◆終戦記念日だからこそ考えたい一視点
8.15終戦記念日、本日は日本が太平洋戦争に敗戦した歴史的分岐点の日ということで、少しこの点を考えてみましょう。
戦争を知らない世代、という言葉が戦後世代という言葉の代用として今日頻繁に使われるのですが、この点について一つ持つ違和感あります、我が国では日本国籍を取得し帰化したわが国民には、ヴェトナム戦争やアフガン戦争、イラク戦争やユーゴ内戦を経験した方が次第に増えているという現状で、平和の尊さとは、我が国では外征により招く戦争という構図が過去の歴史から成り立つのですが、世界では必ずしも合致するものではなく、戦争に巻き込まれないよう軍事力を含め努力する、という視点を以て考える方々も少なからずいるということ。
近年、我が国は単一民族国家、という観念を多文化共生社会が進む現状から見直すべきという声がありますが、これは同時に戦争を知る世代、という意味にも一石を投じることとなるやもしれません。特に難民支援という世界の要請は、難民受け入れ、この難民には主として戦災難民や圧政からの難民が含まれるのですが、国際公序として我が国が世界との協調を図る延長線上には、わが国民の一員として、戦争への異なった経験に裏打ちされた視点を持つ同胞が増えてゆくこと、忘れてはなりません。
戦争反対を叫べば、戦争は起きないのか、と問われれば、実のところ、彼らの立場、言い換えればかつての我が国の対面にある視点から遂行されたならば、実は起きないのだ、という考えが、最近の当方の一つの考えとしてあります。簡単な話です、我が国が中国大陸へ進攻したことが全ての端緒で戦争がはじまりました。しかし、ここで大陸において戦争反対が提唱され、履行されていたらばどうでしょうか。答えは簡単です、戦争は起きなかった、併呑し、戦争無き状態が続いたでしょう。しかし、それを以て人の尊厳と権利が守られたか、と問われれば答えは正反対なのですが。
戦争の悲劇を繰り返すな、このスローガンを掲げ、フランスの対独解放記念日にパリで行われている祭事は何か、戦争の悲劇を二度と起こさない、このスローガンを叫びモスクワの対独戦勝記念日に行われている行事とは何か、調べると簡単なのですが、盛大な軍事パレードが行われています。もちろん、日本やドイツでは中々考えられないことなのですが、責められた立場からは戦争反対とは、備えよ常に、という視点であり、決して無抵抗で蹂躙される、という視点はあり得ないということ。攻める側と責められた側では後者の視点のものであり、二極する半面は必ずこの立場に立つ、ということです。
一方でもう一つの視点。隣国の大統領が我が国係争地域の施政権を有する島嶼へ上陸、本日は我が国領土へ係争を掲げ不法入国者が逮捕される事案がありましたが、特に前者について、軍事力を以て反撃するべき、という強い視点で論調を掲げる知識人と呼ばれる方が、少なからず居る、ということです。言い換えれば、これは戦争しろ、と言っていることで、少々自衛権を発動するには即座の行為として国際法が認める自衛権の行使としては半世紀以上の遅れ即座と強弁することは難しいとおもうのですが、無理を通せ、ということをいう方がいる。
ここで一つだけ、確認したいのは、特に隣国の半島南部は我が国九州島北部を陸軍誘導弾やロケット弾の射程に収めており、空軍は本州を戦闘行動半径に収めています。我が国自衛隊は戦えば当然航空優勢を確保し、海上優勢を絶対的なものとして手中に収めることが出来るだけの装備と運用体系を有しています。しかし、福岡市や長崎市が攻撃を受け、沿岸部を爆撃された際に国民が堪えられるだけの、また戦災地域を支えるだけの準備と気概があるのでしょうか。
話は簡単です、準備するだけの勇気があるのか、ということ。防衛費を増やせ、というスローガンは誰でも掲げられるのですが、民間防衛先進国が行うような個人住宅建築時の地下シェルター設置義務化、これを法的に義務化して備えられるだけの準備を求められた場合、皆さんは耐えられるのでしょうか。シェルター、住宅建築費は三倍になると実施国では大きな負担となっているのですが、また賃借住宅集合住宅への退避壕設置の義務化が行われた場合、早い話使える面積同じで家賃二倍となるのですが、経済的に備える準備があるか、ということ。同じ家賃ならば今の住居の半分となることは耐えられるのでしょうか。
防衛費二倍にしろ!、という発言は余り自己の負担を考えられないので軽々に叫べるのですが、家賃二倍か住宅建築費二倍にしてシェルター準備してね?、という言葉が国民の義務として提示された場合、お財布は耐えられるのか?、と問うてみたいところ。もちろん、出来る!、と力強い言葉が返ってくれば、これに越したことはありません。シェルターは戦災のほかにも南海トラフ地震や原子力災害に際して国民の生命を守れるからです。可能ならば行うべきでしょう。
民間防衛への参加も、求められた場合、必ず出来るものでしょうか。民間防衛訓練へ、一定の曜日は訓練を行うため上司が残業とお願いされた際にもキッパリと断り退社できるものなのか、仕事が残っており納期が迫る修羅場のような状況であっても消防団訓練が大事だ、水防団訓練に行かなければ、と出来るものなのか。出来る、と言い張っていた連中が、やっぱり出来ない、という声を聴くものですから。戦争するべき、という声は自分の負担があまり感じられないのでいうことが簡単なのでしょうが、じゃあ備えて民間防衛なので週末は空けといてね、という声に自らの具体的負担へ応えられるものなのか、と考えるところ。
批判することは簡単ですが対案は出せないというう状況、特に政治については批判するだけで、下手をすれば陰謀論を持ち出して討議逃避を試みる方がいるようですが、まず、政治参加の形を採っているのか、と問うてみたいもので、住民自治へどのくらい時間を割いているのか、政治参加の一形態には労組討議参加も諸外国では含まれるのですが、行っているのか、という素朴な疑問も。丸投げして、批判だけ行う、というものが政治と国民の関係なのですから、まず、この点をどう変えてゆくか、という視点が必要なのだと考えます。
終戦記念日ではあるのですが、これが第二次世界大戦、現在のところ最後の世界大戦となっている戦争が終結した記念日ということは変わりありません。ただその中で、戦争を知らない世代という一種固定概念を以て差別化を図るような愚作は時代遅れになりつつあるのではないか、という一視点。丸投げして結果のみ批判するのではなく、参加して成果を修正する方法の模索、自分の立場に立った政策と義務の関係というものの認識という一視点、いま最も求められているものと考えるのですがどうでしょうか。この点、どうしても気になり、理論を整理しきれないままに二つの視点を提示してみました。
北大路機関:はるな
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