日本人の危機管理

2006-12-17 06:53:16 | Weblog

 小学校教諭自作HPの自動車事故被害児童写真無断転載問題から見る

 小学校教諭でありながら、自作ホームページに自動車事故で被害者となった女子児童の写真を無断で転載し、性的興味の対象とした。それも一度同じような犯罪(過ちではない)を犯していたという。再犯は本人の資質に関係するだろうが、教育委員会や学校の危機管理無能力がそれを許したとも言える。

 羽村市教育委員会教育長・角野征大の謝罪記者会見の謝罪の言葉、メモを見ながら、「遺族のみなさんの心痛をお察ししますと慚愧の極みに耐えません。誠に申し訳ありませんでした」

 そして居並んでいた関係者と一堂一斉に頭を深々と下げる。

 この程度の謝罪の言葉を予めメモに書き入れて用意しなければならないのは、謝罪記者会見が彼らにとって一度は開かなければならなかった儀式でしかなかったのだろう。だから、口にした言葉自体が「挨拶文例集」といったマニュアル本から書き写したような紋切り型の謝罪となっている。市の教育委員会の教育長委員でございますと言っても、その誠意・人格はこの程度なのである。

 記者の「ホームページは見たことありますか」の問いかけに誰も答えない。「誰も見ていないのですか」の再度の問いかけに、後藤良秀教育委員会参事が「報道で見た物が私たちが確認したものなんです。今言われましたようにですね、私どもは既にホームページを閉じ情報と機器等が警察の方に押収されたということでですね、その段階でホームページそのものは完全に閉じられていて、今もホームページがあってですね、それが閲覧できるというようなことを判断しておりませんでした」

 いじめ問題が起きて、いじめた側が謝罪して収まった。だからと言って、そのいじめが再発しない保証はどこにもない。再発しないか、いじめられた生徒・いじめた生徒に必要に応じて問いかけを行うといった観察が必要なはずである。「仲良くやっているか?」といったふうに。周囲の生徒からの聞き取りも続けなければならないだろう。それが事後管理というものである。

 だが多くの学校、教師が放置したままとし、いじめの継続を許してしまう。

 警察の手が入って、閉鎖命令を受けたHPの内容を確認し、その教師の知られざる人となり(周囲の目に隠れて行っていた行為から判断できる裏の顔)を追及して、教師としての適格性を問い正すといったことをしたのだろうか。HPがどのような内容か確認しないまま、懲戒免職するほどの重大犯罪ではない、軽犯罪に過ぎなかったからと、教師の地位を保障したのだろうか。

 少なくとも、警察問題を一度起こしたのである。再度同じことを繰返す可能性を考慮して、犯罪出所者等に行う保護観察と同等のその後の生活態度を観察する措置を講ずべきだったろう。再び同じようなHPをインターネットに載せていないか本人に聞き質すことは最低限行うべきだったはずである。

 それでも犯罪を犯す人間は犯す。警察の存在を以てしても、あるいはどのような法律を以てしても、この世から犯罪はなくならないのだから。

 しかし事後管理を尽くすことが人事に関わる職務への責任遂行に当たる。地震や洪水といった自然災害に対する事後的な危機管理、あるいは脱線事故やその他の人為的事故後の危機管理、あるいは児童虐待防止やいじめ自殺防止といった犯罪予防に関する事前的な危機管理だけではなく、当然行うべき事後に関する危機管理等々、すべてに亘って危機管理が機能しない状況が蔓延するに任されている。一人教育委員会の問題ではない。

 なぜ日本人は危機管理能力が劣るのか。権威主義を行動様式としているからに他ならない。上の命令・指示に従うことに慣らされていて、命令・指示、あるいはマニュアルに含まれる〝しなさい〟という他者からの発動を行動の必要不可欠な条件としているからである。だからこそ指示待ち症候群と言われる。指示を待った上で行動したとしても、指示が同じだから、横並び現象を引き起こす。それを以て横並び症候群と言うのだろう。

 平成13年12月25日に閣議決定した公務員制度改革大綱には「しかしながら、行政の組織・運営を支える公務員をめぐっては、政策立案能力に対する信頼の低下、前例踏襲主義、コスト意識・サービス意識の欠如など、様々な厳しい指摘がなされている」との一文が記されている。

 上記文中にある「前例踏襲主義」とは、まさしく〝マニュアル主義〟、〝横並び主義〟の言い替えでしかない。「前例」をマニュアルとする、あるいは「前例」に横並びさせる。結果として発展もない「前例」の同じ「踏襲」(=繰返し)が続く。

 男性教諭が勤務する小学校の女性校長、保護者会を開いたあと、記者に問われて、「そのHPに保護者の方はそれが自分の子どもが載っているかどうかって言うところの辺り、そこをどういうふうに今後確かめて、まあ、教育委員会が確かめていくのかという辺りで、ええ、何回か質疑応答がありました」

 それが未遂の状態であったなら当然のことだが、例え既遂状態であっても、表現の自由の問題が絡んでくるから、所持品としているパソコン内を探るわけにはいかないだろうし、同じようなHPをアップロードしていないかインターネット上を検索するのも、数多くあり過ぎて不可能に近く、上記したように事後の本人の生活態度・行動を監視、あるいは観察するしかないだろう。件の教師だけではなく、生徒の側から見たすべての教師の評判を生徒は父母に話しているだろうから、父母から聞き取り調査するといったことも学校危機管理上必要ではないだろうか。そういった調査を行えば、父母は逆に子どもに、先生のことで何か気づいたら、いい評判でも悪い評判でも親に話すようにするのよと注意するだろうから、親子共々教師の人となりを直接的・間接的に観察することができるようになる。

 校長は「今後確かめ」る役目を「教育委員会が確かめていく」と教育委員会に丸投げしているが、責任回避そのもので、日常的に身近に接しているのは校長以下の学校職員であり、生徒である。そして間接的に生徒の父母が知り得る立場にいる。〝しなさい〟という他者からの発動を受けるのではなく、すべての立場の人間がそれぞれに考え、対応策を探るべきであろう。

 結果としてあった場合の犯行が表に現れる(世間に知れる)のを待つしかないとことになりかねないが、既遂犯行を学校の恥として健忘症の淵に沈めるのではなく、経緯すべてを記録として残し、それを他の不祥事と共に学校の負の歴史として学校史に章を設け、同じ間違いを犯さない後の教訓(=危機管理)とすべきだろう。かつての日本の戦争をすべての経緯に亘って歴史として記録し、同じ侵略戦争を侵さない教訓(=危機管理)とするようにである。

 人間はきれいな姿ばかり見せるわけではないことの教材とするためにも。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内閣不信任案提出と中川幹事長のご都合主義感想

2006-12-16 06:01:29 | Weblog

 昨日(06.12.15)、民主、共産、社民、国民新の野党4党は教育基本法案成立阻止を図って、空しい抵抗となる安倍内閣不信任決議案を提出。菅直人民主党代表代行の趣旨説明の演説をNHKのテレビから。

 「先ず、恥を知れという言葉を私は――(「恥」という言葉に効果を持たせるべく、気を持たせるように少し間を置く)、あのタウンミーティングの報告書を読んだときに私の頭に最初に浮いた言葉、この言葉でありました――」

 対する反対意見を石原伸晃自民党幹事長代理「野党は教育改革タウンミーティング問題で教育基本法案の撤回を求めるとのことでございますが、(糾弾する強い口調となり)一事を以て法案の正当性を非難することはまったく道理に欠ける言いがかりとしか言いようがございません」

 自民党の存在自体が「言いがかり」だと思うのだが。

 野党が内閣不信任案を提出したあとに中川秀直幹事長が記者会見している。

 「民主党は内閣不信任決議案の提出に慎重だと思っていたが、突然の、まあ、国会戦術転換という感じが正直いたします。ま、来年の参院選に於ける野党共闘維持のためのそういう国会戦術転換なのかなと。党利党略に基づく国会戦術は邪道であり、国民の厳しい審判を受けるのではないかと思います」
 どうも中川幹事長には政治家というよりも暴力団の組長といったイメージが優先してしまう。第2次森内閣で内閣官房長官に任命されながら就任3ヶ月で辞任せざるを得なかった原因が愛人問題や右翼との交際といったスキャンダルであったが、なるほどなと納得したのも、その風貌からくる印象からだった。類は友を呼ぶといったところなのかなとそのとき思った。

 中川幹事長には野党に対して「党利党略に基づく国会戦術は邪道であり、国民の厳しい審判を受ける」といった批判を展開する資格はないはずである。小泉内閣が離党勧告・除名という形で断罪した郵政造反議員を参院選対策のための「党利党略に基づく」無節操な「邪道」を地で行く復党を自身が既に演出し、安倍内閣支持率低下というしっぺ返しに当たる「国民の厳しい審判を受け」ているのである。

 舌の根も乾かないうちに、そのことをご都合主義の健忘症よろしく忘れて、「党利党略に基づく」だ、「邪道」だと持ち出す。省察精神というのもがないのだろうか。自民党政治家にそういったことを求めること自体、ないものねだりなのだろう。

 安倍内閣の消費税増税隠しも「党利党略に基づく」参院選対策であり、「邪道」としか言いようがなく、お互いに人のことを言える資格があるのだろうか。人間は自己利害の生きものであり、自己を政治家として成り立たせるのも、政権与党を担い自らの政策を展開するのも選挙を基本の利害とし、出発点としなければならない。

 カネをばら撒いて票を買うとかのなりふり構わないやり方が問題となるのであって、なりふり構わないという点では不信任案提出よりも郵政造反議員の復党問題の方が遥かになりふり構わない汚点だと記憶しなければならないのではないだろうか。

 改正教育基本法は与党の賛成多数で成立した。「国を愛する」教育は形式的には定着していくだろうが、従来以上の従属人間を粗製濫造するだけで、その必然的反対給付として自律性(自立性)に関わる発展は何も望めないだろう。

 日本人が元々従属的に出来上がっているところへ持ってきて、「国を愛する」ことを教育するという力学自体が、生活に関わる利害に、あるいは自己人生の利害に現在のところ直接的には関係しないことが理由となって〝従属〟要求と化し(軍国主義の時代に回帰した場合は関係してくるだろう)、その要求に応えるために形式として受け止めることになるだろうからである。

 このことは〝必修無視〟問題が逆の証明となる。学習指導要領に違反する行為でありながら学習指導要領に〝従属〟する利害よりも、受験という利害に直接的に関係してくる〝必修無視〟の利害を優先させた発明行為だったはずである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タウンミーティング/安倍首相の美しくない自己処分

2006-12-15 07:57:00 | Weblog

 参院教育委員会特別委員会での民主党・神本恵美子オバチャン議員の安倍首相に対する質問、と言うよりも問い質し。

 「給与を返還すると言っているが、ちっとも美しいやり方ではないと思うんですね。おカネで済ます問題ではないと思うんですね、これは」

 安倍首相「おカネで済まそうという言い方は少し失礼じゃないですか?公務員のけじめのつけ方の形として、減給処分等の処分が決まってるんです。それに則ってですね、それに則って、そういう形で身を処したわけですございます。国民との双方向との対話を実現し、そして私どもの政策を説明し、また国民の皆様の生の声をお伺いする場としてですね、是非タウンミーティングをゼロからスタートさせていかなければならない。今後ですね、華美にならないように、質素ではあっても、中身のあるタウンミーティングを改正をしていくため(NHKテレビの字幕は「開催」になっていたが、何度聞き返しても「改正」と言っている)運営を改善をしていきたい」

 いつも思うのだが、わが安倍首相は言い回し自体にしても、言葉の使い方にしても、なぜこうも硬い感じを与えるのだろうか。ときには聞き苦しささえ感じる。立派な言い回しをしようという意識が強すぎて、却って余分に言葉を整えてしまい、堅苦しい言い回しになってしまうのではないだろうか。それは記者会見での姿勢に最も顕著に現れている。頭の天辺から足先まで正して、顔を横に向けても右に向けても真正面を見据える感じの姿勢を最後まで崩すことなく維持して、姿勢そのままの言葉を発する。きっちり言おう、きっちり言おうという気持が勝って、自然体を損なっている。

 姿勢や言い回しへの意識過剰は中身のなさの裏返しなのだろう。何を言っても、思想とか哲学はさらさら感じることができない。中身のなさに対する無意識の補いが自然と言葉遣いや姿勢といった外見の装いに向かっているといったところだろうか。言葉・姿勢とも本人の柄にはない作り物なのだろう。

 上記答弁から堅苦しい言い回しを指摘してみると、「減給処分等の処分」と「処分」を二度繰り返している。「公務員のけじめのつけ方の形として」では「公務員のけじめのつけ方の一つとして」の方が自然であるのに、「形として」と硬い言い方をしている。「つけ方」の中に既に「形」は入っているからである。

 「それに則ってですね、それに則って」と強調する必要もない箇所での繰返し。「それに則って身を処したわけですございます」で簡単に済ますことができる箇所を「そういう形で」と補強して、「それに則って、そういう形で身を処したわけですございます」とすることによって、硬い感じになっているだけではなく、くどくさえなっている。

 「タウンミーティングを改正をしていく」と、「タウンミーティングを」の後は「改正していく」と動詞が来るべきを助詞の「を」再度使うことで堅苦しい言い回しにさせている。これは答弁の最後の「運営を改善をしていきたい」にも現れている。

 書き言葉は訂正できて、話し言葉は瞬間瞬間の勝負だから、的確な言い回しを紡ぎ出していくのは遥かに難しい。しかし質問趣意書を事前に受け取っていて、答弁を官僚と共に練っているはずである。勿論答弁箇所によっては自前で賄い、官僚のアイデアを煩わさない部分もあるだろうが、それでも前以て答弁を用意しているのである。用意しているにも関わらず、話す過程で名詞のあとに動詞を使うべきところを助詞付けてしまい名詞の繰返しになってしまったり、名詞一つで済む箇所を余分な名詞を補強して、却って堅苦しい言葉遣いになってしまうとしたら、本人自身の性格が本質的に堅苦しくできているからではないだろうか。

 民主党女性議員が、首相の給与3か月分国庫返納を「ちっとも美しいやり方ではない」、「おカネで済ます問題ではない」と批判し、それに対して安倍首相は公務員の責任方法の一つとして「減給処分」があるのだから、「おカネで済まそうという」ことではなく、「それに則っ」たに過ぎないと、その正当性を訴えている。

 しかし「減給処分」とすることで、責任の程度を自分からそこに持っていき、それ相応だとしたということだろう。そうすることによって、ヤラセの程度を「減給処分」で間に合うほどの不祥事・不始末だとすることができる。いわば双方の責任の程度を軽い場所で響き合わせた。

 決して「美しい」処分方法とすることはできない。逆に「美しくない」とすべきだろう。責任回避を裏側に隠したと言うこともできる。あるいは「減給処分」で臭い物に蓋をしたとも。

 野党としたら、「減給程度の軽い処分で済まそうなどと、美しいやり方ではない」と、処分の軽重を問題とすべきではなかっただろうか。処分の軽重を問題とすることが事の重大性を問題とすることにもなる。「減給程度の軽い処分でヤラセ問題を済ますことはできなない」と。先ず国民の多くが納得できる事の重大性の程度を明らかにしてから、処分が軽すぎるのではないかと持っていかなければならない。

ヤラセ質問が如何に重大な世論操作なのか、国民を騙す世論誘導だったのか明らかにすることは勿論のこと、極々一般的な常識も以てしても、大臣を送迎するエレバーター操作や会場までの案内に万単位の報酬の設定がなされていたこと、4台のハイヤー調達に帳簿上21台借り上げたことにして57万円も支払ったと言う事実から、外務省、その他の省庁の裏金づくりの前科とその構図、その際に用いた手口の類似性と重ね合わせて、すべてが二重に国民を騙すデタラメであったことを疑うべきを、疑い、真相解明を余儀なくされたなら、自身の進退問題に発展しかねない恐れからだろ、疑わずに「減給処分」で済ませて、その程度の不祥事・不始末に格下げする責任回避を図った可能性を真相解明と共に追及しなければならない。

 その上で、官房長官時代、自身が直接的に関わったことでないとしても、使用していた者のヤラセ、談合等で国民を騙した犯罪にも等しい事の重大性と、そのことに対する長たる立場にいた責任者としての管理・監督の不行き届き、使用者責任が「減給処分」で果して釣り合いが取れるかとすべきだろう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タウンミーティング疑惑と安倍首相の対応

2006-12-14 07:02:28 | Weblog

 昨日(06,12,13)NHKが夜7時と9時のニュースで政府のタウンミーティング調査委員会(委員長林芳正内閣府副大臣)が塩崎官房長官に提出した最終報告書について報道していた。かいつまんで引用してみると、174回あったタウンミーティングのうち105回で内容まで示さなくても、発言するように働きかけていたこと。その105回のうちの25回で、参加した65人各自に5000円の謝礼が支払われていたこと。京都市のタウンミーティングでは不適当と見た人物が参加できないよう作為的な排除を行ったこと。国が地方自治体に動員を依頼したケースが71回にのぼること等を〝世論操作〟関連で伝えた。

 次に不明朗経理関連で、衆議員の集中審議で民主党の蓮舫議員が追及していた、岐阜の会場で大臣を迎えてエレベ-ターまで案内するのに4万円、大臣が乗ったエレベーターのボタンを押すだけで1万5千円も支払っていたという、何様相手だとそれくらいの人件費を受け取る人間でないと釣り合いが取れないからなのだろう、そんなかんなで平成13年度前半の1回当りの開催経費が2200万円もかかっていたこと、そのような高額支出の特例としてだろう、去年6月の静岡市で開催されたタウンミーティングでは内閣府が地元ではハイヤー4台を調達できなかったとして、東京の業者と57万円で契約して、ハイヤーを東京から派遣、会計上は21台借り上げたとして水増し処理をしたこと、こうしたハイヤーの借り上げと清算をめぐる不透明な会計処理が合わせて7回あったことを報道していた。

 調査委員会委員長林芳正内閣府副大臣、ご馳走ばかり食べているようで、いい感じにふっくらと太っている。豚だったら、食べ頃の太りようといったところだろう。「政府の側から見たイベントの成功というものが追求されていたこと。事業の進行を優先するあまり、適切な会計上の執行についての意識や手続きが、まあ、不十分であったこと。公平性・透明性の確保をと、こういうことを提案させていただいた――」と、あくまでも淡々と記者会見で述べていた。

 対する塩崎官房長官「国民との対話を掲げていたにも関わらず、逆に期待を裏切って政治への信頼を大きく損なう大きな問題を発生させてしまったことは、極めて残念なことであり、国民の皆様方に深くお詫び申し上げたいと思います」

 責任問題についてはアナウンサーが「安倍総理大臣は当時の官房長官として責任を取るために総理大臣としての給与の3カ月分を国庫に返納し、その他の関係者についても事実関係を明確にした上で処分したいという考えを明確にしました」と伝えていた。

 中川幹事長の談話発表として「報告書の指摘は弁解の余地はなく、極めて遺憾だが、安倍総理大臣が逃げることなく、自身の責任を含めてけじめをつけると述べていることを評価したい」

 何らかの責任を取ることは当然なことで、「逃げる」も「逃げ」ないもないのだから、それを「逃げることなく」と殊更立派な姿勢だと見せかけた上で、それを「評価したい」とするのは、責任を「評価」で相殺して、限りなく安倍内閣支持率に関係することになる政府への風当たりを薄めようとの魂胆なのだろう。

 また責任を取る(「けじめをつける」)ことを「評価」するというのは普段は責任を取らないことが当たり前となっていることの裏返しではないだろうか。

 当ブログ『ニッポン情報解読』の11月25日記事<タウンミーティング/広告代理店の参考人招致を>で「多分政府は担当者の処分を検討する考えを示したといっても、一般常識から離れた不適切な金額の契約が行われたとの理由のみで関係者をそれ相応に処分するだけで幕引きを行う可能性が高い。中央省庁だけではなく、地方公共団体に於いても、役人の世界では公費・予算を使った私利の遣り取りが一般化している。そのことから考えただけでも、談合の可能性だけではなく、還流と還流金を原資とした裏ガネづくりの可能性すら疑える。受注した広告代理店だけではなく、応札会社すべてを国会に参考人招致して追及すべきではないだろうか」と指摘したが、静岡市で開催されたタウンミーティングでのハイヤーの調達先と台数偽装、水増し処理は既に外務省がかつて使った手口のまさに類似行為であり、そこに外務省同様の犯罪を疑わなければならない。

2000年の夏に行われた九州・沖縄サミットを利用して外務省の課長補佐らが「東京都内のハイヤー会社にサミットで使ったハイヤーの台数や人件費を水増し請求させ、差額約1200万円分をタクシー券で受け取ったとされる」と2001年7月16日「朝日」朝刊(『タクシー券 自宅に220万円分』)は伝えている。「残りの約1千万円分については金券ショップで換金して、自分の洋服代や飲食費などに充てたほか、職場での飲食費の足しに使ったりしたと話している」(同記事)

 外務省は当時タクシー代金の水増しだけではなく、「東京都内のホテルを利用する場合、参加人数の水増しや宿泊した部屋より、料金の高い部屋を使ったように装うなどの方法で水増し請求させ、実際の料金との差額を裏金にすることが以前から行われていたという」(01.7.17「朝日」夕刊『外務省 ホテルで裏ガネ管理』)とホテル代金をも水増しの利用対象とし、水増し分は約7000万円、使途はうち4300万円を容疑者である課長補佐の浅川明男(56)が個人流用し、残る3700万円は内輪の歓送迎会・パーティ・懇談会などに使い、水増し請求させたホテルを利用することでその代金に充てる方法を取っていた。

 この事件以後、外務省の約30課に裏金が存在することが発覚、海外の大使館・公使館・領事館の大使・公使・領事、さらに料理人といった職員までが公費を私的流用していたことと合わせて、構造的な犯罪であったことが判明している。

 静岡市のタウンミーティングの場合、地元でハイヤーを調達できなかったという事実そのものを疑わなければならないが、調達できなければ愛知県や神奈川、山梨といった隣接する自治体から調達すれば、それだけ節約できるものを、隣接県の神奈川を越えてわざわざ東京の業者を指定したのは、外務省がかつてホテル代水増し用にホテルオータニを御用達としていたのと同じウラの存在を疑わなければならないだろう。

 また実際に4台しか利用しなかったにも関わらず、会計上は21台借り上げたとして水増し処理した余分の金額はタクシー会社にチップとして与える程に日本の役人が気前良いわけはなく、逆に公費流用を政治家・官僚の習いとしている程に卑しい上にせこくでき上がっているのだから、当然還流して私的流用した疑いが濃く、還流されたとしたら、その使途が問題となってくる。

 4台を57万円とは、1台当たり14万2500円となるが、21台借り上げたことにすれば辻褄の合う57万円÷21台≒27000円/1台という金額になると言うことなのだろう。27000円×4台=10万8000円で済むところを57万円もかけた。57万円-10万8000円=46万2000円はどこへ行った、何に使った。その経緯・行方を明らかにしなければならない。地元静岡県のタクシー会社すべてに内閣府からハイヤーの調達要請があったかどうかも調べる必要がある。

 安倍総理大臣の記者会見「こうしたことが起こったことは大変遺憾であります。責任をしっかり取っていく、けじめをつけなければならないと。真の国民との対話であるべきタウンミーティングであるにも関わらず、事勿れ主義的な対応があったと、ま、これは役所ではよくありがちなことであると指摘もなされています。次なるタウンミーティングについては、まあ、例えば経費についても華美にならないように、ムダ遣いにならないように徹底していきます。そして初心に帰って、国民の皆様と双方向の対話の場にしていく。そういうタウンミーティングをスタートさせていきたいと思います」

 さすがに「美しい国」という十八番の安部ギャグ(ギャグにしか聞こえない)は一度として使わなかった。使えなかったのだろう。

 「これは役所ではよくありがちなことであると指摘もなされています」とは、「役所」にこそ責任があるとでも言いたかったのだろうか。聞きようによっては、止むを得なかったことだ、あるいは起こるべくして起こったことだ、と〝役所全面責任論〟に聞こえないこともない。

 裏ガネ作りは警察署も行っていたことである(今も行っているかな?)。しかし首相自身の責任も自ら論じなければならない問題に関して記者会見で述べる言葉として、「役所ではよくありがちなことであると指摘もなされています」とは、少々――どころか、まるきり的外れな解説となっていないだろうか。安倍首相の感覚からしたら、「ありがちな」的外れとすべきなのか。

 また、「例えば経費についても華美にならないように、ムダ遣いにならないように徹底していきます」と言っているが、「華美」とか「ムダ遣い」といった問題ではなく、「華美」・「ムダ遣い」の程度を遥かに超えて、公費のタレ流しそのものの高額予算の支出となっている。問題の大きさがどのくらいなのか、正確に把握し、受け止めているのだろうか。阪神大震災のときの村山富一同様に「何分にも初めてのことだったもので」といったのと同じ感覚でいるのではないかと疑いたくなる。

 「役所ではよくありがちなこと」とか、「華美にならないように」とかの説明で済むとしているいること自体、「事勿れ主義的」なのは安倍首相自身ではないだろうか。尤も郵政造反議員復党問題でも、道路特定財源問題でも、「事なかれ主義的な対応」の前科を既に犯してはいる。

 調査委員会委員長林芳正内閣府副大臣にしても、「適切」を遥かに超えている会計処理・請負価格を単に「不十分であった」と把える感覚も、「事勿れ主義的な対応」のうちに入るのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石原伸晃の超豪華議員宿舎「マヌケな」すり替えレトリック

2006-12-13 03:05:48 | Weblog

 「マヌケな」は石原氏自身が使った言葉をそのまま利用しただけのことで、殊更持ち出したわけではない。

 総事業費約334億円の東京は一等地・赤坂の超豪華マンション級議員宿舎が問題となっている。部屋数3LDK、広ささ82㎡、スポーツジムもあれば、食堂もあり、最上階には夜景が楽しめるラウンジもあるという至れり尽くせりの豪華さ。議員様々である。様々であるからこその規模・豪華さ、そして赤坂という立地条件なのだろう。〝様々〟に釣り合いを持たせるとしたら、こうまでの豪華さ・立地条件が必要だと言うことである。一人一人を仔細に眺めると、〝様々〟と言えるような国会議員は一人として見当たらない。この架空なる現実は見事な逆説を呈している。

 日本の国会議員はみな能無しだと言うのは失礼な話で、身分の〝様々〟に合わせて住空間まで〝様々〟相応の超豪華を用意するのは国民の信頼をどこまでも裏切らない正解だとすべきなのだろうか。

 同じ条件の民間マンションなら部屋代月50万は越えるという豪華値段が「国家公務員宿舎法の規定に準じた試算」によって算出した結果、1カ月9万2000円、地下駐車料2万円での深々と頭を下げての通販並みのご提供となる。

 50万円超-11万円≒39万円/月分が議員特権の値段というわけなのだろうが、〝様々〟に釣り合わせた超豪華さだとするなら、それに釣り合わない金額である。やはり〝様々〟は架空なる現実・見かけなのだから、見掛けに合わせて11万が相当と言うことなのだろうか。だったら議員歳費も見かけに合わせるべきだと思うが。

 超豪華な住空間に住むのが自分たち〝様々〟にはふさわしいとするなら、そのような超豪華にふさわしい家賃を支払ってこそ、最後まで〝様々〟を貫くことができるということではないだろうか。それを11万そこそこで済ませようなどとは、政務調査費を私費として使う〝さもしさ〟と同等、浅まし過ぎるのではないだろうか。

 12月9日(06年)の朝8時からの日テレ「ウエーク!」で石原伸晃自民党副幹事長が司会者から一般国民の感覚から離れた超豪華さと家賃の低さを問われて、次のように答えている。

 「私って、議員宿舎に住んだことはないんですけどね、その、相場よりも安いっていうのは事実だと思いますが、あのマヌケな話聞いたことがあるんです」とここで「マヌケな」という言葉が出てくる。「官房副長官の経験者の方がね、自分でマンション借りたと。そしたら30階だったと。で、かなり距離があったと。先ず停電になったわけ。そういうときこそ官邸に素っ飛んでいかなきゃいけないのに、階段が30階まで降りてって、それからまた車に乗っていって45分かかっちゃった。これはまさに危機管理対応できない。やっぱりそういうキャピタルの中心にですね、ある程度の宿舎っていうものは必要で、そこに住まなきゃいけない人っていることも事実だと思います」

 司会者(議員宿舎には)「自家発電なんかも付いているんでしょうね?」

 石原「私は行ったことないから知りませんけど、やっぱ危機管理上、都心に住まなきゃいけない人がいるってことも事実です」

 非常にもっともらしく聞こえる超豪華議員宿舎擁護論となっている。しかし石原伸晃氏の言う「危機管理」論は単に立地を条件とさせているのみで、危機管理と超豪華な生活空間に整合性を与える主張とはなっていない。尤もそのような主張となっていたら、豪華な議員宿舎に住んでいる国会議員ほど危機管理能力に優れているということになって、別の矛盾が生じることになる。

 つまり彼の「危機管理」論はそこまで住環境を豪華にする必要があるのか、建築費に比較して部屋代は妥当な金額となっているのかといった疑問点に何ら答えないすり替えのレトリックを駆使した牽強付会に過ぎない。そのことに気づかずに真っ当な答だと済ませる神経は、「官房副長官」の「マヌケな話」を上回る何とまあ「マヌケな話」ではないか。

 また「キャピタルの中心」とか「都心」とか首相官邸に近いという立地条件にしても、危機管理上の必要絶対条件とすることはできない。すべての国会議員が危機管理対策に関わるわけではないからだ。石原伸晃が言うが如く「官房副長官」といった内閣関係者の類にしても、比較条件とはなっても、絶対条件ではない。

 「キャピタルの中心」・「都心」を絶対条件とするなら、阪神大震災のときは首相として首相官邸に住んでいた村山富一が何よりも危機管理能力を発揮して然るべきだったが、その被害・規模の重大さを認識せず、直ちに閣議召集をかけることもせずにNHKの地震報道ニュースに、感心していたかどうかは分からないが、少なくとも第三者的な即物的反応は見せていただろう、見入っていたと言う。国会でそのことを追及されると「何分にも初めてのことだったもので」と、石原伸晃の言葉を再び借りるとするなら、これまた「マヌケな」答弁をしている。多くの議員の失笑を買ったというが、当然な話だろう。

 村山富一のような政治家・国会議員が首相官邸に近い「都心」・「キャピタルの中心」にへばりつくようにゴマンと住んでいたとしても、「都心」・「キャピタルの中心」といった立地を危機管理を成立させる有効な条件とすることはできないだろう。確実に言えることである。

 立地を絶対条件とするなら、閣僚関係者は官邸と都心の宿舎を往復することを自らに義務づけなければならなくなる。当然、愛人を連れて外国に不倫旅行することも、外国視察と称して呑んだり食ったりの観光旅行をすることも自ら断たなければならなくなる。自然災害のいつ発生するかも予測できないという性格上、例え職務上であっても、都心を一歩離れたら、絶対条件から離れることになるからである。災害発生時に都心から離れていたとき、それが遠い外国でなく国内であっても、「キャピタルの中心」・「都心」という条件は無意味となる。

 アメリカでは緊急時に大統領と連絡が取れない場合は、あるいは死亡した場合は副大統領が、副大統領が不可能なら、次は誰がと政府の指揮を取る順位が決められているように、日本も決められている。誰が不在でも危機管理は機能させなければならない。それとも日本では予定している出席者が全員顔を出すのを待つのだろうか。日本ならありそうな話ではある。

 誰が不在であっても、危機管理体制を機能させるのも危機管理である。となると、立地条件は危機管理を機能させる条件からますます遠ざかることになる。

 危機管理で問われるのは情報収集・解析・選別を経て何をなすべきかの決定に至る事態反応能力であり、それらを総合化し、組織的対応へと機能させる極めて創造的戦略性が深く関わった判断能力の必要性であって、常にそのことに留意する姿勢を肝心な問題とすべきを、「都心」だとか「キャピタルの中心」といった物理的距離に留意点を置く強調は1+1=2とする機械的・即物的な頭脳でなければ不可能な単純発想であろう。

 噺家故林家三平の妻・海老名香葉子の〝いじめ・親元凶論〟から言うなら、石原慎太郎なるこの親にして、この単細胞な息子ありになるが。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍支持率低下と復党説明

2006-12-12 07:49:52 | Weblog

 「説明不足」と見るか、〝説明不可能〟と見るか。

 今朝(06.12.12)の朝日新聞に内閣支持率が先月11月調査の53%から47%に落ち込んだという世論調査の結果を伝える記事が載っている。低下理由の一つとして関連記事(『黄信号 官邸の説明力』)で、「安倍内閣の支持率が報道各社の世論調査で軒並み50%を切り始めた。『復党問題』について安倍首相の『説明不足』を指摘する声が80%にのぼり、支持率低下の背景には首相官邸の『説明能力』の不十分さがあるとの見方が出ている。安倍政権の看板の一つが『広報戦略』とされてきただけに、首相官邸では危機感が募っている。(東岡徹)」としているが、果して安倍首相は郵政造反議員復党問題で「説明不足」を犯したのだろうか。

 新聞・テレビがさして関心を持たず、報道が少ない裏で進行した政策ではない。報道各社が連日、ニュースの時間はもとより、ワイドショー、報道関連番組と朝から晩までこれもかと取り上げていた問題である。安倍首相の「説明」を待たずとも、報道各社の洪水のような情報提供で「説明」は国民は十分過ぎる程に受けていた。それ以上の説明はなかっただろう。来夏の参院選目的であること。それも青木幹雄参院議員会長に強要されての復党容認であること。国民はそのような「説明」をマスコミから受けてしまった。

 当然なことに安倍首相にとって自分の立場に不利となる説明ばかりであった。安倍首相としたら、不利を有利に変えるには、報道各社が流す「説明」を否定し、国民が肯定できる「説明」を試みる必要があったが、試みなかったのは、その姿勢が不足していたからではなく、試みることができなかった、いわば〝説明不可能〟だったと言うことだろう。

 「元々の仲間と一緒にやることになった」といった文脈の説明を誰が信じるだろうか。仲間を自分の方から切っておいて、「元々の仲間だから」は通用するはずがない。

 説明しようと思えば、いくらでもその機会を与えられる立場にいる。説明の言葉をいくらでも用意できるなら、いくらでも説明し、「説明不足」に陥ることはないだろう。拉致問題では、「対話と圧力」を機会あるごとに説明していた。それで人気を獲得してきた経緯がある。自己に都合よく働く事柄に関しては、誰もが饒舌となり、都合の悪いことには寡黙となる。それが人間の自然な理である。

 今回の道路特定財源の政府・与党合意に関しても、合意後にテレビに出ている自民党関係者は安部擁護にあたふたしている。そのように擁護しなければならない姿勢・言葉自体が合意内容の十分過ぎる説明となっている。

 〝擁護〟とは擁護の対象(安倍首相)を庇い守ることを言う。庇い守らなければならないとは、何とまあ苦しい事情ではないか。安倍首相に説明しろと言っても、説明不可能なことだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガキ大将の役割に見るいじめ理論の非合理性

2006-12-11 03:23:50 | Weblog

 すべての生徒に等しく生存機会を

 06年12月3日 日曜日の「テレビ朝日」の「サンデーモーニング」。コメンテーターの一人なのか、レギュラーメンバーでいつも顔を出している慶大教授の草野厚が議論に割って入って、教育再生会議の議論で欠けていることとして、携帯を使って匿名で簡単にいじめの文章を送れる問題を取り上げ、「それがキッカケになってブログを組めて(?)自殺した人もいる。そういうところをもっと議論を重ねる必要があるのではないか」と提案した。

 それに対して教育再生会議の委員の一人でもあるヤンキー先生こと元高校教諭で現在横浜市教育委員会委員の義家弘介が、「情報リテラシーの項目で議論している。ネット教育。大人の手の届かないところにまでいじめが地下進行している。フィルタリング・サービスを義務づけるとか、様々な方策を考えていかなければならないが、今後の議論の中でやって行こうと――」

 藤原和博民間人初の中学校校長「携帯については中学では本当に凄く問題で、携帯の存在がいじめを変質させたんです。例えば、死ねって言うのは結構勇気がいると思うんですけど、4回か5回ボタンを押して、送信ていうのは非常に楽なんですよ。100回でもそれをやっちゃう。親に言っているのは安易に、例えば入学のご褒美とかね、そういうの与えないで欲しい。どうしても与えなきゃなんなくて、連絡が必要なら、自分のを貸す。あるいはもう一つ買って、それを貸して、夕食以降はそれを与えないとか、あるいは10時以降はメールをさせないとか、ルールをきっちりさせないと――」

 まだ若い息子を将来は人間国宝請け合いの名噺家に育てた、きっと子育てには自信満々・鼻高々なのだろう海老名香葉子が「そういう姑息な遣り方をする子どもに育ててしまったということ、そこまでいってしまったということは親の責任です。昔は子どもの中でもガキ大将がいました。それでちゃんと差配していました。それで楽しく遊ばせました。それで社会でもそうでしたけど、そういう陰湿な(メールするような)ことはしなかったんですよ。チャンバラだって、正義の味方は勝つ。悪い奴は負ける。そういう教え方で――」と「昔」はいじめなどなかったかのようなことを言う。

 司会の田原総一郎が遮って、「ヤンキー先生がおっしゃるように、今日の被害者が明日の加害者と、昨日の被害者が今日の――、どんどん変わってしまった。ガキ大将がいなくなった。どうしたらいい?」

 海老名「ですから、元に戻さなくちゃ。親の教育です。親がもっと、もう一度子育てについて検討しなくちゃいけないと思います」

 「昔」はと言われる時代は「ガキ大将」が仲間の秩序を守り、いじめはなかったとする主張が海老名香葉子だけではなく、多くの日本人が共有している〝子ども社会秩序維持論〟として流布している。多くの日本人によって信じられている主張だからこそ、流布という事実が存在するのだろうが、合理性を持った主張なのか取り上げたいと思う。

 その前に初の民間人校長だという藤原和博氏が子どもには携帯は貸し与える形で持たせることと、「夕食以降はそれを与えないとか、あるいは10時以降はメールをさせないとか、ルールをきっちり」とつくることの必要性を強調していたが、本人自身、自分で話しながら自分の言葉に盛んに頷いて、さも立派な主張であるかのように一人納得していたが、携帯を持った子どもすべてがいじめのメールを送るという前提に立った主張となっていることには気づいていない。それを防止するための一律的「ルール」の強制と言うことだろう。

 例えば夕食以降予習か宿題をしていて、分からないところを友達に電話して聞きたい、あるいは悩み事を相談したくなることもあるに違いないが、そういったことまで禁止する「ルール」となることにまで考えを思い巡らせていない。そういった電話は固定電話のあるところまで行って、それを使えとでも言うのだろうか。車があるのに、歩いてコンビニに行ってこいと言うようなものである。

 藤原氏自身はそこまで意図したことではないだろうが、すべてを疑うことになって、いじめを行わうつもりもない生徒の反撥を招きかねない。藤原氏の携帯に「死ね」とメールされることにならないだろうか。番号などは同じ学校の生徒が2チャンネルに藤原氏の携帯の番号と一緒に「死ねのメールを送ろう」と投稿したり、あるいは携帯でなくても、藤原氏の中学校のHPアドレスを調べて、メールを送りつける手もある。

 ルールをつくることができて親子の約束を成立させることができたとしても、いじめる人間は夕食以前にメールを送るぐらいの知恵を働かすだろう。時間は条件とはしていない。メッセージの送信自体を目的としているからだ。夕食時に親に返した携帯を朝学校に行くときに受け取る。「行っていきます」の挨拶をして親の目の届かない場所にまで歩いたら、さっそく「死ね」の文字を「4回か5回ボタンを押して、送信」したとしたら、「夕食以降」の「ルール」はいくら厳格に守られたとしても意味を失う。

 また中学高学年から高校生にもなれば、自分の小遣いで携帯をこっそり持ち、電話代まで自払いできるぐらいの財力は持っているに違いない。人をいじめるような人間なら、不足した場合、恐喝で補填する才覚に事欠かないだろう。携帯を取り上げることが、恐喝につながるケースも生じる場合もあると言うことである。

 また携帯という新しい機器の利用だけが「大人の手の届かないところにまでいじめ」を「地下進行」させる原因をなしているわけでも、なすわけでもないし、当然陰湿化させる手段だと限定するわけにもいかないはずである。人目に隠れてする、あるいは人目があったとしても、それとは分からない姿を装わせて行うというだけではなく、他の生徒が見ているのを承知で行ういじめや厭がらせの類はそれを行う人間の標的となる人間に対する優位性、あるいは優越性を周囲に見せつけて誇り、そのことによって相手の劣位性を周囲に知らしめる必要性からの行為である場合が多く、標的となる生徒にしても自分の恥を周囲に曝すことになって、メールを送りつけられるといった人に知られないいじめよりも却って始末に悪いということもある。

 また藤原氏は「例えば、死ねって言うのは結構勇気がいる」と言っているが、いじめの多くが相手に対する身体的・心理的優位性を条件として行われるもので、必ずしも「勇気」を条件とはしない。いじめる側が往々にして集団を組むのは一人では確保しにくい、それゆえに簡単に逆転されかねない身体的・心理的優位性を数の力で確実なものとするためだろう。

 「死ねって言うのは結構勇気がいる」のは自分よりも相手が身体的に上回り、当然心理的にも相手の方が上となる人間に数を頼まず自分一人で「死ね」と言うときだろう。このことは携帯でも条件は同じはずである。

 簡単に分かる例で話すと、クラスにいつも集団を組んでクラスメートをいじめるグループがいる。相手が集団で自分ひとりでは敵わないのは分かりきっているが、正義漢から携帯で、「お前ら死ね」とメールを送る。それが相手にとっては匿名行為であっても、送信者は自分であるという意識から逃れることができないのだから、露見した場合の不安や恐怖を考えた場合、「結構」どころか、相当に「勇気がいる」ことになる。夜満足に熟睡できなくなったり、相手と顔を合わせたとき、落ち着かない目の動きをしてしまったり、あるいは露見を防ぐために俺じゃないぞというところを見せるために逆に相手を見つめ過ぎたりして、却って怪しまれて、「お前じゃないのか」といきなり言われて、うろたえ、分かってしまうといったこともあるだろう。

 言ってみれば、既に様々にあるいじめの方法にメールによるいじめがそこに加わった新しい方法であるということ、メールを使ったとしても、その陰湿さの程度に濃淡があるのは他のいじめと条件は同じであるということ、相手との心理的・身体的距離を利用した構造となっていることに何ら変わらないこと等を考えると、藤原和博が「携帯の存在がいじめを変質させた」と言う程には本質的な要素をなしているわけではないのではないだろうか。

 例えば昼休みとかに大勢の生徒が出ている校庭で友達と遊んでいたら、背中に石をぶつけられた。急いで振り返ったが、たくさん生徒がいて、誰が投げたかわからない。思い直して友達と遊び続けると、また背中に石を投げられた。振り返っても、誰か分からない。校庭にたくさんの生徒がいて簡単には誰か特定でいないのをいいことに石を投げつけたりするいじめも匿名性を利用した隠れてするいじめで、陰湿である上に卑怯ないじめの内に入るだろう。

 石を投げつける相手は石を背中にぶつけられる生徒よりも身体的・心理的に優位的位置に立っているからこそできる。一人でそれを確保できなければ、集団を組んで確保しているだろう。位置的に逆の場合は、隠れてする行為であっても、余程の覚悟・勇気がいるからだ。露見して優位的位置を持たない生徒だと分かってしまった場合、投石の標的にした相手からではなくても、他の生徒からもバカなことをしたと失敗に対する嘲笑を受けない保証はない。嘲笑が身体的な懲罰へと進み、それが立派ないじめへと昇格を見ない保証もないはずである。

 絶対に露見しないという確かな条件に守られなければ、非優位的位置からのいじめは不可能である。とすれば、問題は身体的・心理的な優位性の証明にいじめを手段とする行動性であって、携帯という手段ではないはずである。藤原和博氏は民間人初の中学校校長だと持て囃されているようだが、どうも人間の現実の姿を見る目に合理性を欠いているように見えるが、それは不当な非難であって、欠いているのは私の方なのだろうか

 対する蛯名香葉子氏は〝いじめ・親元凶論〟に立っているが、その揺るぎのない姿勢に幸せだろうなとさえ思う。ガキ大将が常に善なる存在だとすることのできる客観性、あるいは客観的性善説は二律背反の自己矛盾を孕んでいないだろうか。孕んでいないとしたら、この世の中に常に善なる存在が実在することを認めなければならなくなる。

 ガキ大将が常に正義を行う存在だと決めつけることができる程には人間は単純にはできていない。人間はいたって複雑怪奇にできている。それは今も昔も変わらない、時代を超えてある姿である。そのことに気づきもしないで、教育再生会議のメンバーの一人となり、教育問題にその資格もなく首を突っ込み、しゃしゃり出ているとしか思えない。

 ガキ大将のいた時代はいじめはなかった。当然教師の体罰もなかった。ガキ大将が仲間を「差配」できたのに、学校教師が生徒を「差配」できないといったことはありようがないからである。学校教師にしても子供の頃は自身がガキ大将ではなくても、地域でガキ大将に「差配」されて集団秩序を学び、また生徒の方も地域で集団秩序を前以て学んでいる共通項を抱えた似た者同士の間柄なのだから、生徒管理にどのような破綻も考えることはできない。

 だが現実にはガキ大将のいた時代でもいじめも体罰も存在した。存在しないように見えるのは非情報化社会で、表に現れる数の少なさに比例して世間に知れる機会も少なかったからだろう。いわばその多くが情報化されるまでに至らなかった。身体障害者いじめ、朝鮮人の子いじめ、遠くから引っ越ししてきた転校生に対する他処者いじめ、年下の子いじめ、女の子いじめ等々、いつの時代も存在したはずだ。現在でも他処者に対する警戒心は強い。日本政府が外国人受け入れに消極的なのは、日本人とは全然違う外国人という他処者に対する警戒心も一つの要素となっているはずである。

 かつては朝鮮人の子どもに対するガキ大将に率いられた集団のいじめも存在した。朝鮮を併合・植民地とし、日本人は彼らの支配者として朝鮮人を劣る人種と見た。日本人の大人のそのようや意識を受けた日本人の子どもの朝鮮人の子どもに対する具体的な差別行為がいじめとなっていたに過ぎない。子どもが大人を差し置いて朝鮮人いじめを発明したわけではない。日本人の大人の中にあった朝鮮人蔑視の意識・態度を見たり、聞いたり、感じたりして子どもに伝わり、子どもは子どもなりの方法で自分たちの偉さ、彼らの劣ることを表現したのである。「チョウセン」、あるいは「チョウセンジン」と罵ったり、バカにしたり、石を投げつけたり。

 在日詩人の高史明氏は子供の頃の戦前時代に日本人の子に軽蔑する語調で「ハンカーチ」といつもバカにされたが、その意味が今以て分からないと自身の著書で告白している。多分「半価値」という意味ではないだろうか。「ハンカチ、ハンカチ」と罵るべきところを、「ハンカーチ」と伸ばしたから、意味不明に聞こえたのだろう。朝鮮人は人間として半分しか価値がない。皮肉を言えば、半分でも価値を認めていたなら、却って誉むべきことでなかっただろか。全然認めていない日本人の方が多かっただろうから。

 大体が「正義の味方」と「悪い奴」が存在すること自体が、ガキ大将の「差配」の有効性に反する矛盾を示す。有効であったなら、「悪い奴」は存在不可能となるからだ。かつての激しい朝鮮人差別は「正義の味方が」常に正義の味方ではなく、「悪い奴が」常に悪い奴とは限らないことを証明して余りある。朝鮮人差別の最過激な具体化は関東大震災時の「半価値」さえ認めなかった大量の朝鮮人虐殺だろう。一般日本人が竹槍を持ち出して朝鮮人を追い掛け回し、見つけ次第突き殺して、何人殺したと自慢し合ったという。

 現在でも朝鮮人差別は確かな形を取って現れることがある。北朝鮮がミサイル発射や拉致問題、あるいは核実験したときの朝鮮人学校生徒に対する様々な嫌がらせ。これは間歇的な継続性しか持たなくても、いじめそのものに当たる行為であろう。あるいは総理大臣の靖国参拝支持人間の韓国大統領の参拝中止要請に対する朝鮮人差別を文脈とした批判等々。
 
 プロ教師の川上亮一氏も「昔は、学校で子ども集団がつくられる前は、地域に"ガキ集団"が存在し、大人のつくった地域社会の大枠のなかで、年齢の違う子どもたちが自分たちの世界をつくっていた」と"ガキ集団"の正義性に言及している。「ところがいまは、地域からガキ集団がほとんど消え去り、学校のなかにだけ子どもの世界が残ることになったのである。教師の手から相対的に離れたところで、いろんな子どもがひとつの空間を共有するのだから、そこには、かなり荒っぽい関係も成立することになる。大人の倫理はストレートに入らないから、いじめは必然的に起こるものなのだ。つまりいじめは学校の問題ではなく、子どもの世界の問題なのだ。いじめ問題を考えるとき、これが出発点である」

 何と太平楽な「出発点」なのだろう。プロ教師は海老名香葉子共々世界有数の幸せ者に入るのではないか。地域の「ガキ集団」にしても、大人や「教師の手から相対的に離れたところで、いろんな子どもがひとつの空間を共有」していたのである。当然プロ教師の論理からしたら、「大人の倫理はストレートに入らないから」、「かなり荒っぽい関係も成立」し「いじめは必然的に起こ」っていたとしなければならない。

 それとも地域の「ガキ集団」に関しては常に「大人の倫理はストレートに入」っていたと言うのだろうか。小賢しい評論家が持論としていることに「昔は子どもが悪いことをすると、地域の大人が注意して、やめさせた。今の大人は見て見ぬふりをする」とバカの一つ覚えで繰返される手垢のついた地域秩序論があるが、いつの時代の子どもにしても大人の巧妙さを学ぶ。特に悪事に関しては自己保身本能は誰でも持っているだろうから、より巧妙であろうとするだろう。何気なくしてしまういたずらならまだしも、大人の注意を受けなければならないような「悪いこと」は大人の目の届かない場所、隠れた場所でやらかすぐらいの巧妙さは持っている。

 逆説するなら、地域の大人が見つけて注意できるような「悪いこと」は「悪いこと」をする子どもにとっては「悪いこと」の内に入らない事柄でしかないだろう。「悪いこと」が大人の目の届かない場所で完遂される限り、いわば表に現れない限り、情報化を経ることもなく、周囲にとっては存在しないと同じことになり、大人の注意以前の問題となる。それは現在のいじめが学校・教師・親に発覚するまで存在しないのと同じ構図をなすものであろう。

 ときには大人の目に触れることを覚悟して「悪いこと」をする場合もある。柿泥棒やスイカ泥棒といった畑に実っている果実を盗む場合である。大概昼間正々堂々とやらかすから、見つかることを覚悟し、見つかれば一斉に逃げ出す。その早いこと、まさに脱兎の如くである。場合によっては、足の遅い子、逃げるにもたもたしていた子が捕まることもあるが、下手に仲間の名前を告げたりすれば、後でいじめられたり、殴られたりする。教師に呼び出されて、こっぴどく叱られたとしても、二度としませんの誓いはその場凌ぎと相場は決まっている。教師や親に叱られて、「悪いこと」をやめた人間がどれ程いただろうか。

 見つからずにできるか、見つかったとしても、うまく逃げることができるか、ゲームで行うこともある。今の中・高生が人前でも平気でタバコを吸うのは、大人が注意しないのを学び、知っているからだろう。と言っても、注意しないのが問題ではない。注意が有効である場合は隠れて吸うだけの話である。実際に人前で吸う前は隠れて吸っていたのであって、注意のあるなしは単に人前で吸うか吸わないかの条件に過ぎない。昔も今も喫煙自体の成立条件とはなっていない。生徒の喫煙のキッカケはテストの成績では表現できない自己の勲章を喫煙に替えて打ち立てようとする虚栄心が殆どだろう。誰がタバコを吸っているか他の多くの生徒が知っていることがその証拠となる。人に知れない行為は勲章とはならない。だから、自分が吸っていることを他人に知らせようとするし、隠そうともしない。

 言ってみれば、かつての見つかるのを覚悟の果物泥棒が現在の未成年者の人前での喫煙に格上げされた時代的発展に過ぎないだろう。現在も「昔」も「悪いこと」は大人の注意以前の問題なのであって、「大人の倫理はストレートに入らな」い状況は現在だけの問題ではない。単に「悪いこと」が時代的な程度の影響を受けた違い(=時代性の違い)があるだけの話だろう。

 プロ教師が言うように「いじめは学校の問題ではなく、子どもの世界の問題なのだ」が合理性を備えた主張として許されるとしたら、戦前の大日本帝国軍隊での新兵いじめは有名であるが、それを「軍隊の問題ではなく、兵士の世界の問題なのだ」と片付けることも許されることになる。学校という集団社会の力学とその構成員である生徒との力学が別別の作用を働かせていることになる。

 軍隊世界の戦争とか軍人だといった力の意識と、上を絶対とする集団主義的・権威主義的上下関係意識とが相まって、優位的位置を背景とした上の傲慢さとその逆の下の隷属を生じせしめていたのであって、当時の軍隊がはびこるのを許していたそのような集合意識が深く関わっていた新兵いじめであったろう。

 このことは今の学校についても言えることで、学校・教師がはびこるのを許し、個々の生徒を支配・拘束している集合意識がどのようなものか、まずは考えてみる必要があるはずである。

 それは自己の位置を他者の位置よりも優越たらしめる方法として、あるいは自己の優位的位置の証明としていじめを手段とする自己存在証明行動のはびこりであって、手段は違えても、テストの成績で以て自己の位置を他者の位置よりも優越たらしめ、証明する自己存在証明行動のはびこりと軌を一にする自他優劣表現であり、テストの成績で他者を差別できない者の代償行為(=埋め合わせ行為)としてあるいじめであろう。そして学校が元となるテストの成績で生徒の価値を位置づける価値観のはびこりを許しているということである。

 成績優秀なテストの成績で自己存在証明を果たしていながら、いじめでも自己優位性を証明しようとする欲張った生徒がいるようだが、成績がいくら優秀でも満足させることができない人間支配をそれを可能とするいじめで行おうとする年齢不相応のサディスティックな権力欲・権力意志を内的衝動としているからではないだろうか。人間支配ほど、甘い蜜を味わわせる行為はない。他者の意志を好きなように操作し、従わせることができるのだから。いじめはライオン使いが振りまわすムチの役を果たす。成績優秀な上、いじめでも力を発揮することのできる生徒はすべての面に亘ってクラスの支配者として君臨することができる。

 学校・教師は学校社会を自己存在証明方法としてテストの成績だけか、あるいはスポーツの才能をその下位に用意する相対化を許さない空間とし、その二つの価値観から外れた生徒の自己存在証明方法を用意しない過ちがすべての生徒に対して優位的位置取りの集合意志(間違った自他優劣表現)を生じせしめているのである。

 解決方法はテスト教育で自己の位置取りができない生徒に対しても社会的に正当とすることのできる位置取りを可能とする生存機会を等しく用意することだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育改革国民会議・最終提言批判・4

2006-12-10 02:17:48 | Weblog

 5.なぜ問題行動を起こすのか

 提言の(4)は、<問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない>となっている。そして次のように解説している。

 <一人の子どものために、他の子どもたちの多くが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりすることのないようにする。不登校や引きこもりなどの子どもに配慮することはもちろん、問題を起こす子どもへの対応をあいまいにしない。その一方で、問題児とされている子どもの中には、特別な才能や繊細な感受性を持った子どもがいる可能性があることにも十分配慮する>

 その具体的内容は、

<(1)問題を起こす子どもによって、そうでない子どもた
    ちの教育が乱されないようにする。
 (2)教育委員会や学校は、問題を起こす子どもに対して
    出席停止など適切な措置をとるとともに、それらの
    子どもの教育について十分な方策を講じる。
 (3)これら困難な問題に立ち向かうため、教師が生徒や
    親に信頼されるよう、不断の努力をすべきことは当
    然である。しかし、これは学校のみで解決できる問
    題ではなく、広く社会や国がそれぞれ真剣に取り組
    むべき問題である。>

 この提言には、なぜ「問題を起こす」のかの視点がない。原因究明がなされなければ、<それらの子どもの教育について十分な方策を講じる>ことは不可能なだけではなく、教師が<生徒や親に信頼されるよう>どう<不断の努力をすべき>かも判断不可能となる。

 では、なぜ「問題を起こす」のか。社会の多様化とか人間の多様性、多様な価値観と言いながら、学校社会における〝授業の場〟では生徒の多様な個性・多様な才能に反して、テストの成績を人間を価値づける唯一絶対の価値観としている一律性と言行不一致が招いている混乱であろう。テストの成績が唯一絶対の価値観となっているということは、学校教師の他者共感能力が学歴主義に囚われ、成績のよい生徒にのみ向けられて働いているということである。勿論それは世間の大人にも親にも言えることであるが、学校はそのことに対する抵抗の場でなければならないのに、無考え・無定見に流されている。だからこそ、<一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する>を目的とした提言(6)で<一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する>としなければならなかったはずである。

 だが、学歴主義を土台とした教育を続けている限り、その具体的内容としての<少人数教育>だとか、<習熟度別学習>、<中高一貫教育校>などといくらアイディアを打ち上げたとしても、暗記知識の植えつけとその成果としての表面的な学力の獲得には過不足なく機能したとしても、<一律主義>の改善には役に立たないだろう。特に<18歳までに二度もある受験の弊害>を減じることを目的に<中高一貫教育をより一層推進する>としながら、<高校での学力向上を目的として、学習の成果を測る学習達成度試験を><年複数回行い、学年を問わず何度でも受験できるようにする>とするのは、自己矛盾を犯すものである。

 誰もが中学生の頃から、高校での<学習達成度試験>に備えて、暗記知識に精を出すだろうからである。そして、<創造性、独創性、職業観を育むため>の<体験学習>の成果は試験の成績には関係はなく、例え生活態度で点数化されようとも、学歴主義社会ではあくまでもテストの成績が主体であって、<体験学習>も<奉仕活動>も、表面的で形式的な〝なぞり〟と〝消化〟で誤魔化すことができるのである。

 人間がテストの成績で価値づけられる社会にあって、誰が<体験学習>や<奉仕活動>に心底からエネルギーを注ぐだろうか。そのことはプロ教師も言っている、「私の中学校では殆どの生徒が高校を受験するため、そのうちの八割くらいの生徒が塾へ行っている」という過熱した塾状況が受験社会において生徒にとっての絶対的な生存条件は何かを物語っているのである。<体験学習>と<奉仕活動>は、そこそこにこなすいい生徒であれば済むが、テストの成績はそこそこに済ますわけにはいかない社会だということである。例え<学習達成度試験>に合わせて大学のレベルを選ぼうとも、本人にとってはそれが望み得る精一杯の成績だろうから、テスト勉強にこそ心血を注がなければならない状況は依然として続くのである。

 となれば、テスト価値観に加わることのできない生徒の問題行動はなくなることはないだろう。テストの成績では獲得できない自己の優越性を、いじめや暴力で獲得する倒錯した自己優越証明・自己存在証明を図る生徒も跡を絶たないだろう。俺は勉強ができないからと<体験学習>に力を入れたとしても、学校では、あるいはクラスではテストの成績が人間を価値づける価値観として常に立ちはだかることになる。あるいはテストのできる生徒が<体験学習>でも<奉仕活動>でも、そこそこにいい生徒を演じることだろうから、そこでも目立つのはテストのできる生徒ということになるだろう。<体験学習>や<奉仕活動>で先頭に立って活動する生徒をテストの成績で自己優越証明のできない生徒がそれ以上の優劣の距離をつけられないために、これまでも例としてもあった厭がらせや中傷、いじめで妨害しない保証もない。

 問題行動対策は単に<一律主義>や学歴主義を改めるだけではなく、学校社会を一般社会と同様にすべての生徒に生存機会を平等に与えること以外に道はない。一般社会では大人は学歴がなくても、学歴を必要としない様々な場所で自己生存の機会を獲得することができる。だが、学校における授業の場では、勉強の成績以外で自己の生存機会を図ることはできない。勉強ができなくても、スポーツの能力が特別にあれば、一応の自己存在証明は可能ではあるが、あくまでも勉強で生存の機会を得ているわけではなく、テストの成績の方が常に優越的位置にある。例え巨人の松井にしても、一国の総理大臣と同じ年齢に達したとしても、頭を下げるのは松井の方だろう。アメリカ社会のように、大統領と一般人がファーストネームで呼び合ったり、片手で肩を抱き合ったり、ときには際どい冗談や皮肉を言い合ったりする関係は決して実現しない。

 すべての生徒に生存機会を平等に与えるということは、誰もが勉強ができるようにするということではない。その逆の、勉強ができなくても、勉強ができる生徒と同等の生存機会が与えられるということである。現在は勉強のできない生徒の中には学校外のゲームセンターやカラオケボックスで、あるいはパソコンゲームするとかで自宅で自己生存機会を得ている。問題行動を起こす生徒は恐喝とか、コンビニの前でたむろするとかで自己生存を図っている。勿論学校での恐喝は困るが、勉強以外で彼らが好きなこと、興味があること、あるいは関心を持っていることにチャレンジさせ、そのことを自己生存機会の方法とするのである。パソコンゲームが好きなら、それを極めさせたらいいではないか。極めさせる過程でそれなりの学力――漢字の読み書きや意味解釈の習得、歴史だって、ヨーロッパ中世の戦士が戦うゲームや日本の戦国時代の国盗りのゲームを取上げたなら、そこそこには学ばせることも可能である。

 マンガが好きな生徒にはマンガを極めさせたらいいではないか。世界のマンガ・日本のマンガ、マンガの歴史等々から、学力もつけば、教養も獲得できる。好きなマンガを書かせれば、創造力(想像力)もつく。学力を漢字の読み書きや計算、その他の知識の獲得の程度(=能力)と把えずに、学ぶ力・学ぶ能力と解釈したらいい。勿論理科・物理・化学が好きなら、それを十分に学ばせたらいい。英語が好きなら、英語を。一つの興味ある事柄を可能な限り広範囲に極めさせる。そこから一般世界・一般社会を展望できたとき、知識は単なる知識であることを超えて、教養へと発展する。思想・哲学へと発展する。人間とは何か、<死とは何か、生とは何か>も学ぶことができるだろう。このような教科方式は提言(7)の<記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する>場合のアイディアにもなり得るだろう。

 学力が学ぶ力・学ぶ能力となったとき、それは知識の主体化を意味する。

 6.大人の存在自体が有害情報である

 提言(5)は<有害情報等から子どもを守る>となっている。

 <IT社会の進展に伴って、子どもたちが大量の情報にさらされるようになった。そのことは、学習の機会を提供する一方で、弊害ももたらす。「言論の自由」と同時に「子どもを健やかに育むこと」の大切さは、あらゆる情報産業関係者に自覚されるべきである。ポルノや暴力、いやがらせや犯罪行為を意図的に助長する情報や子どもの教育に有害な営利活動から子どもたちを守る仕組みが必要である>

 具体的な方法論は次のとおりである。
<(1)保護者団体や非営利活動団体(NPO)、研究グル
    ープなど複数の民間団体が、自主的に有害情報等と
    は何かを検討し、有害情報等をチェックする。その
    情報を提供することなどにより、子どもに有害情報
    等を見せない仕組みをつくる。この場合、その方針
    を公開する。
 (2)民間団体などが、有害情報等を含む番組などのスポ
    ンサーとなっている企業へ働きかける。
 (3)国は、子どもを有害情報等から守るためのこうした
    取組を支援するとともに、そのための法整備を進め
    る。>

 アメリカ合衆国の禁酒法(1920~33)は人間の飲酒癖を断ち切ることができただろうか。密造・密売をはびこらせ、それを手がけたギャングに巨万の富をもたらせただけの結果に終わった。いわば法を犯してでも、人々は密造酒を買い、アルコールを嗜好品とすることから逃れることができなかった。常識ある大人たちが、いわゆる<有害情報>としている番組をテレビから追放しても、あるいは「有害情報」としている書籍・雑誌を一般書店の店頭や自動販売機から追放したとしても、それらは地下に潜り、カネ儲けのためには手段を選ばない大人たち(<有害な営利活動>をする大人たち)によって、提供され続けるだろう。需要側にしたら、隠れて手に入れる状況に自らを置くだけのことでしかない。いわば、<有害情報>はどう足掻いても阻止できようはずがないもの、それを<見せない仕組みをつくる>ことなど不可能と見定める開き直りが必要なのではないか。

 大体が常識ある大人たち自体が常に常識ある態度を見せるとは限らないのである。大学教授が若い女性愛人にカネを貢ぐために、自分たちの性行為をビデオに撮り、それをCDROM化して、ホームページで販売して逮捕されたのはごく最近の出来事である。大人たちの児童買春も跡を絶つことはなく、学校教師自体の教育対象者ではあるはずの女子生徒に対するワイセツ行為も断絶することなく年々増え続け、しぶとく話題を提供し続けている。マスコミにとってはありがたいニュース提供者となっているに違いない。順位を付けるとしたら、警察官と政治家と1位、2位、3位を争う好位置につけているのではないのか。政治家で言えば、女性問題で不人気を買い、総選挙に敗北して辞任に追い込まれた総理大臣もいたし、愛人問題が辞任の一つの理由となった幹事長もいる。

 大人たち自体がワイセツ・猥雑ときているのに、それを児童・生徒に禁止する資格はない。少なくとも<有害情報>を嗜好する児童・生徒は自己正当化の理由に「大人たちだって」を挙げるだろう。「裏にまわれば、何をしているか分からないのに」と。<有害情報>を利用してカネ儲けに走る大人たちにしても、政治家や官僚、企業人の私利私欲のための手段を選ばない悪事・不品行・カネのやりとりを、「連中にしたって、裏にまわれば何をしているか分からないのに」と自己正当化の理由とするだろう。「お互い様じゃないか。どこが違うってんだ」と。

 感性・想像力を表面的に刺激するだけの、多分に時間潰しの色彩の濃い低劣な情報を志向するのは、表面的・形式的なコマ切れ知識を暗記させるだけの学校教育自体が生徒の感性・想像力を深いところで刺激しないことの反映としてある、いわば釣り合いの取れた状況のはずである。もし何らかの知識に深く魅せられたなら、ときには気晴らしにテレビでバラエティ番組を見たとしても、基本の嗜好は感性・想像力を深く刺激する情報に向かうはずである。子どもの頃、シェークスピア作品や夏目漱石作品を読んで、例え正確に理解できなかったとしても、何かあると感じ、惹かれるものをどう抑えることもできなかったことを経験した人間は、成長してから人間を浅く描いただけの情報、あるいは表面的な刺激しか与えない娯楽には常に物足らなさを感じるものである。

 勿論、人間としての基礎を築く出発点の家庭で親が番組の内容を検討もせずにだらしなくテレビを見せるとかして、子どもの情操を未開花なままの状態にさせておいた罪は糾弾されて然るべきではあるが、純然たる教育空間である学校がそれを補って少しでも開花状態に持っていくのが、役目というものだろう。未開花なまま入学したのだから、未開花なまま送り出せばいいというものではないはずである。まだ漢字を知らない、まだ計算ができない子どもに漢字と計算はそれなりに教えることができるなら、情操教育もそれなりにできなければならないはずで、それができていないとなったなら無能力・怠慢の罪は糾弾されて然るべきである。それを学校教師は「最近の生徒は本を読まなくなった」と嘆いて、子どもに責任転嫁している。

 教科書を表面的になぞり、それを解説するか、教科書を離れたら、ああしろ、こうしろと言うだけか、自分の経験を話すとしたら、どこで誰と何をしたか、事実を事実どおりに伝えるだけか、その程度のものが教師の平均的な言葉となっていることが生徒の感性・想像力を何ら刺激せず、そのような教師の深みも何もない平均的な言葉を受けて、情緒性をすっかり剥ぎ取ってしまった今の若者言葉があるのである。

 となれば、学校生徒の<有害情報>嗜好を抑制するためには、まずは教師の言葉を問題としなければならない。そしてそのような機械的で情緒的に無味乾燥な教師の言葉は、機械的な解釈以外は必要としない、逆説的に言うと、そのような言葉を間接的に強いている学歴獲得のテスト教育によって淘汰されたもので、学歴獲得のための教育では一枚も二枚も上手の学習塾の教師の、テストの設問と解答のための言葉以外は省いた言葉がその典型としての証明を見せている。

 一見遠回りに見えるが、学歴獲得を主体的に目的とした現在の教科教育を根本から変換するしか、有効な<有害情報>対策はない。今の子どもがテレビに慣れ親しんで、テレビを血肉としているなら、豊かな人間性と豊かな情操に溢れたドラマやドキュメンタリーをビデオ鑑賞させ、鑑賞したあと教師対生徒・生徒対生徒で何が描かれていたか、どう受止めたかといったことの言葉の闘わせを行い、相互に理解を深め、それを相互の感性・想像力の刺激剤とする。それら一連の作業は自己認識・他者認識・共感能力(社会性)をも高め、「教育改革国民会議」が目指す<人間性豊かな日本人><育成>の実現にも向かう契機となるはずである。プロ教師の如くに「親や社会の要求することを完全に拒否する力はありはしない」だとか、「残念ながらそれにのみ込まれ流されていることは事実」だとか、「教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっている」などと薄汚い狡猾な自己正当化の責任転嫁で自己保身に汲々とせず、社会の学歴主義への防波堤となって、人間性育成教育への転換を図るべきだろう。人間性育成が<職業観、勤労観>をも育む。人間性育成教育と並行して学力(学ぶ力)をつける教育を創造してこそ、教師は学校教育者と言える。「流され」るだけなら、学校教育者はいらない。
    (教育改革国民会議・最終提言批判)以上

 以上見てきたように、提言(1)の<教育の原点は家庭であることを自覚する>、提言(2)の<学校は道徳を教えることをためらわない>、提言の(3)の<奉仕活動>、提言の(4)のいじめを含めた<問題を起こす子ども>に対する<出席停止>問題等は今回の「安倍教育再生会議」でも議論されていることで、既に指摘したように、ほぼそっくりの問題が再提言されているということは「教育改革国民会議」の提言が何ら実効を見なかったことを証明し、同じことの繰返しとなっている。

 と言うことは、教育に関わる現在の問題点を拾い出して、その対策を議論し合う同じことの繰返しを行うことよりも、「教育改革国民会議」の提言を実行に移すことができなかった諸原因を探り出して、その誤りを正していくことの方が根本的解決に向けた早道ではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育改革国民会議・最終提言批判・3

2006-12-09 03:09:30 | Weblog

 4集団奉仕活動は必要ない

 提言の(3)は、<奉仕活動を全員が行うようにする>となっている。その理由として、<今までの教育は要求することに主力を置いたものであった。しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で温かい潮流をつくることが望まれる。個人の自立と発見は、自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。思いやりの心を育てるためにも奉仕学習を進めることが必要である>を挙げている。日本の政治家自体が派閥力学・選挙利害・族原理・省益代弁で政治を行っていながら、あるいは<他者への献身や奉仕>が自己地位の保身を取引材料としていながら、いわば無私とは限りなく無縁でありながら、<思いやりの心>などと日本の政治家にはない無私を求めるのはおこがましいにも程がある。強制されたものではない、自発的な<奉仕活動>と<思いやりの心>が一般的になったら、似た者政治家は後が続かなくなり、自らの首を絞めることになるだろう。

 提言の具体的な内容は次のとおりである。

<(1)小・中学校では2週間、高校では1か月間、共同生
    活などによる奉仕活動を行う。その具体的な内容や
    実施方法については、子どもの成長段階などに応じ
    て各学校の工夫によるものとする。
 (2)奉仕活動の指導には、社会各分野の経験者、青少年
    活動指導者などの参加を求める。親や教師をはじめ
    とする大人も様々な機会に奉仕活動の参加に努める
    。
 (3)将来的には、満18歳後の青年が一定期間、環境の保
    全や農作業、高齢者介護など様々な分野において奉
    仕活動を行うことを検討する。学校、大学、企業、
    地域団体などが協力してその実現のために、速やか
    に社会的な仕組みをつくる。

 偉大なるプロ教師である河上亮一先生は教育国民会議の重要な、多分なくてはならないメンバーの一人で、先生の学校教育界における歴史に残る業績から推測すると、義務化推進派の重鎮なのはこの上なく確かなことに違いない。いわば河上亮一先生の偉大なる教育思想の成果ともなる<奉仕活動>の義務化なのだろう。実践され、軌道に乗った暁には森総理大臣の横で、二人して<神の国バンザイ>を三唱することになること請合いである。メデタイことである。

 義務化に関して、いつも偉大な河上亮一先生は、「強制のなかで学ぶきっかけを得ることもある」とおっしゃっている。そのとおりである。万が一にも間違いのない要点を押さえたお言葉である。その結果として、元々日本人は歴史的伝統的に集団主義・権威主義を行動様式としていて、集団や上位権威者の命令・指示に言いなりに同調・従属する性格傾向を自己性としているから、多くは〝なぞり〟と〝消化〟の一層の「学」びを刷込む方向に進むだろう。いわば「強制のなかで学ぶ」ものはなお強化された同調・従属でしかない。「大学を卒業しても、考えることができない」メンタリティーとは(アメリカ人ジャーナリストを介した指摘)、言いなりな同調・従属性の言い換えであって、体系的に学び問うことをしない教育システムの収穫物としてあるものである。

 言いなりな同調・従属に対して、個々の主体性や自律性(自立性)・自発性は阻害要因として働く相対立する価値観なのは先に述べたが、その延長に「マニュアル国民」、「前例国民」、あるいは「親方日の丸」の日本人性があるのであって、そのような日本人性からしたら、「学ぶきっかけを得る」というプロセスにある自発性・主体性は一般的には矛盾する方向性を持ったものである。いわば「学ぶきっかけを得」たとしても、ごく一握りの少数派でしかないだろう。その他大勢はそれまで以上の形式だけの表面的な同調・従属でしのぐことになるに違いない。偉大な河上亮一先生のことだから、勿論そういったことを踏まえて名言を吐いているだろうとは思う。

 テスト勉強と同様に、掃除やその他の作業と同様に、義務づけられたから、ただ単に命令・指示されたことをなぞり、消化する――去勢された奴隷の如くに言われたことを機械的にこなしていく。最大公約数の学校生徒がすべての局面においてそうなったとき、偉大なるプロ教師河上亮一先生が望んでやまない「教師が何か言えば、生徒がそれを聞くという関係」が完成するわけである。やはりメデタシ、メデタシである。

 勘繰るに、「奉仕活動」の義務化を新制定の国旗国歌法を受けた学校現場における日の丸・君が代の(半)強制的使われ方と併せ考えると、国家を批判しない、管理可能状態に国民を飼い慣らすことができるよう、小学生のときから日本国家に向けた同調・従属の姿勢を植えつけようとの遠謀深慮から出た義務化ではないだろうか。偉大なるプロ教師河上亮一先生の言葉を借りれば、国家が「何か言えば、」国民が「それを聞くという関係」である。もし当たっているとしたら、日本が紛争状態に巻き込まれたとき、<奉仕活動>で確立された集団性はいとも簡単に勤労動員や徴兵制に振り向けられ、利用されることになるだろう。

 特に<将来的には、満18歳後の青年が一定期間><奉仕活動>を行うとする好むと好まざるとに関わらない義務化(=生活制限)は、好むと好まざるとに関わらない、まさにその一点において、精神的な徴兵制度・精神的な勤労動員を背負わされるに等しい。義務化が持つ半強制性の反復による国民に対する管理可能状態への徹底化である。とにかく河上亮一先生は、言うことを聞く生徒を熱望してやまない。自民党政権が言うことを聞く国民を熱望してやまないように。

 <奉仕活動>での<共同生活>は、肉体訓練とか健康維持とか称して早朝ランニングや早朝ラジオ体操、そして夜は何らかの社会勉強の時間が設けられ、<奉仕活動>を管理・監督する側から生活全般を厳しく管理・強制される。したいこと・なりたいことを禁止され、少なくとも抑制され、自己生活とは無縁の厳しいスケジュールに従って支配される。例え<具体的な内容や実施方法については、子どもの成長段階に応じて各学校の工夫によるものとする>としたとしても、また実施時期がそれぞれに異なっていたとしても、その土台は国家権力の意志を受けた教育委員会や学校による一律的強制であることに変わりはない。これは個人の自由の侵害に当たらないだろうか。なぜ<共同生活>なのか。実施における年齢と時間のズレはあっても、挙国一致を要素とした一斉性を孕み持っているのである。

 オリンピックとか世界選手権を迎えた<満18歳後の青年>は公の大義名分によって、大会後への延期が許されるだろうが、大学浪人は受験勉強を中断させるわけにはいくまい。高卒でプロ野球を目指す高校生は<一定期間>をどこに置いたらいいのだろうか。それとも、スポーツエリートに関しては特別免除の例外規定を設けるのだろうか。それは国民を<満18歳後>の時点で〝選民〟とその他大勢にふるい分けることになる。ふるい分けられてその他大勢であることを自覚させられた<満18歳後の青年>は自嘲と無力感に囚われることはないだろうか。

 <環境保全や農作業、高齢者介護>等々――<奉仕活動>の内容によって、あるいは指導・監督する者の方法によって大変・楽の差が生じて、それが口コミで伝わり、楽な<奉仕活動>には希望者が殺到するが、大変な方は忌避される傾向が生じないだろうか。そうなったら、自発性の<奉仕活動>でないゆえに、希望と違って俺は大変な方にまわされたと不平不満が渦巻くことにもなるだろう。その結果、どちらにまわされようと、どちらを選択しようと、形式的な同調・従属を最強化させ、一刻も早く解放されることだけを願うということにもなりかねない。

 同調・従属への傾斜は、例え<奉仕>内容は違っていても、過不足なくみんなと同じを目指す類似性心理(横並び心理)の誘発にもつながる。それは日本の経済や芸術・文化・技術・娯楽の、現在以上に多様となるべきそれぞれの分野にこれまで以上の社会的活力の平均化――いわば今問われているアメリカ社会の多様性に劣る日本社会の多様化への否定要因ともなり兼ねない、その失速を招くことにつながるだろう。

 集団訓練こそが人間性を鍛えると信じて疑わない日本人の単細胞性は、勿論集団主義・権威主義からきている。集団成員一人一人が主体的・自律的に行動することを常なる前提とした集団経営ではなく、上がスケジュールしたことをスケジュールしたとおりに「ああしなさい」「こうしなさい」と命令・指示し、下がスケジュールどおりに(命令・指示されたとおりに)従えば、それでよしとする〝和〟優先の無批判・無考えな同調・従属を構造とした集団なら、国家権力にとっては都合がいいが、自ら行動しない人間・自ら考えることはしない人間をつくるばかりで、人間形成に何の意味もないばかりか、かえって害となる経験で終わる。

 最近、〝引きこもり〟が問題となっているが、引きこもりとは、他者との間に言葉のコミュニケーションを喪失した状態を言うはずである。もしも学校社会で日常的に他者との自由な言葉の交換の習慣(<会話と笑い>)が存在していたなら、例え引きこもりに陥ったとしても、習慣として植えつけられた言葉の交換をいつまでも抑えつけておくことはかえって苦痛を誘発することとなり、少なくとも社会現象化するまでには至らなかったはずである。いわば、〝引きこもり〟は学校社会に言葉の交換(<会話と笑い>)の習慣の不在の裏返しとしてある現象とも言える。

 ところが、多くの人間が集団生活を営ませれば、引きこもりはなくなると考えている。学校社会が既に集団生活の場であることを無視した愚かしい発想でしかないことに気づかない主張なのだが、例え一緒に生活したとしても、集団の場で他者との会話を一切持たなかったり、仲間外れ状態にされていたなら、心理的・物理的な一種の〝引きこもり〟と言える。学校に不登校予備軍とも言える、不登校一歩手前の引きこもり状態にある生徒が決して少なくないはずである。

 偉大なるプロ教師でいらっしゃる河上亮一先生にしても、「学校が教科中心となって、行事が後退したため、子どもたちが集団活動する体験が減った」と、学校そのものが当初から一種の集団活動社会であることを無視して、行事だけが集団活動の機会だと、偉大なるプロ教師にしては、それに反する単細胞なことを言っている。多分、偉大なるプロ教師の河上亮一先生は、学校で最も多くの時間を過ごす授業時間をこそ、真に有効な集団活動の場とするだけの想像力が欠けているために、行事だけを集団活動の機会だとする無責任なすり替えをやらかしているのだろう。その裏を返せば、プロ教師の授業は、その他大勢の教師も同じことだが、教科書を解説し、生徒に答えさせる、教科内容の理解以外の言葉の交換のない機械的なもので成り立たせていることを暴露している。

 必要なのは物理的な集団生活ではなく、幼い頃からの、特に学校社会での相互に自己の考えを主張する言葉の闘わせの習慣であろう。教師対生徒・生徒対生徒の自分を述べ、自分を主張する言葉の日常的な交換によって、自己を認識し、他者を認識する能力(=社会性)が獲得可能なのであって、その育みが主体性や自律性(社会的自立)、さらに自発性の確立につながり、その先にこそ、同調・従属とは正反対の独自性や多様性が待ち構えているのである。そしてそのような独自性や多様性こそが、社会に活力を与える導火線ともなるものである。非自発性であるゆえに同調・従属を誘発しがちなスケジュール化された集団生活・集団活動は独自性や多様性の芽を摘み、抑圧する相対立する位置にある価値観であることを認識しなければならない。

 改めて言うが、「強制のなかで学」ばせる教育方法は、〝なぞり〟、〝消化〟の形を取った学びを誘い出すだけである。それは元々からある日本人の行動原理であり、受身の姿勢で十分に機能させてきたシステムだからである。

 呼びかけに応じてボランティアの集団清掃活動を行っても、個人の立場では平気で空きカン・空きビン、さらにはタバコの吸殻も捨てる矛盾性は、呼びかけに世間体や近所・仲間の手前といった半強制的な権威主義の力学(=圧力)が働いていて、断りきれずに形式的に同調・従属し、〝なぞり〟と〝消化〟で清掃を行うことから来ている身につかなさなのだろう。純粋に自発的に参加した清掃活動なら、みんなの手前は拾うが、自分は捨てるといった裏表のある行動は取れない。毎年の富士山の山開き前に行う清掃活動はダンプ何十台という大量のゴミを処理することになるが、その殆どが日本を代表する日本一高い山・日本一美しい山として信仰、もしくは誇りとしている日本人が捨てたものなのである。彼らの多くは世間に対したとき、常識ある大人として振舞っているはずである。いわばその常識は自発性からのものではなく、単に周囲に合わせ、周囲に同調・従属したもの、〝なぞり〟と〝消化〟でやり過ごしているものだと言うことを暴露している。

 かくかように同調と従属を行動性としているのである。集団行動がそのような行動性の強化に役立っても、提案が言っている、<個人の自立と発見>どころか、<自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持>たせることは過大な期待で終わるだろう。集団主義・権威主義を行動様式としている日本人には、集団や組織から離れたところでの自律的主体性が必要なのである。自律的主体性とは、主体的個人性のことである。空きカンや空きビンのポイ捨てに譬えるなら、誰もいない場所や知った顔のいない場所でのポイ捨てをしない社会性の確立が待たれるのであり、それは個人が自律的主体性(主体的個人性)を備えることによって可能となる行動性であろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育改革国民会議・最終提言批判・2

2006-12-08 02:13:17 | Weblog

 謝罪――「教育改革国民会議・最終提言批判・1」の記事で「教育改革国民会議」を小泉政権下で行われたとしていますが、小泉首相就任は2001年4月26日、「教育改革国民会議・最終提言」が行われたのは2000年12月22日です。「森政権下」の誤りでした。間違った情報を伝えたことを謝罪します。

 2.教育の原点を学校とせよ

 確かに親は家庭教育者の立場にあり、その責任を負っている。だが、一般的に家庭教育者として十分に機能していない原因は、最初から誰もが親ではなく、子どもであったときから幼稚園児(保育園児)・小中高生、さらにそのうちの何割かは大学生を経て社会人となり、親となる過程で、人間としての成長(人間性の獲得)を殆ど見ないままの状態が連続するからだろう。裏を返せば、子どもが成長の過程で置くそれぞれの段階で人生の先輩の立場で接する大人たち(=親・教師・上司etc.)自身が人間的感化を与え得るほどの「豊かな人間性」を持ち得ていないからである。このことは先の記述(第1回・教育の原点は家庭ではない)にも関連することである。

 いわば、立場上の教育者たり得ていないのは何も親だけではなく、学校教師からしてそうであり、社会の大人たちも(政治家も官僚も企業人も)人間教育者という点に関しては同じ穴のムジナでしかないということなのである。学歴人間・会社人間・政治家や官僚を含む組織人間(このことは派閥優先・省益優先の姿勢・態度に現れている)といった同調・従属人間を生み出すことに関しては特異性を発揮してはいる。

 つまり、家庭でしっかりとしつけされない子どもがそれぞれの教育空間をコマ切れの暗記知識は身につけるものの、人間性獲得に関してはしつけされないときの状態のまま段階的に先送りされ、社会に出でも人間的成長の感化を受ける機会もなく親となるから、子どもに対するしつけが不十分となる。言い換えるなら、子どもから親へと対人感受性とか対話能力、倫理観といった人間的内容に関してほぼ同じ程度で循環しているに過ぎない結果のしつけ不全現象なのであろう。

 社会に出でも人間的成長の感化を受ける機会がないのは、学歴人間・会社人間・組織人間としての成り立ちは、集団・組織に同調・従属する代償として自己性(自己意志や自己人間性)を抑圧しなければならない構造上、同調・従属に関わる人間性の習得には役立っても、自律的で人間味豊かな人間性の獲得はかえって集団・組織から自己を疎外することになり、そのような人間との関係において、学習不可能となるからである。欧米人から、「日本の政治家は顔が見えない」とか、「日本人は自分の意見を言わない」と言われるのは、集団・組織に同調・従属することで自己を埋没させてしまい、結果として自己のものではない、集団・組織の意志・意見を表明することで自己を成り立たせることからの一人一人の顔の見えなさなのである。厳しい言い方をするなら、学歴主義と真に「豊かな」「人間性」とは両立しない。

 偉大なる自称プロ教師の河上亮一氏は、「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標があったから、学力だけで生徒を評価するようなことは基本的にはしていない」などと、その著作の中でウソ八百を述べ立てているが、学校教育というものを社会の学歴主義に無批判・無定見に同調・従属したテスト教育(=受験教育)のみで成り立たせているからこそ、あるいはそういった教育にのみ教師が役立っていないからこそ、一個の人間として親にしつけされない子どもが学校という教育空間を経過しても、入試突破の暗記知識をそこそこに獲得する学歴主義への同調・従属人間は育てることはできるが、人間性に深く関わり、人間性そのものの表現要素となる自律性や主体性、さらには対人感受性(他者認識能力や共感能力、人権意識etc.)を獲得できないままに社会人となり、親となり、しつけできない同じことの循環を繰返しているのである。

 その結果として、<教育の原点は家庭である>とか、<小学校入学までの幼児期に、必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である>などと言わなければならなくなっているのだが、しつけできない親にしつけを求める無いものねだりなのに誰も気づかないバカを犯している。しつけできない親にしつけできるだけの人間性をしつけるには、学校しかないはずである。いわばプロ教師が言う、「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標」を言葉どおりに実践して、掛け声倒れでない実質的な成果を上げさえすれば、例え家庭で親に充分なしつけをなされなくても、学校でそこそこに身につけるはずの「生活の仕方、人間関係の在り方」が社会に出て役立つだけではなく、親となって子どもに対したとき、それはしつけにも応用されるはずである。

 さらに言えば、親が子どもの人間性の育成ではなく、テストの成績や受験で子どもの尻を叩くことを自らの役目とするのは、基本的には学校で生徒であった頃に学校・教師に同じように尻を叩かれ、社会に出ても学歴で人間を価値づけられ、習性化した自己性の単なる反復であって、人生のそれぞれの段階で刷込まれた価値観(学歴価値)以外に自己表現方法を教えられなかったからだろう。このことは「生活の仕方、人間関係の在り方」の教えが何ら実効性を上げていなかったことを改めて証明するだけではなく、親にとってテストの成績や受験で子どもの尻を叩くことがしつけそのものとなった要因となるものである。テストでよい成績を取れば、いい子となるのだから。

 となれば、改めて言うまでもなく、親を親たらしめるためにはまず学校教育をテスト教育一辺倒から、生徒が将来親の資格を十分に持てる人間に育む教育に修正する以外に道はない。これは学力を暗記知識から、自ら考え、身につける応用性を持った知識への転換を図ることにもなる。いわば学歴教育の廃止以外に道はない。

 例え実際に行ったとしても、「生活の仕方、人間関係の在り方」の教えが実効性を見なかったのは学校社会に於いてテストの成績が支配的価値となっていることと、教師が教科書の内容をなぞり、それを解説し、生徒がそれをノートに書いたりして暗記する機械的で一方通行の勉強と同じように、掃除はしっかりやりなさい、老人には優しくしなさい、人の命は大切にしなさい、他人には優しくしなさいといった機械的で一方通行形式の言葉の伝えで生徒とのコミュニケーションを完結させている成果としてあるものだろう。いわば勉強に関してはテストの解答を通して暗記力で自己を価値づけることが可能で、「生活の仕方、人間関係の在り方」はマイナス評価を受けない程度の表面的な対応で誤魔化すことが可能の、双方共に教師の意志に対する生徒の側からの納得のプロセスを踏まないことが、身につかない原因となっているのだろう。勉強も人間の生き方・あり方も、なぜそうしなければならないのか・なぜそうするのかの教師対生徒・生徒対生徒の言葉の闘わせを納得いくまで行って初めて単なる言葉としてではなく、応用性を備えた思想として身につくからである。応用性とは、創造力(想像力)が効くということである。

 このことは提言の(6)と(7)の<一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する>ことと、<記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する>方法論ともなり得るものである。「日本の教育システムは知識を暗記することが中心で、大学を卒業しても考えることができない」(『開かれた知 米国の強み』00.1.9「朝日」朝刊)といったアメリカ人ジャーナリストを介した指摘は、多くの欧米人が共有する指摘であって、日本の学校教育が創造力(想像力)の効く応用性を備えた思想にまで達することのない知識の授受に終始していることを証明している。

 提言(1)の<教育の原点は家庭であることを自覚する>の解説として、<家庭は厳しいしつけの場であり、同時に、会話と笑いのある「心の庭」である>などと美しい言葉を連ねているが、学校空間で家庭同様に<会話と笑い>が日常的に存在しなければ(家庭では存在したが、学校で失うというケースもあるはずである)、それを自己性格化しようもない。学校のテストの成績で生徒を価値づける成績価値観・学歴価値観が家庭にも及んで学校社会の相似形を成していることが、<会話>が主として勉強しろ、勉強しろといった子どもの尻を叩く言葉に限定され、その代償として<笑い>が失われているという側面もあるはずである。当然、<会話と笑い>を性格化し得ない将来の親を家庭共々学校が大量生産することになるのである。このことからも、<教育の原点は>学校としなければならないだろう。

 反語的に言うなら、家庭に<会話と笑い>がなくても、学校に存在したなら、それを自己性格化することも可能で、親となって子どもに<会話と笑い>を親子関係の貴重な柱とする必然が働かないこともないと言える。このことは子どもの頃は人と満足に話すこともできない引っ込み思案の田舎の人間だったのに、東京に出て演劇や落語に出会ってから、ウソのように引込み思案が取れて人前で話すことができるようになったタレントや落語家がいることが証拠立てていることである。

この例はまた、人間が相互に意志・感情・思考を伝達し合うこと(コミュニケーション)に関して、親の教育と同様に学校教育が何ら機能しなかったことをも証拠立てている。

 3.果たして道徳教育は役立つのか

 提言(2)は<学校は道徳を教えることをためらわない> としている。そして次のように解説している。<学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視し、自由と規律のバランスの回復を図ることが重要である。また、善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない。人間は先人から学びつつ、自らの多様な体験からも学ぶことが必要である。少子化、核家族時代における自我形成、社会性の育成のために、体験活動を通じた教育が必要である>

 その具体的内容は、

<(1)小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「
    人生科」などの教科を設け、専門の教師や人生経験
    豊かな社会人が教えられるようにする。そこでは、
    死とは何か、生とは何かを含め、人間として生きて
    いく上での基本の型を教え、自らの人生を切り拓く
    高い精神と志を持たせる。
 (2)人間性をより豊かにするために、読み、書き、話す
    など言葉の教育を大切にする。特に幼児期において
    は、言葉の教育を重視する。
 (3)学校教育においては、伝統や文化を尊重するととも
    に、古典、哲学、歴史などの学習を重視する。また
    、音楽、美術、演劇などの芸術・文化活動、体育活
    動 動を教育の大きな柱に位置付ける。
 (4)子どもの自然体験、職場体験、芸術・文化体験など
    の体験学習を充実する。また、「通学合宿」などの
    異年齢交流や地域の社会教育活動への参加を促進す
    る。>となっている。

 まず最初に言いたいのは、既に述べているように、子どもは大人の文化を自分の文化として受継ぐのと同じ原理で、親や学校教師だけではなく、政治家や役人、その他を含めたすべての大人が子ども・生徒に対する<人間として生きていく上での基本の型を教え>る道徳教師なのであって、無責任な大人が支配的地位に立てるような社会であるなら、現在の子ども・生徒状況はそのような大人の状況を受けた当然の姿としてある存在様式である。そのことへの認識を欠いたどのような「教育改革」もこれまでの「学習要領」が教育荒廃に役立たなかったのと同じ道をたどることになるだろう。

 日本の学校を<豊かな><人間性>教育の場ではなく、受験教育の場として放置したままなのは誰なのか。政治家であり、文部官僚であり、学校教師がその主な戦争犯罪人である。プロ教師は著作で、「もともと、学校は〝学歴主義〟だけで成り立たせることなどできはしないのだ」が、「親や社会の要求することを完全に拒否する力はありはしない。残念ながらそれにのみ込まれ流されていることは事実だから、責任がないなどと言うつもりはない」とか、「学力だけで生徒を評価するようになってはいない。ただし、教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」などと責任薄めの綺麗事を並べ立てているが、それが事実だとしても、教師の主体性・自立性の欠如=無定見・無責任な同調・従属を証明してあまりある。大体が、「受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」ということは、「学力だけで生徒を評価」しているということ、少なくとも「学力」を主体的に「生徒を評価」しているということで、言っていることに矛盾がある。尤も矛盾と綺麗事はプロ教師のお得意中のお得意である。

 何度でも例として引き合いに出すことだが、戦前の軍国主義は軍部と政・官・財がつくり出したことだが、学校・教師は世間の大人たち同様にそれに無定見・無責任に同調・従属し(=付和雷同し)、自らの生き方として生徒に吹き込んだのであり、決して「親と子の強い要求に引きずられ」て軍国主義に、もしくは戦場に「生徒を追い立て」たわけではない。

 もし学校教育をプロ教師が言う通りに「〝学歴主義〟だけで成り立たせ」ていなかったなら、「生活の仕方、人間関係の在り方」を教育の実効性ある柱としていたなら、<社会的自立を促す>とか<社会性の育成>だとか、<自由と規律のバランス>だとか、いまさら課題とすることはなかったろう。

 日本の学校は教師が教科書を機械的になぞり、それを機械的に解説し、生徒が必要個所を機械的に鵜呑みに暗記して、それをテストの設問に解答として機械的に当てはめる機械的な一方通行形式の受験教育の場とはなっていても、〝なぜ〟、〝どうして〟を問う教師対生徒・生徒対生徒の言葉の闘わせを行い、お互いの思考・想像力に刺激を与える学問の場(体系的に学び問う場)では決してなかったのである。これは過去においても、一度もなかった伝統である。学校教育に言葉の闘わせが不在だったからこそ、<死とは何か、生とは何か>を教えたり、考えたりしなければならない緊急的な必要が生じているのである。また、〝なぜ〟、〝どうして〟を問うことをしない場所から、「生活の仕方、人間関係の在り方」に関わる理性も創造力も育ちようがない。育つとしたなら、単に言われたことだけはする態度でしかないだろう。

 国語や英語の授業で学ぶ小説や詩の一節に人間の死、あるいは生活の友・仲間としていた動物の死を描いたものがあったはずで、あるいは生徒の中に若くして不幸な死を迎えた親、生徒自身の病気や事故での死もあったかもしれない、そのことに関して言葉を闘わせることを教育の一つとしていたなら、ただ単に機械的な解説や事情説明で完結させていなかったなら、いまさらながらに<死とは何か、生とは何か>の教えが問題として浮上することはないはずである。

 <善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない>なら、学校教師になるための学問と訓練を大学に行ってまで受けている教師のすべてが<善悪をわきまえる感覚>を備えているはずで、その道徳観も倫理観も生命観(<死とは何か、生とは何か>)も授業における学び問う過程で教師の発する日常普段の言葉に否応もなしに反映されるはずである。いわば教師の発する何気ない言葉からも、その教師の思想・哲学が自然とにじみ出て、生徒に伝わるプロセスを踏み、何もわざわざ<小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」などの教科を設け、専門の教師>を雇って教える必要性はどこにあるだろうか。一般の教師には<道徳>教育は期待できないからだと言うなら、家庭での子どものしつけに親が期待できないなら、<専門の教師>を雇って家庭にも派遣すべきである。

 教師となる人間が小中高と同じく大学でもコマ切れ知識体得の表面的な暗記教育で教師の資格を獲得してきただけだから、生徒に対しても同じ教育方法で臨むしかないのである。同じ形態の意思伝達の人間関係しか結べない。いわば、小中高・大学共、学問の場(体系的に学び問う場)とはなっていなくて、例え教えられたとしても、<善悪をわきまえる感覚>は単に試験に応用するための暗記でやり過ごしただけで、身につくはずもなく、当然生徒に伝わるはずもない。

 教師による幼児ワイセツ、教え子を含めた未成年女子との性交渉、女子生徒に対するビデオでの下着盗撮、校長や教頭といった立場の教師でさえ、宴会で女性教師の身体を触ったりのセクハラ事件等々が跡を絶たないのは、<善悪をわきまえる感覚>を暗記でやり過ごしただけなのを証拠立てている。

 となると、生徒に<道徳を教えることをためらわない>とするよりも、教師にこそ<道徳を教えることをためらわない>としなければならない。<読み、書き、話すなど言葉の教育>も、教師にこそ必要である。教科書をなぞることからさして踏み外すことのない、いわば自前のものではない発展も変化もない平板な言葉を操り、それを生徒に暗記させるだけの教育プロセスからは、体系的に学び問うことをしない言葉の闘わせのない教育プロセスからは、例え<死とは何か、生とは何か>を口にしたとしても、教師自身の社会的経験から得た生命観を濾過したものではない誰か他人の考え・思想を披露するだけのことで終わり、生徒にしても他の授業と同じく、テストが終わるまでの暗記でしのぐことになるだろう。いわばテストの用には立っても、生徒自身の感性・想像力を刺激して生徒独自の生命観として確立するはずもなく、単なる形式だけの授業ということになるだろう。

 繰返しになるが、教師がテスト用の言葉以外の言葉を獲得できていないなら、子ども・生徒にテスト教育用の言葉しか伝えることも教えることもできないのだから、受験教育が主体となっている現在の教育を、例えそれがプロ教師の言うように「親や社会の要求」だったとしても、それを学校・教師は「完全に拒否する力はありはしない」などと敗北主義なことは言わず、根本から変えることを先決としなければ、<人間性をより豊かにするために、読み、書き、話すなど言葉の教育を大切にする>も、単なる掛け声倒れに終わるだろう。

 厳しく言い換えるなら、学歴主義と真に<豊かな><人間性>とは両立しないことと同様にテスト教育と<言葉の教育>とは相対立する概念であり、決して両立はしない。現在と似たり寄ったりのテスト教育・学歴主義を続けるなら、<言葉の教育>は願うべきではない。プロ教師のように「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標があったから、学力だけで生徒を評価するようなことは基本的にはしていない」とか、「教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」などと責任逃れの綺麗事を並べ立てるだけで終わらせておいた方がいい。

 要は、しつけ可能な親を育むには学校教育が重要であるように、子どもの豊かな言葉の獲得には、まず教師が豊かな言葉を自分のものとし、それを生徒に伝えて、将来の親として社会に送り出すことをすれば、そのような親を親とした子どもは家庭の段階から豊かな言葉に接することが可能となり、自然とそれを自分のものとして受継ぎ、学校に入ってからはさらに教師の豊かな言葉に触れて、より高度な言葉へと向上・発展させていく。その循環こそが必要なのである。そうなったときこそ、「大学を卒業しても考えることができない」などと誰からも言われなくなるだろう。現在の教育荒廃状況は学校教育の矛盾を源流としているのであり、<家庭のしつけ>云々も、<道徳>云々も、責任転嫁以外の何ものでもない。

 また、<学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視>するも、テスト教育とは相容れない価値観でしかない。先述したように、学歴人間も会社人間も組織人間も社会的自立性(自律性)とは相対立する同調・従属性を傾向として成り立つ存在様式――いわば、自分の頭で考えることをしない、他人の考えに従う存在様式であって、だからこそ「大学を卒業しても考えることができない」と言われるのだが、学校・教師は社会の学歴主義に無節操に付和雷同することによって、テスト教育を通して学校空間を<社会的自立>ではなく、社会的同調を<促す場>としてきたに過ぎない。まさしく生徒は教師の叱咤・号令を受けてテスト、テストで社会の学歴主義への同調・従属を目的としてきたのである。学歴主義に最初から自立(自律)できた生徒が何人いただろうか。教育改革国民会議はプロ教師と同じく、出発点から読み違いがあるのである。暗記教育からはそもそもからして教師自身の<社会的自立>もなければ、<社会性>の獲得もないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする