、固定観念としていることから免れないでいた。

 そして今回裁判によって指摘を受け、公職選挙法所管省庁である総務省が対応を迫られることとなった。

 人物の能力判断の権威主義的一律性の崩壊を意味するはずだ。

 法律では一般的には何ら制限を設けていない権利を法律によって特定の人間に制限を課す場合、その制限に意義を申し出る者に対しては法律を絶対的権威として権威主義的に一律的に判断するのではなく、人物個々で制限に値するか否かを判断し、価値づける思考の柔軟性が求められる時代に、あるいは社会に入っているはずだが、あくまでも法律を絶対的権威とする権威主義を墨守し、そこから一歩も出れないでいた。

 今回の成年後見制度で言えば、当地の選挙管理委員会が面接すれば、済んだ話である。面接によって法律の規定に適合しない例外に気づけば、当然、選挙管理委員会の総務省に対する申し出によって法律の改正に迫られることになる。

 勿論、法律の改正を待つのではなく、例外規定として総務相が通達か何かで次の選挙に間に合わせる権利の回復は必要であろう。

 上記NHK記事が他の裁判所でも同様の訴訟が起きていると解説していたが、訴訟という手間と時間をかけなくても、物事の決定にスピードと柔軟性ある社会の実現を必要としているはずだ。

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