不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

教育改革国民会議・最終提言批判・1

2006-12-07 02:39:11 | Weblog

 第1回・教育の原点は家庭ではない

 「教育改革国民会議・最終提言批判」は私のHP『市民ひとりひとり』に2000.12.30(土曜日)に<第34弾>としてアップロードし、のちに許可容量の関係でダウンロードした記事です。痴呆症の気がある者として最近のことは忘れても、6年前ぐらいのことは覚えているはずですが、すっかり忘却の彼方に置き忘れていました。〝安倍教育再生会議〟がどのような提言を行うのか、日本の教育をどのような方向に向かわせようとしているのか、実効性ある提言を行うことができるのかと世間が、ある者は警戒の目で、ある者は期待を込めて(?)注視していますが、「教育改革国民会議・最終提言批判」の焼き直し、あるいは同じ内容への仕切り直しのように思え、興味ある人の参考に供したいと思い、ブログ記事としてここに4回に分けて載せることにしました。〝焼き直し〟あるいは〝仕切り直し〟ということは「教育改革国民会議」の「提言」が実現の効果を見なかった、あるいは実現させるだけの力を発揮できなかったことの裏返し現象でもあるということでしょう。

 さらに言うなら、実現しないことからの繰返しによって森政権下での「教育改革国民会議」が安倍政権下での「教育再生会議」に焼き直された、あるいは仕切り直されたとすると、それが次期政権下で、あるいは次次期政権下で「何々会議」と、教育に関わる提言のための「会議」が慣例化、あるいは儀式化していくルールを孕ませた今回の〝焼き直し〟あるいは〝仕切り直し〟と言えなくもないでしょう。

 また改めて「第129弾」としてHP『市民ひとりひとり』にも載せました。1度に読めます。誤字程度を直しただけで、文脈自体は手をつけていません。文字が色取々過ぎて読みづらいかもしれませんが、関心のある向きはアクセスしてみてください。

 「教育改革国民会議」で「提言」として現れた言葉は便宜上< >で括り、「教育改革国民会議」のメンバーの一人であるプロ教師川上亮一氏の教育哲学に関わる言葉は「」で括ることにしました。

◇教育改革国民会議・最終提言批判・1

 平成12年12月22日の「教育改革国民会議」は<17の最終提案>を行った。確固たる教育改革と国民の将来に役立つ国民のための教育提言なのだろうか、その1つ1つを検証してみる。その<17>とは、次のものである。

 <人間性豊かな日本人を育成する

 (1)教育の原点は家庭であることを自覚する
 (2)学校は道徳を教えることをためらわない
 (3)奉仕活動を全員が行うようにする
 (4)問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない
 (5)有害情報等から子どもを守る

 一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する
 
 (6)一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入
    する
 (7)記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する
 (8)リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機
    能を強化する
 (9)大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する
 (10)職業観、勤労観を育む教育を推進する

 新しい時代に新しい学校づくりを

 (11)教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる
 (12)地域の信頼に応える学校づくりを進める
 (13)学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り
    入れる
 (14)授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的
    なものにする
 (15)新しいタイプの学校(“コミュニティ・スクール”
    等)の設置を促進する

 教育振興基本計画と教育基本法

 (16)教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を
 (17)新しい時代にふさわしい教育基本法を>

◆批判は、(5)の提言までとする。その中に、残した(12)の提言への批判をほぼ含むことができるからである。

 ――批判――                    
 第1回・教育の原点は家庭ではない
 第2回・教育の原点を学校とせよ
    ・果たして道徳教育は役立つのか
 第3回・集団奉仕活動は必要ない
 第4回・なぜ問題行動を起こすのか
    ・大人の存在自体が有害情報である
---------------------------------------
 第1回・教育の原点は家庭ではない

 「教育の原点」を「家庭」とすることによって、「人間性豊かな日本人を育成する」ことが果たして可能なのか。その言っていることは――

 <教育という川の流れの、最初の水源の清冽な一滴となり得るのは、家庭教育である。子どものしつけは親の責任と楽しみであり、小学校入学までの幼児期に、必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である。家庭は厳しいしつけの場であり、同時に、会話と笑いのある「心の庭」である。あらゆる教育は「模倣」から始まる。親の言動を子どもは善悪の区別なく無意識的に模倣することを忘れてはならない。親が人生最初の教師であることを自覚すべきである>

 そして<提言>の具体的内容として、
 
<(1)親が信念を持って家庭ごとに、例えば「しつけ3原
    則」と呼べるものをつくる。親はできるだけ子ども
    と一緒に過ごす時間を増やす。
 (2)親は、PTAや学校、地域の教育活動に積極的に参
    加する。企業も、年次有給休暇とは別に、教育休暇
    制度を導入する。
 (3)国及び地方公共団体は、家庭教育手帳、家庭教育ノ
    ートなどの改善と活用を図るとともに、すべての親
    に対する子育ての講座やカウンセリングの機会を積
    極的に設けるなど、家庭教育支援のための機能を充
    実する。
 (4)家庭が多様化している現状を踏まえ、教育だけでな
    く、福祉などの視点もあわせた支援策を講じる。特
    に幼稚園や、保育所における教育的機能の充実に努
    める。
 (5)地域の教育力を高めるため、公民館活動など自主的
    な社会教育活動への積極的な支援を行う。「教育の
    日」を設けるなど、地域における教育への関心と支
    援を高めるための取組を進める。> を挙げている。

 <子どものしつけは親の責任と楽しみ>であるが、問題は親は親である前にその社会に生きる一個の大人であり、社会的な大人の総体を受継いで親の総体があるということである。そして子どもの総体は否応もなしに親の総体の反映としてある。言い換えるなら、子どもは生まれたときから親を通して社会の影響を受けているということである。親の文化を受継いで子どもの文化があるのであり、その親の文化とは社会の大人たちの文化の最大公約数的な部分から成り立っている。この点をしっかりと押さえておかなければならない。大人と子どもはカガミ同士の関係にあるのである。

 と言うことは、「教育改革国民会議」が提言するように子どもを<人間性豊かな日本人>に<育成する>には、大人自体が<人間性豊かな日本人>であることが絶対必要条件となってくる。もし大人が<人間性豊かな日本人>でなければ、何をどうしようとも、子どもには<豊かな><人間性>は映し出されることは決してない。このことが絶対真理である証拠として、戦前の軍国少年現象が日本人の大人たちの軍国主義を洗脳されて生じせしめた姿だったことを挙げることができる。子どもが軍国主義をつくり出したわけでは決してない。大人の軍国主義があって、子どもの軍国少年があったのである。戦前の大人は決して平和少年をつくり出すことはできなかったろう。学校教師は生徒への軍国主義の洗脳を自らの勲章とし、新聞はそれもお国のためよりも売り上げ部数の増加のために軍国少年美談の捏造に躍起となった、それ以外の選択は許さない支配社会だったのである。

 大きくなったら兵隊になって天皇陛下のため、お国のために戦って死ぬんだと、流行りの軍国少年になれない身体が虚弱に生まれついた子ども、障害を持って生まれた子どもは非国民といじめられ、どれ程に悔しい思いをし、肩身の狭い惨めさを味わったことか。散々にいじめられて、兵隊さんでお国のためには役に立てなくても、負傷した兵隊さんの肉体回復に鍼・灸を役立てて、それでお国のために尽くすのだとどれ程に歯を食いしばって勉強したことかと、強度の弱視を持って生まれ育った針灸師の言葉を聞いたことがある。

 翻って、学歴主義で人間の価値を計る今の社会では、学歴主義に見放された子どもたちは、俺たちも人間だと誤った、あるいは歪んだ自己正当化の存在証明を引き起こし、決して我慢はしない。教育関係者を含めた大人たちはバカでもチョンでも、「今の子どもたちは我慢することをを知らない」と(提言では、<ひ弱で、欲望を抑えられ>ないと)言っているが、人間の価値を限定する閉鎖社会のその閉鎖性に我慢は100%美徳だろうか。学歴主義を人間の優先的な価値尺度とする大人が正しいと言うのか。

 戦前に於いて軍国少年こそが正義の子どもであったように、現在の日本では学歴少年こそが正義の子どもとなっている。そしてそれは戦前と同様に社会の反映・大人のヒナ型としてある理想の日本人子ども像なのである。単に入れ替わったに過ぎない。子どもたちの学歴志向は大人の学歴文化を受継いだ子どもたちの文化なのである。

 学歴文化を全身に体現した大人が<人間性豊かな日本人>だと言えるなら、いくらでも見かけることができる。誰もが情報によって社会を知り、世界を知る。テレビ・新聞・雑誌等の情報で知る権力亡者やハレンチ漢、ウソつき、カネのためには手段を選ばない我利我利亡者、二枚舌、無責任主義者、言行不一致漢・事大主義者として立ち現れる政治家・役人・教師・警察官・企業幹部のその殆どが学歴ある大人たちであることによって、<人間性豊かな日本人>の範疇に入ることとなる。それぞれの学歴によって社会的地位を獲得し、高収入を得、見た目も紳士然としている。いわば外見上からも立派な大人たちである。さらに言えば、学歴少年の成長した姿でもある。今さら<人間性豊かな日本人>の<育成>を説く必要はないではないか。既に<人間性豊かな日本人>は政界・財界・教育界・財界・官界にひしめいているのである。これ以上<人間性豊かな日本人>を<育成>したなら、それぞれのテリトリーから溢れてしまう。

