下村博文は教育行政を与る者としてウソをついたなら、教育の参考とはならない

2014-11-13 08:32:58 | Weblog


 ――下村博文の「日本はESDに積極的に取り組んできた自負がある」は事実か――

 「持続可能な開発のための教育(ESD)に関するユネスコ世界会議」が名古屋市で2014年11月10日に開幕、昨日の12日まで行われたという。

 「持続可能な開発のための教育」とは、〈持続可能な開発の実現に必要な教育への取り組みを推進するために国連が実施しているキャンペーン。期間は2005年から2014年で、略して「ESDの10年」と呼ばれる。2002年の第57回国連総会で満場一致で決議された。2005年に国際実施計画が策定され、日本でも実施計画が発表された。その締めくくりとして、2014年11月に名古屋市でESD世界会議が開催される。〉とインターネット上で紹介されている。

 「ESD」は「Education for Sustainable Development」の略だそうだ。私自身は意味を取るために辞書を利用しなければならない。「Education」が「教育」という意味は知っている。「Sustainable」は「維持できる」という意味だそうで、「Development」は「発達」とか「開発」とかの意味。

 要するに人類の生活を維持していくために持続可能なバランスの取れた開発のための教育を子どもの頃から学ぶようにしていこうという試みなのだろう。

 下村博文は開催国の担当大臣として出席し、「ハイレベル円卓会議」では、ボコバ事務局長と一緒に共同議長を務めたと記者会見で述べている。皇太子夫妻も出席し、ユネスコ世界会議全体会合前日の日本政府主催歓迎レセプションでは下村博文は英語で挨拶したそうだ。

 どうせ役人が書いた英文なのだろう。

 11月10日の開会式での下村博文の挨拶と、「ESD」の教育方法について次の記事、《新たな教育の在り方は 世界会議開幕》NHK NEWS WEB/2014年11月10日 12時02分)が伝えている。

 先ず「ESD」の教育方法についての解説。

 〈ESDは、教師が一方的に教えるのではなく、子どもたちが自分で課題を考えて調査したり議論したりしながら解決方法を考えていきます。

 その過程で他人と協力する経験や異文化を理解する力を身に付け、環境問題や民族対立など国際社会が抱える課題を解決する人材を育てようというもので、各地の学校で取り組みが進められています。〉――

 「持続可能な開発のための教育」とは地球環境に配慮しつつ開発を進めていく教育だけではなく、紛争や戦争についても学んで、それらのない平和な世界の構築を視野に入れた教育をも壮大にも意図しているようだ。

 では、下村博文の挨拶。

 下村博文「日本はESDに積極的に取り組んできた自負がある。さらに広がるよう国際社会にも働きかけていきたい」――

 「日本はESDに積極的に取り組んできた自負がある」。結構毛だらけ、猫灰だらけ。

 「ESD」とは、教師が一方的に教えるのではなく、子どもたちが自分で課題を考えて調査したり議論したりしながら解決方法を学ぶ教育だと言う。

 この能書き、どこかで聞いたことがある。「総合学習」とはどのような学習を言うのかを解説する能書きとそっくりである。

 《総合的な学習の時間》文科省) 

 〈総合的な学習の時間は、変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることなどをねらいとすることから、思考力・判断力・表現力等が求められる「知識基盤社会」の時代においてますます重要な役割を果たすものである。〉――

 前者の教育も後者の教育も、教師が一方的に教える、児童・生徒側の従属性を排して、主体的姿勢の学びを求めている点に於いて同じ構造を取っている。

 1977年の学習指導要領第4次改訂で詰め込み教育を反省して「ゆとりと充実」を掲げ、「ゆとりの時間」を導入。1998年の学習指導要領第6次改訂で「ゆとりの時間」の活用策として「総合的な学習の時間」の創設、2005年から段階的な実施に移行した。

 だが、学力の低下を受けて、2008年以降、日本の教育行政は「脱ゆとり教育」へと突っ走り、詰め込み教育へと回帰していった。「ゆとり教育」で減らした授業時間と教育内容を逆に増やして、教科書を厚くし、2007年の小6・中3の全国の生徒の成績を知るための全国学力テストに始まって、教育の成果をテストの成績で計測する全国学力テストを毎年行うようになった。

 「教師が一方的に教える」教育への回帰でもある。

 「総合学習の時間」は残されているが、小学校6年生で総授業時数980時間のうち35時間のみ、中学校1・2・3年生の場合は、総授業時数1015時間のうち同じく35時間のみの細々とした状態で維持されている。

 大体が「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」主体的学びをテストの点数で計ることができると考えること自体が間違っている。

 この主体的学びは生きる力そのものの学びを意味する。これをもしテストの点数で計ることができたなら、学校の勉強はまるきりできなかったが、世に出て成功したといった例は存在しなくなる。

 私などはその逆で、学校の勉強はそれなりに出来たが、世に出て成功せず、失敗し、負け犬となった最大の一人であって、生きる力は学校の成績(テストの成績)では計ることができないことの格好の例となる。

 ブログに何度も書いてきたが、「総合学習」が目指す主体的学びを眼目とした教育はすべての教科に必要な重大な仕掛けでありながら、「総合的な学習」と名づけて特別授業仕立てで行い、他の教科殆どを学校で教える知識・情報を詰め込んでテストの点数に還元する詰め込み教育を主流としている。

 このことは全国学力テストで基礎的な知識を見る「問題A」と知識を活用する力を問う「問題B」に分けた出題で「問題A」よりも「問題B」の正答率がおしなべて劣っているところに象徴的に現れている。

 各学校がテストの成績の底上げのために知識を活用する力を問う「問題B」についても過去のテストの設問を使った“傾向と対策”に躍起となって取り組んでいるはずで、にも関わらず知識を活用する力を望む形でつけることができないでいる。

 前者・後者の差が最大で20ポイント近く、最小で10ポイント近くある。「活用する力」は考える力を必要とする。考える力は断るまでもなく、総合学習が眼目とした「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」主体的学びによって培うことができる。

 つまり日本の教育行政は考える教育を満足に機能させることができない状態に陥っている。

 であるなら、下村博文が「ESD(持続可能な開発のための教育)」に「日本は積極的に取り組んできた自負がある」と、さも児童・生徒に「持続可能な開発のための教育」を体得させることができたかのように言うのは、同じ教育構造の「総合学習」を十分に機能させることができなかったことと矛盾するウソの言葉となる。

 もし、〈教師が一方的に教えるのではなく、子どもたちが自分で課題を考えて調査したり議論したりしながら解決方法〉を学ぶ教育形式に基づいた「持続可能な開発のための教育」を体得できていなかったとしたら、「積極的に取り組んできた」ことにはならないし、そのように言うこともできない。

 また、この「自負」発言自体が「ESDに関するユネスコ世界会議」出席翌日の記者会見での発言と矛盾している。

 下村博文「ESDそのものが、知名度が我が国でも2割しかない」(「下村博文記者会見」文科省/11月11日)  

 2005年から2014年の10年間行われてきた「持続可能な開発のための教育(ESD)」である。もし児童・生徒がこの教育を通して課題を見つける力・調査する力・考え議論する力を身につけることができていたなら、その変化に保護者である親が気づかないはずはない。「持続可能な開発のための教育(ESD)」のお陰だと感謝して、当然認知度は上がる。

 だが、認知度は2割しかない。この認知度は「総合学習」と連動させた「ゆとり教育」に拒絶反応を示して、学力向上教育(と言うとき声はいいが、所詮詰め込みでしかない教育)を求めた親たちの、その拒絶反応に匹敵する無関心の程度を示しているはずだ。

 下村博文は教育行政を与る者である以上、ウソをついてはいけない。児童・生徒たちが大臣がウソをついたのだから、自分たちのウソも許されると考えるようにならないとは限らないからだ。

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