 軍国少年が成長して大日本帝国軍隊兵士となって戦場に立ったとき、学校教師・親・社会の大人の期待に添おうとするあまり、古参兵士を見習いもし、兵士の役目を超えて虐殺・虐待・略奪・婦女暴行を自己性としたことだろう。敗走の憂き目に遭い、自国民間人が足手纏いとなったなら、置き去りにするか殺すかしたことだろう。そういった彼らの行為こそが、あの時代の<人間性豊かな日本人>の<人間性豊かな>英雄行為だったのである。

 だが、もしも情報の舞台でのさばり踊る社会的地位ある大人たちが実際には<人間性豊かな日本人>でないとしたなら、そしてその他大勢の大人たちが右に習えの有象無象の集りだとしたら、そのような大人たちが支配的な社会で、例え人格・識見共に優れた大人が何をどう目論もうと、やれ教育改革だとしたり顔しようと、子どもたちが直接的に関わるのは<人間性豊か>でない大人たちであり、その人間的な本質・習性を否応もなしに刷込まれていく。それはこれまで繰返し改められてきた学習指導要領が当面の学校秩序の維持だけではなく、権威や強制からの自由、及び自己決定・自己責任を主要な行動要素とした自律的人間の育成に何ら機能してこなかったことが証明している。いわば現在の子どもたちの姿は、大人たちのありようの正直な反映であって、そこから抜け出せない状況――子どもが大人の文化を自分の文化とするだけなのを物語っている。まさしく提言で言うとおりに、<あらゆる教育は「模倣」から始まる>のである。

 提言どおりに家庭で<しつけ3原則>をつくって、それを子どものしつけに役立てたとしても、まだ判断能力が未発達な子どものうちは、親の言いなりに機械的に同調・従属するだろうが、行為の拠り所を自己判断・自己好悪に置くまでに成長すると、親がしつけで言っていることと実際行動の違う人間性の持主だった場合、それを嗅ぎつけられて、どのような<しつけ3原則>も逆効果な危険なものに変わり果てない保証はない。それは信頼されていない教師が道徳に関していくら立派な言葉を並べ立てても、反発を招くだけの結果に終わるのと同じである。いわば親の、教師の、政治家・官僚を含めた世間一般の大人たちの<人間性>が問題なのであって、<しつけ>は<人間性>に感化されて効果を発揮する関数に過ぎない。

 学歴を権威とし、集団や組織の強制に縛られ、自己をそれらに従属させているゆえに自己決定・自己責任の自律モードは持てず、それゆえの指示待ち症候群を自己性とした日本人性に添ってその<人間性>と共に学歴主義が大人から子どもに伝えられ、子どもから大人へと持ち越される無限循環が社会を覆っていて、学歴主義に乗れるか乗れないかがしつけに関わる分岐点となっているのである。肝心のその点を押さえずに、「教育国民改革会議」のお偉方がどう逆立ちしようと、逆立ちしただけの成果は望むことはできない。そのことも過去の学習指導要領が証拠立てていることである。本質的に双子の兄弟である会社人間や派閥政治家が日本の社会でなぜ自然淘汰を経て、生存していることができているのか、考えるべきである。どちらも自律的存在とは正反対の同調・従属型存在でしかないゆえの適者生存なのである。言い換えるなら、日本人は未だに自我の確立を見ない未成長な人種なのである。

 大人がそうであるのに、子どもが「教育改革国民会議」が言うところの<一人の人間として自立する>ことなど不可能と言わざるを得ない。次の<危機に瀕する日本の教育>で言っている如くに、<子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足につけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなってい>て、<自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている>のに、子どもが<ひ弱で、欲望を抑えられ>ないのは当然であり、となれば子どもを問題とするよりも、やはり大人を問題としなければならないはずである。<危機に瀕>しているのは大人の方なのである。特に日本の政治は<危機に瀕>している。

 ここで明確に断っておかなければならないのは、上記<提言>が言う日本人の精神性は戦後の現象ではなく、日本人が歴史的・伝統的に受継いできているものだと言うことである。国益のための侵略戦争を欧米植民地からの解放と偽る<利己的な価値観や単純な正義に陥り>、敗色濃厚となると、神風が吹いて日本は救われると<虚構と現実を区別できなくな>り、権力ある者を怖れ、<自分から率先する自発性と勇気>もなく、<苦しみに耐える>のも、力ある者に逆らうことのできない仕方なしの忍従でしかなく、その反動で力の弱い者、下の地位の者といった<他人への思いやり>も<必要に応じて自制心を発揮する意思>も持たず、敖慢な態度を取ったり、差別したりして背負った屈辱を他者に身代わりさせる。白人に対するコンプレックスと韓国・朝鮮人や中国人を含めたアジアやその他の発展途上国の人間に向けた差別は力ある者と力の弱い者に対する日本人の相反する両極端の態度の発展形に過ぎない。

 では、どうしたらいいのか。事は簡単である。親が社会の大人の文化を親の文化として子どもに伝える限界を抱えている以上、<教育の原点は家庭>とはせず、学校<であることを自覚する>のである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育再生/学力向上とダメ教師排除の先にあるもの

2006-12-05 07:11:28 | Weblog

 自分がダメ政治家であるのに、そのことに気づかずにダメ教師を排除する資格ありとする倒錯的正当性は滑稽なばかりだが、学力向上に適しないダメ教師排除はダメ生徒排除と関係し合い、前者の可能に対して小・中学校の場合は義務教育の制約を受けて後者の不可能が問題を現在以上に複雑にしないだろうか。そして、そういったことだけでは終わらない。

 「教育再生会議・学校再生分科会(第1分科会)」の素案の目玉は「ゆとり教育」の見直しと「ダメ教師」の排除という安倍首相も持論のテーマだと2日(06年12月)の『朝日』朝刊に出ていた。

 記事に出ている「教育再生会議・第1分科会の素案(要旨)」は誰が読んでも分かるようにテストの成績向上に向けた圧力となる力学を孕んだ内容となっている。

 【学力向上】
●学習指導要領を改訂、ゆとり教育を見直す
●1日7時間授業とし、夏休みや「総合的な学習の時間」を減
 らし授業時間を増やす
●国語、英語、算数、数学、理科の授業を重点的に増加
●各校が時間を決められるよう権限を強化

 (「ゆとり」の排除と国語以下の授業の増加は主要受験科目の強化であり、それらを各校の自由な時間割とするのは、すべて学校に間接的にテストの点数上げを強制するものとなっている。授業強化がテスト点数上げにつながるとは限らないとの批判もあるだろうが、読んでいくうちに理解できると思う)

 【教員の資質向上】
●評価に保護者、児童、生徒などが参画
●副校長、主幹を新設。部活動手当てを引き上げ
●5年、10年研修で不適格教員を審査
●不適格教員の免許は更新しない
●特別免許状を活用、社会人採用者を教員の2割に

 (テスト成績や部活成績といった誰の目にも見え、誰にも評価できる成績が主たる評価対象となり、学校・教師は従来以上にそういった評価(テスト成績・部活成績)に自身の能力を託さざるを得なくなる。あるいはそのことに賭けざるを得なくなる。結果的にテストの成績を上げる授業、部活の成績を上げる部活動へと一層加速化されることになる)

 【学校と教育委員会】
●意欲・能力のある自治体には権限を委ねる。そうでない自
 治体は国が指導。支援・監視
●校長に教員人事の内申権を与える
●校長、学校運営協議会が教員を任用する仕組みを導入
●教育委員会の必置義務の見直しを検討
●教育長は教員経験者に片寄らせない
●教委、学校などの第三者評価機関を設置。大学の教職課程
 も監査。(以上)

 (自治体にしても、全国テスト成績順位の高い、進学率の高い、あるいは部活成績の良い小学校・中学校・高校を数多く抱える自治体が「意欲・能力ある自治体」と評価されることになり、学校・教師と同じ立場に立たされることになる。当然、テスト成績と部活成績の向上に向けて自治体内のすべての学校の尻を叩くことになり、学校・教師は保護者及び世間からの圧力だけではなく、自治体からの圧力をも受けることとなる)

 先ず「学力向上」という点に関して、記事にも次のように出ているように、「完全週5日制の導入とともに学習内容が3割削減される02年度の前から、文科省も事実上の『ゆとり脱却』を目指してきた。02年1月には、当時の遠山敦子文科相が、放課後の補習や宿題を促す『学びのすすめ』をアピール。03年には『発展的内容』が教えられるよう学習指導要領を一部改訂。05年2月には中央教育審議会が指導要領の全面見直しを進めている」経緯は、学力テストの国際比較に於ける日本の低い順位等を受けて保守派に属する一部政治家・教育評論家・文化人等が学力の低下を招いたとして「ゆとり教育」を槍玉に挙げる大騒ぎを展開、その騒ぎに不安に駆られた保護者共々、学力向上が一大合唱となった状況を受けた方向転換としてあった事態であって、「素案」がその方向転換をさらに強化する内容を含んでいるのは当然の成り行きとしてあるものだろう。逆に言えば、含んでいなければ「素案」を叩き出す意味を失う。

 12月(06年)3日のテレビ「朝日」の「サンデーモーニング」で、番組のテーマ自体は安倍教育再生会議で議論した「いじめ問題」だったが、出席者の一人である学校にゆとり教育を導入した寺脇研元文部省官房審議官を司会の田原総一郎が、「寺脇さんは日本の教育を悪くした超悪人と言われていますが――」と紹介している。学力向上派から学力低下を招いた戦争犯罪人に位置づけられているといったところだろうが、「超悪人」という評価が罷り通ったままなのは、それ程までに学力向上が現在幅を利かせた問題となっていることの裏返しでもあろう。安倍学力向上主義が挫折しない限り、寺脇氏は「超悪人」という評価を抹消されることはないと言うことである。

 【教員の資質向上】の項目に「評価に保護者、児童、生徒などが参画」と書いてある。一部保守政治家・教育評論家・文化人等の声高な学力低下論に不安に駆られて多くの保護者が、安倍総裁雪崩現象と同質の同調の雪崩現象を引き起こし〝学力向上〟の一大合唱となったのは、「保護者、児童、生徒」が「学力」の直接利害者だからであろう。学力は受験の成果に直接つながる。当然彼らはテストの成績の向上を最優先目的としている。となれば、彼らの評価基準は「児童、生徒」のテストの成績を上げることのできるかできないかに置かれることとなり、当たり前の結果としてできない教師を「ダメ教師」と評価することになる。

 教師の方も「ダメ教師」の烙印を押されたくない自己利害からテスト成績向上授業に全エネルギーを注ぐことになる。双方の利害が強迫意識的に相互作用の尻を叩き合って、テスト向上教育へと新幹線のスピード並みに加速していく。現在でも部活の指導を引き受ける教師が少ないということだが、テストの成績を上げることに自己の生存がかかっているとなれば、そのことに全エネルギーを注がなければならないから、部活指導のなり手になる教師はますます少なくなるのではないだろうか。

 そして、これも当然の成り行きとして用意されるだろう状況として、生徒のテストの成績を上げることがで生きない教師が〝ダメ教師〟と烙印を押されるように、テスト成績向上授業に乗れない生徒は〝ダメ生徒〟と疎んじられる存在となるだろう。なぜなら、教師にとっては自己評価の足を引っ張る存在となるだろうからである。学校にしても教育委員会にしても自治体にしても、テストの平均点を下げるあり難くない存在と見なされる。例え何かの部活で能力を発揮していたとしても、その生徒と関わっている教師が部活の成績と何ら利害関係を持っていなければ、足を引っ張るという状況に何ら変わりはないことになる。

 〝ダメ生徒〟と疎んじられた生徒は小・中学校の場合は義務教育のため学校社会の外に排除するわけにはいかないから、部活に逃げ場所のある生徒を除いて、どこに向かったらいいのだろうか。テストの成績でも部活の成績でも自己存在を証明できないとなれば、何によって自己存在を証明したらいいのか。不貞腐れたり、世の中を斜めに見ることのできる生徒はいじめ・暴力、その他の荒れる行為に走る危険性が生じる。走るようなことをが起きたら、テスト教育が誘発した事態と言えないことはない。

 さらに今後学校選択性が全国的に拡大していくに違いない。断るまでもなく、学校を選択するのは「保護者、児童、生徒」であり、当然その選択には成績圧力が伴う。

 こんな記事がある。「広島・三次市 校長が党案改ざん」(06.10.29『朝日』朝刊)

 「『学力日本一』を掲げ、市教委内に『学力向上チーム』をつく」り、「民間の学力テスト(CRT)」を小学校・中学校の「小学1年は除く全児童生徒にうけさせ」、その成績を「広報誌に掲載、ホームページにも公開」。「ところが、昨年、市立小学校校長による答案改ざんが明らかになった。児童11人の誤答部分35カ所を正答に置き換えていたのだ。校長は『学校をよく見てもらいたかった』と語ったという」

 「学校をよく見てもら」う評価基準をテストの成績に置いているということであり、テスト成績圧力を受けた「改ざん」なのは言うまでもない。一方テスト成績の公表を「『学校の情報は極力地域に公開する』と藤川寿教育長は話す。『競争のためではないし、校長や教員の評価とは関係ないから問題はない』」、あるいは「テストの意味を理解しない管理職がいたことは残念だが、公開とは無関係。公開するからとかしないからとか、そんな気を持つようでは教育者は務まらん」(同記事)と言っているが、学校・校長・教師の置かれた立場、その精神状況を考えない、あるいは考えるだけの能力のない人間の言うことで、そういった人間が教育長など「務まらん」はずだが、「務ま」っていること自体がカネのムダ遣いと教育の弊害と言わざるを得ない。学校別のテストの成績を公開すれば、それが学校評価となって、そこに学校対抗の成績競争が発生するのは自然の流れである。
 
 『ランク分け予算撤回 成績の伸び率考慮 足立区教委』(06.12.8『朝日』朝刊)の新聞記事は東京都の足立区が「年に1回ずつ行われている都と区の学力テスト」の成績で学校をランク付けして、配分予算額を決める方針を批判を受けて撤回することになったという内容を伝えているが、このような基準づくり自体が「都教委が初めて実施した中学2年生全員への学力テスト」で「23区中23位」((06.10.29『朝日』朝刊)『学力調査 効果と弊害』)という結果とその結果に内藤博道教育長自身の反応としてある「高い順位だとは予想していなかったが、23位はショックでした」(同記事)を受けた、ランク付けを競争に替えて順位を上げる目的の予算措置であろう。いわば都内のランク付けを足立区内に持ち込んで競わせ、区全体の成績の底上げを図って都内のランクを上げようと図ろうとした予算措置だったはずである。

 「撤回した理由について、内藤教育長は『Aは良い学校でDはダメな学校などと、誤解されやすい制度だなと思った』」(同記事)と証言していること自体がテストの成績を競争原理に意図した予算措置であったことを証拠立てている。

 だが、そういった問題以上に批判を受けなければ悟ることができずに教育者として存在している事実はどのような逆説を受けた事実なのだろうか。

 尤も撤回したとしても各学校が必要とする基礎予算の上にテスト成績の伸び率に応じて上乗せして予算合計とするという形式となると言うことだから、テストの成績が学校評価となる関係は変わらない。

 しかし何よりも問題としなければならない問題は、学力向上派が一番見落としている問題なのだが、テストの成績に目を向けるあまり、ダメ教師の炙り出しやダメ生徒の反撥には役立ったとしても、あるいは目を見張るばかりの学力向上に効果を見たとしても、付随成果としてテスト教育についていける生徒の計算技術や読解力を高めるだろうが、その見返りにテストの成績に短時間に現れない論理的思考力や文章表現力、多角的認識力といった創造性に関わる能力の育みが、現れないゆえに蔑ろにされて、失うことの方が大きいのではないかという問題である。

 そのような創造性に関わる能力は暗記教育の成果でもあるのだが、現在でも不足、あるいは劣ると言われているが、言われ続ける状況を引きずることになるということでもある。

 そのような状況は日本の教育をダメにしたとされている「ゆとり教育」の一環として提起された「総合学習」が学力向上の煽りを受けて完璧な排除へと進むことも影響するに違いない。(●学習指導要領を改訂、ゆとり教育を見直す ●1日7時間授業とし、夏休みや「総合的な学習の時間」を減らし授業時間を増やす)。

 「総合学習」とは1998年度改訂版の『小学校・中学校学習指導要領』によると、
 1. 自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断
   し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる。
 2. 学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活
   動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き
   方を考えることができるようにする。――となっている。

 掲げているすべてが暗記教育・テスト教育からでは得ることはできない、論理的思考力や文章表現力、多角的認識力といった創造性に関わる能力につながっていく。「総合学習」の排除の先にあるものは、いわば学力向上とダメ教師排除の先にあるものは上記能力の排除であるのは言うまでもない。

 但し、現在行われている「総合学習」が論理的思考力や文章表現力、多角的認識力といった創造性に関わる能力の育みにつながる授業となっていないのは、授業時間数が少ないという事情だけではなく、日本の教育が暗記教育を歴史・伝統・文化としている関係から、「総合学習」にしてもその形式に則った、あるいはその形式に縛られて、そこから逃れることのできない教育形式となっているからだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国残留孤児訴訟/神戸地裁判決は国民意識不在への糾弾

2006-12-03 07:08:26 | Weblog

 なかなか手厳しい判決が出た。だが、内容は単に残留孤児に対するというだけではなく、日本の国家権力の一般国民に対する態度をも、ものの見事に炙り出している。いわば中国残留孤児に対して示していた日本政府の人権意識の希薄さは一般国民全体に対して向けられている人権意識の質と谺し合っているのである。

 判決は先ず国の残留孤児訪日調査が日中国交正常化直後から開始可能だったにも関わらず、8年間も放置したあとの81年から開始したという怠慢・不作為を糾弾している。怠慢・不作為は人権意識、もしくは人間性を欠いていることによってもたらされる。

 そのような人権意識、もしくは人間性を欠いた行政の怠慢・不作為が同じ国民に入る中国残留孤児に向けられていたと言うことは憲法が保障することを命じている「国民の生命・財産」といった人格権・財産権、及びそういった価値観に対する不感症と責任放棄を示すもので、政治家が口を開くたびに言う「国民の生命・財産」なる言葉が政治的都合によって発せられる政治的道具と化していることを暴露するものであろう。

 判決が指摘した帰国拉致被害者との支援格差にしても、拉致が現在進行形のホットな政治問題となっている関係上、その対策と有権者の態度が対応し合うことを考慮した政治的都合からの「国民の生命・財産」優先であろう。常に見るべきほどに発揮されることがない「国民の生命・財産」意識が拉致被害者のみに発揮されるたとするのは整合性を著しく欠くことになる。

 このことは「国民の生命・財産」対する不感症と責任放棄が日本国民にも散々に発揮されてきたことを例示することによって証明することができる。

 戦前の戦争化での自国民・他国民を問わずに向けられた「国民の生命・財産」を無視した残酷な権行為は例を挙げるまでもない。

 1950年代には在宅治療が主流の世界標準に反して1996年の「らい予防法廃止に関する法律」の成立まで16年間も強制隔離を続けてきたハンセン病(らい病)対策は「国民の生命・財産」無視の顕著な例の一つであろう。しかし社会の偏見と国の支援対策不備で隔離された施設から退所した元患者は当初は僅かで、殆どが入所したままの状態に置かれた。

 2年後の1998(平成10)年7月31日、熊本・鹿児島両県の国立療養所入所者ら13名が国を相手取り国家賠償を請求して熊本地裁に提訴した。2001(平成13)年5月11日に熊本地裁が国の責任を認めて賠償を命ずる判決を出したのに対して、旧厚生省は控訴の方針を示したが、小泉首相が控訴断念を決意、原告勝訴が確定した。

 その直後の朝日新聞の内閣支持率調査で小泉内閣は前回の78%から84%に撥ね上がったが、これは明らかにハンセン訴訟控訴断念に対して国民が評価し、その好感が作用した数値であろう。

 しかし、控訴棄却した場合の支持率の低下を考えたはずである。なぜなら、小泉首相は竹下内閣と宇野内閣のもとで、1988年から1989年までと、1996(平成8)年11月から1998(平成10)年7月までは橋本内閣のもとで2度厚生大臣を務めている。

 1998年3月に発表し、ハンセン病元患者たちから失望と怒りの声が上がった彼らに対する「社会復帰支援事業実施要項」の作成に厚生大臣として関わっていたはずである。4ヵ月後の1998(平成10)年7月31日の国を相手取った国家賠償請求の熊本地裁提訴は、国に期待できないことに対する司法への期待転換が動機としも含まれていたであろう。国が患者に満足を与える支援策を示したなら、何も時間とカネをかけて裁判にかける必要はどこにもないからである。当時の小泉厚生大臣は患者が権利として有している「国民の生命・財産」の保障要求に応えなかった。

こういった経緯に関しては残留孤児にしても事情は同じだろう。政府が例え最低限であっても、生活をしていく上で納得のいく支援策を打ち出していたなら、何も訴訟といった最後手段まで進まなかったに違いない。そして地裁段階では、訴えは正しいと判断された。

 小泉首相は2度目の厚生大臣だった時代にハンセン病元患者に対する補償を彼らが満足できる方向と内容で解決しておくべきだったし、解決こそが「国民の生命・財産」の保障の責任ある誠実な履行となったはずである。そうしなかった軽視と不作為が2001年の控訴断念につながったのであり、その責任の一端は厚生大臣を務めた一人として責任を負っているはずである。当然控訴断念を手柄とのみするわけにはいかない。

 厚生大臣時代に「国民の生命・財産」への尊重意志を示さずに首相になってから示す一貫性のない姿勢を小泉内閣運営のための戦術だったと見られても仕方がないし、安倍首相が首相に就任した途端に自らの国家主義的歴史認識をアイマイな形に転換としたのと同じご都合主義だと批判されても、反論できないだろう。

 その他にも国家権力は「国民の生命・財産」の権利を政治的道具に利用する責任放棄を犯してきている。例えば有機水銀が原因となった水俣病。1956(昭和31)年、熊本大学医学部は、原因を水俣市にある新日本窒素(現在名=チッソ)水俣工場の排水中に含まれる有機水銀が魚類を介して人体に入り、中毒を起こしたものと結論したが、政府に設けられた「水俣病事件関係省庁連絡会議」は汚染源について何の結論も出さず、事後対策も不十分なまま、連絡会議を自然消滅させてしまった「国民の生命・財産」に対する不感症対応と責任放棄を行っている。

 9年後の1965(昭和40)年に新潟県で第2の水俣病(新潟水俣病)が発生、昭和電工鹿瀬工場からの阿賀野川への排水を原因として流域住民に多数の水銀中毒患者を発生させた。

 1956(昭和31)年の熊本大学医学部の原因究明から遅れること12年の1968(昭和43)年9月になって、政府は水俣病を公害と認定した。12年間の「国民の生命・財産」の無視であり、国民に対する自らの責任放棄である。

 政府はその後も患者救済に注ぐべきエネルギーの量・予算額よりも企業救済により多く注いで、「国民の生命・財産」を企業以下に置く国民意識不在の態度を取っている

 自民党政府の言う「国民の生命・財産を守る」といった声は信用しないほうが言い。

 アスベスト対策の遅れも「国民の生命・財産」軽視の態度から出た無策であろう。1973(昭和48)年に旧環境庁はイギリスでアスベスト工場の労働者や周辺住民に中皮種による死亡者が出ているという研究報告を入手、アスベストを原因としたガン発生を認識していたにも関わらず、「国民の生命・財産」意識の欠如の成果でもある縦割り行政が災いして、2年後の1975(昭和50)年に旧労働省が建設現場でのアスベスト吹きつけ作業を原則として禁止する措置に出た。但し、原料自体が被災しやすい性質も持っていることや、吹き付けてあるアスベストが劣化して飛散することは知っていただろうし、知っていなければならなかったはずだが、工場周辺の環境を守る規制は全く行わなかったという。同じ年にアメリカでは作業現場だけではなく、一般環境でのアスベストの排出量の規制に乗り出していたにも関わらずである。

 こういった何もしないことは「国民の生命・財産」意識が不足していなければできない無為・無策だろう。児童相談所の児童虐待死に対して満足に職務を果たせないことで犯すことになる「国民の生命・財産」に対する無能な機能不全に似ている。

 4年後の1979(昭和54)年になってやっと旧環境保護庁は学校で使われているアスベストの除去を旧文部省に求めた。旧文部省は子どもの知育・体育全般に亘る健全な育成に関わっている役所である関係から「国民の生命・財産」意識が高く、直ちに、と言いたいが、重い腰を上げるのに8年もかかって、8年後の1987(昭和62)年になって、学校で使われているアスベストの除去を指示する。見事なまでの「国民の生命・財産」に対する配慮ではないか。中国残留孤児のみに向けられていたわけではない。

 ところがこの指示は徹底されず、現在も一部の学校でアスベストは残されたままとなっているのは周知の事実となっている。政治家・官僚が無駄遣いするカネはあっても、経済小国なのだから、止むを得ないのだろう。政治家がことあるごとに「日本の将来を担う子供たち」とか、「子供は日本の財産」といったことを言うが、これも「国民の生命・財産」とおなじく、政治的都合によって発せられる政治的道具であることの証明だろう。

 1989(平成元)年。工場から排出されるアスベストの規制が始まる。但し、その後もアスベスト製品の製造や使用についての規制は段階的にしか進まない状態が続き、国が全面的に使用禁止を決めたのは昨年の2005(平成17)年7月のことであり、2008(平成20)年までに全面禁止の方針を立てた。

 このような「国民の生命・財産」保障に関する対策遅れは、「国民の生命・財産」以上に企業救済を優先させているからである。逆説するなら、企業保護よりも「国民の生命・財産」の保護が下に置かれているということである。

 エイズ対策然り、血友病患者救済然り。そして自民・公明の与党が障害者の「負担軽減のために08年度までの3年間で1200億円の予算措置を政府に求めることで合意した」(06.12.2.『朝日』朝刊)としているが、障害者自立支援法の自己負担1割決定のそもそもの発端は「国民の生命・財産」意識の欠如からのものであろう。その決定が不人気だから改めるとしても、「国民の生命・財産」意識の欠如がベースになっていたことに変わりはないのだから、これ以上の安倍内閣の支持率低下を招くわけにはいかないことと、このことが悪影響を与えるかもしれない来夏の参院選対策といった政治的自己都合からの方針転換なのは間違いない。

 官僚・役人の予算・税金のムダ遣い・私腹肥やしを解決もせずに、生活保護費の母子加算を3年で廃止する方針にしても、低所得の母子を「国民の生命・財産」保障の重要な対象に入れていないということだろう。ますます子供を産みにくい世の中になる。

 格差社会拡大の引き金になるだけの税金を取れるところから取る、削れるところから削るという発想は所得が低い者程「国民の生命・財産」の保障から遠い場所に追いやられることを意味する。肝に銘じよ、である。

 最後に熊本地裁の判決が「国民の生命・財産」に対する国の態度を如何に指弾する内容となっているか、記録しておくために『朝日』記事(06.12.1.夕刊)から引用・記載しておこうと思う。

「●帰国に向けた政府の責任

 戦闘員でない一般の在住満州人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は、自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であったというほかなく、戦後の政府としては可能な限りその無慈悲な政策によって発生した残留孤児を救済すべき高度の政治的責任を追う。政府自身、孤児が中国国内で生存していることを認識しており、自国民救済という観点からその早期帰国を実現すべき政治的責任を負っていた。
 日中国交正常化によって政府は孤児救済責任を果たすための具体的政策を実行に移すことができるようになった。国交正常化後は孤児帰還に関与する政府関係者は政府の孤児救済責任と矛盾する行政行為を行ってはならず、合理的根拠なしに帰国を制限したとすれば孤児個々人の帰国の権利を侵害する違法な職務行為となる。
 具体的には次の①~③が孤児の帰国を制限する違法な行政行為となる。
 ①入国時に留守家族の身元保証を要求し身元未判明孤児ら
  の帰国の道を閉ざした措置。
 ②孤児が政府に帰国旅費の負担を求めようとする際、支給
  申請は留守家族が残留孤児の戸籍謄本を提出するとした
  措置。
 ③86年10月以降、身元判明孤児について留守家族の身元保
  証に代わる招聘理由書の提出、特別身元引受人による身
  元保証といった、入管法が求めているわけでもない手続
  きを求める措置。
 
●孤児の自立支援に向けた政府の責任

 政府は日中国交正常化後、孤児の帰国支援に向けた政策の遂行を怠り、却って本件帰国制限を行うなどして、孤児の帰国を大幅に遅らせた。孤児の大半が永住帰国時、日本社会への適応に困難をきたす年齢となっていたのは、日中国交正常化後も残留孤児救済責任を果たそうとしなかった政府の無策と本件帰国制限という違法な行政行為が積み重なった結果である。
 したがって、政府は孤児に対し、日本社会で自立して生活するために必要な支援策を実施すべき法的義務(自立支援義務)を負っていた。
 北朝鮮拉致被害者は、永住帰国後5年を限度として、毎月、生活保護よりも高い水準の拉致被害者等給付金の支給を受け、かつ、社会適応指導、日本語指導、きめ細かな就労支援を受けることができる。
 拉致被害者が自立支援を要する状態となったことにつき、政府の落ち度は乏しいが、孤児が自立支援を要する状態となったことにつき政府の落ち度は少なくない。したがって、政府に対し実施を求める孤児の自立に向けた支援策が拉致被害者よりも貧弱でよかったわけではない。
 ところが、実際に政府が実施した日本語取得、就職・職業訓練に関する支援策は、きわめて貧弱であり、生活保持に向けた支援についても、生活保護の受給期間を帰国後1年を目途とする運用がされていた。そして、関係者は、日本語能力や職業能力が十分身についていない状態の帰国孤児に対し、かなり強引に就労を迫っていた。
 厚生大臣は、過失により、帰国孤児に対する自立支援義務を怠っていたというほかなく、被告は、その国家賠償法1条により、損害を賠償する責任を負う。その損害とは、自立支援義務が履行されていれば原告らが置かれていたであろう原告らの現状との格差であり、これを償うための慰謝料の額は、原告ら一人当たり600万円とするのが相当だ。

●国会議員の自立支援立法の不作為

 政府としては、生活で困窮する孤児の生計を維持するため、生活保護とは別の、継続的給付金あるいは年金の制度を実施する必要があると思われる。裁判所は、どのような内容・金額の給付を定めた立法をすれば違法状態が解消されるのかを判決で具体的に示すことはできない。示すことができないのに、立法不作為が違法であるとの判断を下すことは不可能だ。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育再生会議/何が問題となっているのか(2)

2006-12-02 07:24:24 | Weblog

 12年前も当時の文部省は対策を講じるべく、教育再生会議ならぬ「いじめ対策緊急会議」を設置、「養護教諭の役割の強化や、『開かれた学校』を目指して家庭や地域と一体となった取り組みなどを求める報告書を正式にまとめ、与謝野馨文相に提出した」(1995.3.14.「朝日」)と新聞に出ている。

 一定の年数を置いてのいじめの社会的問題化自体が同じことの繰返し、あるいは堂々巡りであるのに対して、対策にしても同じことの繰返し、あるいは堂々巡りを演じているのではないかと思えるから、参考のために「報告書」のうちの「基本的認識」部分の要旨だという記事に出ていた箇所を引用してみる。

 「1.いじめられる側にもそれなりの理由があるとの意見が見受けられるが、いじめられる側の責に帰すことは断じてあってはならない。いじめは人権に関わる重大な問題である。いじめる側が悪いのだという認識に立ち、毅然とした態度で臨むことが必要である。社会では許されない行為は子供でも許されない。傍観したり、はやしたりする者がいるが、こういった行為も同様に許されないとの認識を持たせることが大切だ。

 2.いじめは外からは見えにくい形で行われる。いじめられている子供も、恥ずかしさや仕返しを恐れるあまり、尋ねられても否定することが多い。従って、子供の苦しみをを親身になって受け止め、子供が発する危険信号をあらゆる機会を通じて鋭敏に把えることが大切である。その際、いじめかどうかの判断は、あくまでもいじめられている子どもの認識の問題であることを銘記し、表面的な判断で済ませることなく、細心の注意を払うことが不可欠である。
 3.いじめは弱い者、集団とは異質な者を攻撃、排除する傾向に根ざして発生することが多い。特に学校では、教師が単一の価値尺度により児童生徒を評価する指導姿勢や何気ない言動などに大きなかかわりをもっている場合があることに留意すべきだ。子供一人一人を多様な個性を持つ、かけがえのない存在として受け止め、教師の役割は児童生徒の人格のよりよき発達を支援することにあるという児童生徒観に立つ必要がある。
 4.いじめ問題では、親や教師などの関係者が責任を他に転嫁しあうという形で議論が拡散し、対応に実効性を欠くきらいがあった。最も大切なことは、関係者が一体となって問題に取り組み、早急な解決を図ることである。
 5.家庭は子供の人格形成に一義的な責任を有しており、いじめ問題の解決のために重要な役割を担っている。各家庭において、家庭の教育的役割の重要性を再認識することが強く求められる」

 最後の「4」の家庭に関わる提言(家庭教育の重要さの訴え)は、安倍新教育基本法が既に同じことの繰返し、あるいは堂々巡りを演じている。提言が何ら役に立たず、12年前と同じ状況が続いていたのである。ということは、提言が提言で終わっていたと言うことだろう。再び同じことの繰返し、あるいは堂々巡りが演じられない保証はどこにもない。提言が常習化し、提言とは提言で終わるを原則としかねない。その恐れがあるとしたら、「教育再生会議」などタウンミーティングと同じで時間とカネのムダ遣い、「いじめ対策緊急会議」の「報告書」をそのまま借用すれば済むことではなかっただろうか。

 教育再生会議の総会が29日安倍総理大臣も出席して開催される。NHKの夜7時の「ニュース7」で振り返ってみる。

 学校や教育委員会、向けた緊急提言。

 ①いじめる側の子どもに対して指導や懲戒の基準を明確に
  し、毅然とした対応を取るとこと、  
 ②別の教室で教育したり、社会奉仕をさせたりするなどの
  対応
 ③子供や保護者が希望する場合はいじめられていることを
  理由とする転向が制度として認められていることの周知
  徹底。

 いじめる側の子供への対応としては、

 ①出席停止を緊急提言に明記することが検討されたが、慎
  重論があって、見送られたこと。
 ②いじめに関わったり、放置や助長した教員に懲戒処分を
  適用すること。
 ③教育委員会がいじめを解決するためのチームをつくって
  学校を支援すること。
 
 保護者に対して、

 ①家庭の責任は重大だとして、保護者が子供にしっかり向
  き合わなければならないことの要求。

 これは既に指摘したように安倍新教育基本法の「第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」に重なる提案であり、前回の「いじめ対策緊急会議」の「基本的認識」に於ける「家庭は子供の人格形成に一義的な責任を有しており」の箇所の単なる繰返しであろう。

 具体的方策として「朝日」によると、「家族の日」を創設して家族一緒に夕食を摂ることや、両親が子どもに読み聞かせをしたり、子守唄を歌ったりすることのススメを提案している。

 「家族の日」を設けなくても、子供が小学生の間は一般的には家で一緒に食事を摂り、休日などには回転寿司や焼き肉店、ステーキハウス、ラーメン店といった場所に出掛けて家族揃っての食事を摂ることをする。家族揃っての外食は親子にとって特別の日であり、このような特別の日をつくることは正月になると親が子どもにお年玉を与えると同じくらいに時代的な親の義務・慣習となっている。

 だが、子どもが中学生、高校生となるに従って親を敬遠するようになる。いわば小学生の間は通用した親子一緒の食事・外食が中学生、高校生になると通用しなくなる時代的状況をどうするかが問題となる。

 小学生の間は通用した親子一緒の食事が、例え特別の日の外食であっても、お互いに単に食べ、味わい、腹を満たすだけのことに専念するばかりで、親子の会話が「どうだおいしいか」といった程度では、食事代金を自分調達できる年齢に達したなら、何も親と一緒に食事する必要は生じなくなる。

 あるいは家で親が子どもと一緒に食事をしながら、「今日は何か学校であったか」といった、いつも決まりきった問いかけしかできなければ、「何か」ない日の方が多いだろうから、小学生の間は機械的に答えるだろうが、中学生、高校生となると答えるのが面倒臭くなって、無視することの方が多くなるに違いない。

 あるいは子どもが学校であったことを親が問いかけるままに生真面目に答えたとしても、それがあったことをそのまま伝える事実のなぞり(=あったことのなぞり)であるなら、親のそういった習性を受け継いだ姿であるだろうから、親子共々のそういった機械性からはお互いにたいした刺激は期待できようもなく、次第に会話がなくなると言う同じ運命をたどることになるのだろう。

 会話があったことのなぞり(=事実のなぞり)を習慣としているのは学校社会で教師が教科書に記されていることで一つの事実と化している知識をなぞったまま伝え、生徒がそのままに受け止める双方向の事実のなぞりに現れているし、サラリーマンが同僚と外で酒を飲み食事をしても、会話の内容が会社の人事(同僚同士の事実)に限定されると言われていることにも現れている。

 親があった事実から他人にはない自分なりの言葉(=情報)を紡ぎ出す力があってこそ、他人にはないその新鮮さが子どもの関心・興味を刺激して知識欲を引き出し、同時に言葉を紡ぎ出す力が子どもにも伝わり、つむぎ出し合ったお互いに相手にはない言葉が相手にはないことが理由となって、相互の会話を刺激し、発展させていく。当然意味ある会話・言葉のやり取りとして、記憶にも残る。

 親子をつなげる核は何か。それはコミュニケーションを於いて他にないだろう。勿論コミュニケーションは会話だけで成り立つものではない。無言の態度といったものも含まれる。例え意見が合わなくても、コミュニケーションを持つ関係が維持できている状況こそ、信頼を失わないでいる関係でもあるだろう。

 そのためにこそ、両親が子どもに読み聞かせをしたり、子守唄を歌ったりする原因療法となるススメを提案していると言うのだろうが(学校に対しては朝10分間の「読書の時間」の創設を提案している)、読み聞かせや子守唄の素材から親が自分なりの言葉、あるいは情報を紡ぎ出して、子どもに伝えることをしなければ、単に読み、歌うだけといった、素材に頼るだけの機械的なコミュニケーションで終わることとなり、10何年かのちに再び何々会議を開催して緊急提言なるものを纏める同じことの繰返し・堂々巡りを演ずることになりかねない。
 
 NHKの「ニュース7」は「百ます計算」の発案者である陰山英男教育再生会議委員にインタビューしている。「先ず学校が責任を持つ。他のところがサポート体制を取るということでね。要はあの、学校と家庭、地域社会が信頼関係をきちんと取り結べるかどうか、ここにかかっていると思うんですね」

 渡辺美樹委員「いじめた人間こそ来させて、そしてしっかり更生するのが、これ学校の役割ですから、単純に提言しただけで私は効果というのはあまり期待できない、そう思います」

 義家弘介(ヤンキー先生)「いじめを行う者ってていうのは、かなり影響力の強い生徒たちが実は多いんですよ。出席停止でもいい。別の教室でそれぞれ先生が向き合いながら、この問題を話しながら、クラス全体についてモノ言えるクラスっていうのつくっていかなければいけないですね」

 伊吹文科相「いじめ、即出席停止という受け止め方をされて、現場で運用されると言うことについて、やや慎重でありたいなと。ただ、出席停止は私は否定しているわけじゃありませんから」

 「出席停止」を初めとして、「家庭の日」や「読書の時間」の創設にしても、あるいは読み聞かせや子守唄を歌うススメにしても、「百ます計算」先生だけではなく、誰もがバカの一つ覚えのように提言している「学校と家庭、地域社会の信頼関係・提携」にしても、常に機会的な運用に陥る危険性、あるいは習慣・制度だけの問題で終わる危険性を抱えている。学校教師、親、地域のオッサン・オバサンが自分で紡ぎ出した言葉で話しかけなかったなら、何を話されようと子どもにとっては馬の耳に念仏で、単に頷くだけのことはさせても、テレビで喋るお笑いタレントやマンガの話す言葉にだけ興味を持つという傾向・習性を変えることはできないに違いない。

 成人式で新成人が騒ぐのは、市長だ県会議員だ市議だと言った来賓の喋る言葉が既に誰かが言った言葉の焼き直し、あるいは誰れもが言っている使い古された言葉の繰返し、常套句をもっともらしげに並べただけの言葉で、そこには自分で紡ぎ出した言葉がなく、面白い言葉をいくらでもお目にかかることができるテレビやインターネットを知らない時代ならまだしも、知ってしまっているゆえになおさらに面白くも何ともないことが原因してのことだろう。

 安倍総理のインタビュー。「政府は勿論ですが、学校現場、あるいは家庭・地域・教育委員会,それぞれができること、直ちにできることをすべて行う。そういう姿勢で取り組んでいくことが大切です。再生会議提言を先ずはみんなが実行していくことが大事ではないかと思います」

 自分で紡ぎ出した言葉が思想にもなり、哲学にもなる。だが安倍首相の言葉には毎度のことだが、思想も哲学も感じることができない。即物的そのものの発言で終わっている。当たり前のことを当たり前に言っただけ。今までも「学校現場、あるいは家庭・地域・教育委員会、それぞれができること、直ちにできることをすべて行」ってきた。いじめのサイン・兆候を見逃すのは当たり前、自殺が起きると、いじめを否定し、否定しきれなくなって、仕方なくいじめの事実を認める。教育委員会も放置する。「取り組」み、「実行し」たことがそういったこととなっている。児童相談所が児童に対する虐待を見逃し、死に至らしめてしまうようにである。「実行していく」、「取り組んでいく」だけでは済まないことに気づかない鈍感さに侵されているから、「実行していく」、「取り組んでいく」と当たり前のことを当たり前こととしてしか言えないのだろう。

 無責任の体質化は教師や親だけ、あるいは児童相談所といった福祉機関だけの問題ではなく、政治家・官僚・役人にも蔓延している日本人的な精神性であって、だからこそ12年前の「いじめ対策緊急会議」がムダとなり、同じことの繰返し・堂々巡りが演じられることとなった。なおさらに「実行していく」、「取り組んでいく」だけでは済まないにも関わらず、そういったことしか言えないこと自体が無責任を示すものだろう。

 番組は最後に専門家に話を聞いている。

 日本教育大学院大学川上亮一教授「いじめと言われるような現象もね、以前と比べると非常に陰湿的になったり、そういうことがあって、それをだから教師の方が抑えようと思っても、生徒がなかなか言うことを聞かないっていう、そういう状況が広がってますから、あの、何とかそういう秩序をもう一回取り戻そう、学校に規律をもう一回確立しなければいかんという、そういう方向はね、私はものすごく賛成ですね」

 これがかつては「プロ教師」と自ら称していた東大出の男の言う言葉である。「陰湿的」なのは前々からであり、「教師の方が抑えようと思っても、生徒がなかなか言うことを聞かないっていう、そういう状況」にしても、前々から「広がって」いたことで、「以前と比べると」ではない。かつては中学校教師であったが、「プロ教師」として名を上げ、大学院教授にまで登りつめた。大学院教授として学生の前に立つには常識的に備えていなければならない客観的認識性を備えずに大学院生の前に立っているこの皮肉な倒錯は何を物語るのだろうか。日本の教育を物語っているのだろうか。

 また一度だって秩序を「取り戻」したこともなければ、規律を「確立し」たこともない。学校教育者として何を見ていたのだろうか。

 最後にNPOソーシャルワーク協会寺出壽美子理事長「いじめの加害者に対して、例えば別教室であるとか、個別指導するとかっていうことが、ま、今回出されたわけですけれども、却って子ともにとってはただ罰を受けているっていう、あのー、ことにしか判断されずに、子供は心を閉ざして、そしてまた大人の目の見えないところでいじめを繰返していく、ということではあまり実効性がないような気持がいたします」

 安倍首相よりも「プロ教師」よりも、「百ます」よりも「ヤンキー先生」よりも、他の誰よりも、一番まともなことを言っている。「出席停止」もいいだろう。大いに結構。ヤンキー先生が言うように「別の教室でそれぞれ先生が向き合いながら、この問題を話しながら、クラス全体についてモノ言えるクラスっていうのつくっていかなければいけない」も結構。

 だが、生徒と向き合う教師がもっともらしげな諭しの言葉しか紡ぎ出せなければ、生徒の反感を買うばかりだろう、「お前にセッキョーされたくないよ」とばかりに。 重要なのは教師にしても親にしても、普段からの言葉である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育再生会議/何が問題となっているのか(1)

2006-12-02 07:15:24 | Weblog

 文字数超過のために2回に分けます。

 政府の教育再生会議が11月28日・30日(06年)と首相官邸で開かれた。30日の閉会後に纏められた緊急提言の発表。

 28日夜9時からのNHK「ニュースウオッチ9」によると、27日の会議では都道府県や市町村の教育委員会に対していじめ側の児童・生徒の授業へ出席停止など厳しい措置を取ることを検討することや、いじめなど深刻な問題が起きた学校に教育委員会が支援チームを派遣する体制を整備することなどを求める内容の提言となる模様だと伝えていた。

 どのような議論が展開したのか、どのような考えを出席委員それぞれが持っているのか、NHKだけではなく、民法の番組や新聞からも知り得る範囲でたいしたこともない検証を行ってみた。

 ヤンキー先生と言われている、まだ若い羨ましいばかりのイケメンの義家弘介委員。確か横浜市の教育委員会で委員をしていたと思う。「待ったなしなんですよね。なぜいじめられた被害者が学校に行かなくていいのかと、自分の人生にマイナスになる選択をせざるを得ないのか。それは先ずいじめた人間を先ず教育すること。勿論出校停止ということは単純な線引きではなくて、出校停止にして教育することなんです」

 早朝の「日テレ24」ではNHKが「出校停止にして教育することなんです」で終わっていた言葉のあとに、「それが何より必要なんです」という強い姿勢を示す言葉を付け加えていた。それだけ「出席停止」活用の積極派ということなのだろう。

 「出席停止」自体は昭和22年3月31日公布、昭和22年4月 1日施行の「学校教育法」の
【第二章 小学校・第二十六条】〔児童の出席停止〕で「市町村の教育委員会は、性行不良であって他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる」。【第三章 中学校・第四十条】〔準用規定〕「第二十一条、第二十五条、第二十六条、第二十八条から第三十二条まで及び第三十四条の規定は、中学校に、これを準用する」と、小・中学校とも認められている。認められているにも関わらず活用してこなかった生徒管理方法をいじめ問題悪化の原因の一つと考えているからだろう。

 但し「出席停止」は誰の目にも明らかなように出発点は原因療法ではなく、いじめが発覚してから行う対症療法であり、対症療法が終着点とすべき原因療法となり得るかを問題としなければならない。だが、これまでのいじめ問題の経緯からして、学校がいじめの兆候、あるいはサインを見逃していしまう問題意識の希薄さ・危機管理意識の欠如をほぼ常態化していることを考慮すると、対症療法が対症療法で終わってしまう可能性が大きい。

 28日の「日テレ24」がいじめ問題に取り組んでいるという中嶋博行弁護士の意見を取り上げていた。

 「今のいじめというのは一対一のいじめではなくて、大勢でひとりをいじめるというパターンなんですけど、その中心になっている、いじめの中心の生徒を出席停止処分にするという形で、目に見える形で処分すれば、いじめの集団というのは崩壊すると。私が実際に相談を受けたケースの中でも、いじめの集団の中心的な人物を処分すると、いうことで、いじめがなくなったケースってのはあります」

 ヤンキー先生同様に対症療法としての「出席停止」の活用を提案しているが、特定の一つのいじめが終わっただけのことで、新たないじめ、あるいは別の場所で行われているかもしれないいじめには表に現れるまで効果はない。

 そのことより問題としなければならないのは、「今のいじめというのは一対一のいじめではなくて、大勢でひとりをいじめるというパターン」となっているという認識がいじめ問題に取り組んでいる弁護士という役割に真っ当な資格を与える言葉となっているのだろうかという疑問である。

 中嶋弁護士の言っていることは「以前は一対一のいじめが多かったが、今は大勢でひとりをいじめるパターンとなっている」ということだろう。だが12年前の1994年11月27日に首を吊った大河内清輝君のいじめ自殺事件は複数の同級生に身体的な暴力と金銭的な恐喝を受けて追いつめられた末の自殺であり、中嶋氏が言うように「以前は一対一のいじめ」という説に入らない。逆に現在のパターンだとする「大勢でひとりをいじめるパターン」による犠牲者であった。

 大河内清輝君は担任である26歳の女性教師から問題を起こしているグループの一員だと思われていた。いつも一緒に行動を共にしていたからだが、他の仲間とは一人だけ雰囲気が違うことは気づいていた。威しとか暴力的意志の強制によって自己意志に反して仲間に取り込まれるといった権威主義的力学が働いた人間関係があることまで考える力がなかったのだろう。しかし戦前の軍国主義は学んでいるはずだし、新聞・ラジオが軍部の強要で御用機関に成り下がった歴史的事実も学んでいるはずである。また大学で児童心理学等も教師の資格の一つとして学んだだろう。国家の下位に位置する国民や新聞・ラジオといった存在自体を問題とするなら、国家(の思想)や国家機関に取り込まれた姿を取っていたのである。歴史を学びながら、人間の状況・人間の姿まで学ぶことができないのは、日本の学校教育が形を取って表面に現れた事実を現れた事実なりになぞる暗記教育となっていることも原因しているに違いない。

 1995年2月に福岡で中学校2年の男子生徒が複数の同級生から万引きを強要されていたいじめがいじめ側の一人の生徒の母親が学校に申し出て発覚、一応の解決を見たが、その後いじめられていた生徒の父親がいじめがその後も続いていると勘違いして、以前いじめていた4人の生徒呼び出して自宅に3時間に亘って監禁し、包丁で殴ったりして監禁・傷害の容疑で警察に逮捕される事件に発展した事態にしても、発端は「一対一」ではなく、「大勢でひとりをいじめるというパターン」のものであった。

 いじめグループは被害生徒に前記首吊り自殺した大河内清輝君の名前を取って「大河内清輝」というあだ名をつけて呼んでいたと言うが、被害生徒の置かれている状況がいじめであり、大河内清輝君と同じ状況を受けているものと自覚していたからできたあだ名付けであって、非常に悪質である。大河内清輝君が自殺したのは当然知っていたことだろうから、大河内君になぞらえていた以上、大内君と同じ結末が頭に入っていたはずで、それにも関わらずいじめを続けることができたのは、自制よりも付和雷同の力学が仲間同士で働いてしまう集団でのいじめ(=徒党型のいじめ)だったからではないだろうか。それとも、自殺する勇気なんかないと高をくくっていじめていたのだろうか。

 2000年4月に発覚した名古屋市の私立中学校を卒業したばかりの3人の15歳の無職少年が同級生だった少年から合計5000万円もの大金を恐喝していた事件にしても、卒業間近の1月からと言うものの、在学中から始まっていたもので、「大勢でひとりをいじめるというパターン」の事件であろう。被害増額の計5000万円は繰返し暴力を受けいた息子を見かねた母親が死亡した父親の生命保険金を取り崩すなどして用立てたものだという。

 逮捕されたとき、3人は5000万円ものカネを何に使ったのか費やしてしまい、殆ど現金を所持していなかったというから、その豪遊ぶりも税金を使って飲み食いする日本の官僚・役人に引けを取らない凄さである。

 約2ヵ月後の2000年6月に岡山で起きた高校3年生の男子生徒が金属バットで母親を殴り殺した事件は野球部の後輩4人をいじめの仕返しにバットで殴り重軽傷を負わせ逃亡、生徒は殺してしまったと勘違いして、母親に迷惑をかけたくないという思いから、バットで殺害した事件である。

 犯行後、自転車で逃亡。16日間、1000キロを走り抜き、7月6日秋田県で逮捕されたが、いじめ自体は後輩4人から受けた「大勢でひとりをいじめるというパターン」のものである。1000キロの道のりをどのくらいの必死さで自転車を漕いだのだろうか、その姿・エネルギーを想像すると痛ましいばかりである。

 兄の弟に対する継続的ないじめは「一対一」のいじめであるが、最小限の人間関係を条件として一つの社会を成り立たせている場合に可能ないじめであって、学校とかクラスといった集団の人間関係を生存条件とする社会では、一般的にはいじめ側は集団の形を取るのではないだろうか。例えクラスの中で「一対一」のいじめがあったとしても、集団の中で他が交わることのない特殊な最小限の人間関係社会を形作っていた場合に限られるように思う。

 集団を築くことで成り立っている社会に於いては、自己正当性は数の優位を取ることによって証明されるからである。仲間を多く抱えている人間は例え間違ったことをしても、仲間の庇護によって正しいとされる場合がある。逆に自分がいくら正しいことを言っても、多数の反感を買ったなら、集団から無視、あるいは排斥されることになる。そのことは政治の世界がよく証明していることである。

 大河内清輝君がいじめを受けて首を吊って自殺してから、現在みたいに同様の自殺事件が相続いた。その自殺から20日も経たない1994年12月13日の早朝に岡崎市の市立中学校の1年生男子が父親が経営する工場内で制服姿で首を吊って死んでいる。遺書はなかったが、いじめがあったという同級生の証言がある。生徒はおとなしい性格で、同校の「いじめ・登校拒否対策委員会」で名前が上がることはなかったというから、今までの例と同様に如何にいじめが外に現れにくいか、自殺を発覚のキッカケとしなければならない場合があるということを物語っている。

 その翌日の1994年12月14日、福島県の町立中学校3年生の男子生徒が雑木林で首を吊っている。自宅の自室に遺した遺書にはいじめられていた事実とクラスの3人の生徒の名前が書いてあったと言う。大河内清輝君自殺事件の後、学校が実施したいじめ調査に生徒の一人が自殺した生徒の名前を挙げて集団で無視されていると書いたが、学校側はどのような行動も起こさなかったと言う。この点に関しては、現在も12年前と殆ど変わっていない。変わっているのは大臣に自殺予告の手紙を書くといった現象ぐらいだろう。12年の歳月が社会を一層情報社会化したからではないだろうか。当時と比べてパソコンや携帯電話等でインターネットを通じて双方向のありとあらゆる情報が行き交い、〝知らせたい・知りたい〟が強迫観念にまで至っている時代となっている。にも関わらず、多くのいじめられている生徒がそのことを誰にも相談できないでいる。匿名でならできるが、名前が出て、誰であるか特定される相談はできないということなのだろうか。

 翌1995年の2月5日には静岡県の浜松市立中の2年生男子がいじめの事実を記した遺書を遺して市内のマンションから飛び降り自殺している。複数の生徒から使い走り・万引き強要・暴力、それに髪を染めされられる、飲食をおごらされるの強制行為を受けたという。

 さらに4月に入って16日に福岡県の豊前市の中2男子が2、3年生の計9人からいじめを受けていたという遺書を遺して自室で首を吊って自殺している。遺書の最後に「これは自殺じゃない。他殺だ!」と書いてあったという。そう、間接殺人に入る「他殺」だろう。

 この12日後には長崎市立中学校の2年生女子が遺書に3人の男子生徒の名前を書き、いじめを受けていたという遺書を遺して校舎から飛び降り自殺している。

 大河内清輝君がいじめ自殺する以前の同じ1年で、3人の中学生と高1の1人がいじめ自殺している。だが何と言っても世の中が注目したのは大河内清輝君のいじめ自殺事件だったろう。多額の現金恐喝と執拗で巧妙な数々のいじめ。いくつものいじめのサインがありながら、それを見逃していた学校。遺書を残しての自殺。その内容は悲惨ないじめであったにも関わらず、自己に対して冷静なまでに客観的で、恨みつらみはなく、周囲に対して優しい配慮さえ見せている。例えば「大河内清輝君の遺書の全文は次の通りです」と自身を客観視しさえしているし、恐喝していた4人の生徒の「名前が出せなくてスミマせん」とか、「僕からお金をとっていた人たちを責めないで下さい。僕が素直に差し出してしまったからいけないのです」と責めるべき相手を責めていない。

 この事件をキッカケに新聞・テレビは連日のように関連情報を報道し、いじめが社会問題として大きく取り上げられるようになった。

 キッカケとなる大きないじめ事件があって、初めて社会病理として把える。教育再生会議で議題とする今回のキッカケは福岡県筑前町の町立三輪中2年の男子生徒(13)のいじめ自殺なのは言うまでもない。生徒がいじめたいただけではなく、担任が生徒の成績をいちごの品種に譬えてランク付けする差別主義者であった(人権意識の希薄さ・欠如がいじめを生む)上に自らもいじめを働いていた異常さがクローズアップさせる原因をなし、そして自殺後の学校の責任回避の姿勢が問題をさらに大きくしていった。

 そして大河内清輝君事件から12年後の再度のいじめクローズアップである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

造反復党劇から分かる美しくない自民党の面々

2006-12-01 07:01:35 | Weblog

 一番美しくない面人(ツラビト)は安倍晋三だろう

 日本テレビで復党が決まった野田聖子にインタビューしていた。

「党と共に汗をかいていきたい」

 「汗をかいていきたい」と言っても、お互いにバスタオル一枚で身体を隠した恰好でサウナに安倍総理と一緒に入って汗をかく――そういった美しくない汗ぐらいしか期待できそうもない。

 テレビ画面は9・11総選挙時の野田聖子の街頭演説のシーンに戻る。支持者・聴衆を前にしてマイクを握り締め、涙ながらの泣き声で「自分の意志を曲げるわけにはいきません」

 郵政民営化反対を貫こうとしている自分の姿勢を必死なまでに訴えている。その姿に感動して一票を投じた有権者がいたかもしれない。

 一旦録画されたり録音されると、あとでウソをついたら、すぐにウソとバレてしまう。そういった技術のなかった時代は、そんなことは言っていないとウソをついても通用しただろうが、ウソを押し通すのが難しい御時世となっている。にも関わらず、平気でウソをつく美しくない政治家・官僚は依然としてゴマンと世に憚ってはいる。野田聖子にしても「曲げるわけにはいきません」と宣言した自らの「意志」をウソにする美しくない姿を見せた。復党は郵政民営化賛成の態度に完璧に「自分の意志を曲げる」美しくない方向転換であろう。

 マスコミもなかなかしつこい。テレビは岐阜市民だという50~60代のオバサンを映し出して、その声を聞く。「自分の身の振り方も信念もコロコロ曲げるようでは、信用できないんわ」といともあっさりと切り捨てる。

 50~60代のオッサン「もう一度対決したらいいんちゃう?」と野次馬気分。

 カメラは野田聖子の復党に反対意志を示す岐阜市民もいることを示した上で、再び野田聖子にご登場を願う。「国民の意見を柔軟に受け入れられるという政治判断をしましたので――」と復党理由を述べさせ、まさに「柔軟」も「柔軟」、身の振り方にも信念にも拘らないこの上なく「柔軟」な美しくない「受け入れ」であることを伝える。

 次にカメラは復党議員の一人、森山裕を映し出す。9・11総選挙時の相当数の支持者らとパレードを行っているシーンである。「郵政民営化反対」の横断幕を掲げた先頭の列に加わって、「ハンタイ、ハンタイ」と全員して連呼しながら拳を突き上げ突き上げ行進していく。

 次は堀内光雄議員の復党釈明記者会見の弁「郵政民営化については、反対と一言も申し上げておりません」と力強い、断固とした調子で言い切る。

 しかし採決の場で反対票を投じたことはウソも隠しもない事実である。反対票は投じたが、「反対と一言も申し上げておりません」とでも言うのだろうか。テレビ報道で知り得た範囲内で言えば、確かに堀内議員が「反対」と「申し上げて」いるシーンに一度も出くわしていないが、総選挙のとき聴衆を前にして「民営化法案は欠陥法案です」と言い切っている録画再生画面が流されている。言っている意味は同じでも、言葉が違えば、「一言も申し上げておりません」になるのだろう。自民党議員にしては、何ともまあ美しい姿であることか。

 釈明記者会見での森山裕議員は「終始訴えてまいりましたことは、民営化そのものに反対しているのではないと言うことで――」と巧妙なすり替え型。

 古尾圭司「全力で安倍政権を支えるということが私の責任であるというふうに思っております」とこれは郵政民営化問題抹消型。郵政問題は決着がついた、安倍政権を如何に支えていくかが現在の重要問題なのだと、郵政問題など最初から存在しなかったかのように遥か彼方の背景に押しやってしまう。

 今村雅弘「まさに安倍首相は命の恩人ということで、全身全霊を上げて、安部総理と共にしっかりがんばっていきたいと――」と信念も美しさも何もない全面おべっか型。

 次いで安倍記者会見。「仲間として一緒に美しい国づくりに汗を流してもらいたい」

 安倍首相は復党議員の釈明記者会見が美しい光景となっていたとでも思っているのだろうか。普通の感覚なら、美しくない光景――と言うよりも、それぞれの出席議員に破廉恥・鉄面皮な印象を持たざるを得ない醜悪なシーンに映ったのではないだろうか。

 そういった、岐阜のオバサンが言っていた「自分の身の振り方も信念もコロコロ曲げるようでは、信用できない」美しくない面々にまで、「美しい国づくり」の仲間入りを願う。美しくない人間が「美しい国」をつくる資格などそもそもからして持っているのだろうか。

 尤も「美しい国」なるアイデアを言い出した本人自体が、自らが掲げていた国家主義的歴史認識を総理総裁になった途端に国家主義を薄めたり、曖昧にしたり、韜晦したり、あるいは誤魔化したりするご都合主義の変節漢を演じる美しくない姿を曝している。これは郵政造反復党議員が演じた「信念をコロコロ曲げる」と同じ線上にある同質の美しくない無節操・無節度であろう。本人自体が美しくない政治家の一人なのである。

 また自民党議員の多くは今年9月の総裁選で政策の違いや政治理念の違い、立場の違いを無視してポスト欲しさから、寄らば大樹の自己保身から安倍支持雪崩現象に信念も何もなく身を任せる美しくない姿を臆面もなく、あるいは恥も外聞もなくさらけ出している、

 自由民主党という政党は美しくない議員で占められていると言っても過言ではない。「美しい国」を言い出した本人が美しくない人間である上に、仲間となって「美しい国」づくりに協力する殆どの面々が同じく美しくない人間ときている。こういった美しくない面々が「美しい国」づくりなどできるのだろうか。ウソつきが正直な国づくりを目指すようなものである。その二律背反性は美しくない人間による「美しい国」づくりにも当てはまる滑稽なまでの二律背反であろう。

 昨日(06.11.29)夜、郵政造反議員復党に反対する新人議員に理解を求める新旧執行部と新人議員との会合が開かれたと言う。新旧執行部だから、勿論小泉前首相も出席している。
「日テレ24」によると、小泉前首相は「造反組の人たちは自分の信念を曲げて土下座したようなものだ。それは認めてはいいのではないか。それをダメという自民党であってはならない」と言ったということだが、信念を曲げる「土下座」行為を情けなく思い、そんな政治家は相手にできないというなら素直に理解できるが、〝認める〟(受け入れる)というプラスの価値に変える発想は非合理性を養分としたご都合主義を動機としていないとしたら、その合理的根拠はどう逆立ちしても理解し難い。復党する方もご都合主義なら、復党させる方もご都合主義であることによって首尾一貫、見事なまでに整合性を成り立たせうるのであって、そういった相互主義がなさしめた「土下座」とそのことに対する「ダメという自民党であってはならない」でなければ、理解という着地点を獲得することはできない。

 番組は新人議員に対する心構えとして、「後で国民に使い捨てられないように復党した人をどれだけ味方につけられるかだ」と新人議員に檄を飛ばしたと解説している。しかしこれは自民党自体に対しても言えることであるが、新人議員とは相反する利害関係を形作る。復党した議員が国民の不評を買って有権者の票を減らせば、新人議員に有利な状況をもたらすだろうが、信念とは関係なしに組織力と土着的人間関係で変わらぬ集票力を見せたなら、自民党にとっては大いなる利益となるが、新人議員には不利に働く。小泉首相の〝檄〟はそこまで考えない単純な情緒論から出たものではないのか。

 安倍首相は会合の後、記者団に次のように述べている。「美しい国をつくるため、一回終止符を打って、広い心を持って協力して欲しいと求めました」

 こうなると「美しい国」はもはや創価学会の南無妙法蓮華経と何ら変わらない念仏の繰返しである。公明党と与党を組んでいる関係で、創価学会づいてしまったのか、口を開くなり「美しい国、美しい国」とお唱えしている。空念仏でなければ、こうも繰返すことはできないだろう。一国の総理大臣にしては美しくない姿だ。まあ、美しくない政治家だから、仕方がないとしなければならないだろうが。

 清水鴻一郎新人議員が「郵政に反対し、信念を貫いた人が、それを降ろして、そして郵政に賛成する、そして反省するってことは、もう白旗を上げたんだと。その人たちに対して、それはもうダメだというような自民党であってはならないんじゃないかと――」と小泉前首相が説く復党容認論を解説していた。

 自民党は度量が広いということだろうか。無節操を受け入れる無節操を演ずることまで度量が広いうちに入る行為だとするなら、例え美しくなくても確かに度量が広いとは言えるが、合理的根拠という点で解答を与える主張ではないことに変わりはない。

 篠田陽介新人議員「私がまだ青臭いのか、まだやっぱ理解できないところが、やっぱあります。ただ、これが政治なのかなあーと」
 
 そう、「まだ青臭い」のです。自民党の一人として、早いとこ美しくない議員の仲間入りをしなければ、有力議員への出世は見込めません。美しくない議員となって初めて、「美しい国」作りのメンバーの資格も得ることができるのです。頑張って第一級の美しくない政治家を目指しましょう。

 「国民から自民党が見捨てられる」という批判も新人議員の間から発せられたそうだが、
美しくない自民党が柄にもなく美しくあろうなどと心掛けたとき、「見捨てられる」危険性が生じるときだろう。人間、柄にもないことをすると、恥をかいたり、予想もしない飛んでもない運命に見舞われることになると言われている。政権交代派にとっては朗報とはなる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする