■下鴨神社に台風通過を祈る
台風五号が京都に最接近した一昨日、突風と豪雨が少し止み間を迎えましたので傘を差し防災を祈りに、下鴨神社へ参拝してまいりました。
下鴨神社、左京区下鴨にありますこの神社、下賀茂神社は正式には賀茂御祖神社といい、山城国一宮という位置づけで旧社格は官幣大社です。境内には糺の森が広がり御手洗川が流れ、美しい国土を境内に再現した中に浮かぶ朱色の楼門は中なかなかに神秘的です。
葵祭、京都三大祭の一つであるこの祭事が正しくは賀茂祭といい、そして葵祭の神社といいますと、歴史装束の時代行列が御所から下鴨神社と上賀茂神社へと向かう情景と共に、下賀茂神社の京都における位置づけが思い浮かべられるでしょうか。京阪出町柳駅の近く。
玉依姫命とその父にあたる賀茂建角身命を主祭神と祀る神社です。玉依姫命は賀茂別雷命の母という親和上の存在ですが、玉依姫命は日本書紀にて鸕鷀草葺不合尊と結ばれ、四子を授かり、その末子が神日本磐余彦尊とされています、神日本磐余彦尊とは神武天皇です。
創建は京都で最も古い神社の一つという事以外分かっておらず、千年二千年という単位の前の話のようです、初代天皇神武天皇治世下御蔭山に玉依姫命が降臨し、神社を建立する事となりました、紀元前90年即ち崇神7年に神社の一部を修復したとの記録もあります。
神武天皇即位は紀元前660年、その時代に神武天皇の母御是と祖父が京都に降臨した為に造営された神社、我が国伝統の奥深さを考えさせられるものです。玉依姫命が東本殿に祀られ賀茂建角身命が西本殿に祀られていまして、ここは1953年に国宝へ指定されました。
式年遷宮日本の寺社仏閣で当方が考えさせられる神事が式年遷宮ですが、下鴨神社では21年に一度の式年遷宮という歴史的な行事が進む最中です。式年遷宮、定期的に神社の全ての建物を取り壊して建て替える神事で、これが日本の民族性に影響しているよう思える。
日本の国土は巨大火山と世界の地震の一割が発生する環太平洋上の台風の通り道に位置しまして、常々日本人の定義とは民族性云々ではなく巨大災害連発下に人の生き方悟り楽しく暮らせる人々と思う事がありますが、定期的に零に戻す式年遷宮の価値観と重なります。
源氏物語や枕草子にも度々登場するのですが、この頃から葵祭が執り行われており祭事に集まる人々が多い事から朝廷から警備を強めるよう命じられたとの記録も残ります。興味深いのは徳川家に繋がる家系で松平信光が賀茂朝臣として仕え、葵の御紋の由来ということ。
皇室の氏神様を祀る神社という事で飛鳥時代奈良時代と特別の崇敬を集めると共に奈良時代に807年からは斎王として皇女が神に奉仕する制度が始まりました、斎王とは内親王が伊勢神宮または賀茂神社に奉仕する制度です。平安遷都を経て一層の崇敬を集めました。
室町末期、戦乱を経て貴族の位置づけに代わり個々人の崇敬が支える時代にも栄えると共に江戸時代には上記の通り徳川家と同じ葵を掲げる神社との事で格別の保護を受け、明治初年に伊勢神宮と共に官幣大社首位として我が国の神社に在って筆頭に挙げられています。
神武天皇治世下に始まり日本の歴史の大きさを感じると共に、糺の森を歩み祝詞舎に四脚中門と細殿や舞殿と続き神服殿や供御所を経て東本殿と西本殿との社殿に向かいますと、大都市にもこうした空間があるのか、との静寂さへのある種何か感慨深いものを抱きます。
祭事も数多く葵祭や節分神事はこれまでに当方もお伝えましましたが、一月に御粥祭と蹴鞠はじめ、五月には葵祭を筆頭に流鏑馬神事と奉納演武に御蔭祭が執り行われ、七月には御手洗祭が行われる。葵祭は平安時代に祭りといえば本祭事を示す程で15日に行われます。参拝終えた頃、台風は和歌山に上陸しました。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
台風五号が京都に最接近した一昨日、突風と豪雨が少し止み間を迎えましたので傘を差し防災を祈りに、下鴨神社へ参拝してまいりました。
下鴨神社、左京区下鴨にありますこの神社、下賀茂神社は正式には賀茂御祖神社といい、山城国一宮という位置づけで旧社格は官幣大社です。境内には糺の森が広がり御手洗川が流れ、美しい国土を境内に再現した中に浮かぶ朱色の楼門は中なかなかに神秘的です。
葵祭、京都三大祭の一つであるこの祭事が正しくは賀茂祭といい、そして葵祭の神社といいますと、歴史装束の時代行列が御所から下鴨神社と上賀茂神社へと向かう情景と共に、下賀茂神社の京都における位置づけが思い浮かべられるでしょうか。京阪出町柳駅の近く。
玉依姫命とその父にあたる賀茂建角身命を主祭神と祀る神社です。玉依姫命は賀茂別雷命の母という親和上の存在ですが、玉依姫命は日本書紀にて鸕鷀草葺不合尊と結ばれ、四子を授かり、その末子が神日本磐余彦尊とされています、神日本磐余彦尊とは神武天皇です。
創建は京都で最も古い神社の一つという事以外分かっておらず、千年二千年という単位の前の話のようです、初代天皇神武天皇治世下御蔭山に玉依姫命が降臨し、神社を建立する事となりました、紀元前90年即ち崇神7年に神社の一部を修復したとの記録もあります。
神武天皇即位は紀元前660年、その時代に神武天皇の母御是と祖父が京都に降臨した為に造営された神社、我が国伝統の奥深さを考えさせられるものです。玉依姫命が東本殿に祀られ賀茂建角身命が西本殿に祀られていまして、ここは1953年に国宝へ指定されました。
式年遷宮日本の寺社仏閣で当方が考えさせられる神事が式年遷宮ですが、下鴨神社では21年に一度の式年遷宮という歴史的な行事が進む最中です。式年遷宮、定期的に神社の全ての建物を取り壊して建て替える神事で、これが日本の民族性に影響しているよう思える。
日本の国土は巨大火山と世界の地震の一割が発生する環太平洋上の台風の通り道に位置しまして、常々日本人の定義とは民族性云々ではなく巨大災害連発下に人の生き方悟り楽しく暮らせる人々と思う事がありますが、定期的に零に戻す式年遷宮の価値観と重なります。
源氏物語や枕草子にも度々登場するのですが、この頃から葵祭が執り行われており祭事に集まる人々が多い事から朝廷から警備を強めるよう命じられたとの記録も残ります。興味深いのは徳川家に繋がる家系で松平信光が賀茂朝臣として仕え、葵の御紋の由来ということ。
皇室の氏神様を祀る神社という事で飛鳥時代奈良時代と特別の崇敬を集めると共に奈良時代に807年からは斎王として皇女が神に奉仕する制度が始まりました、斎王とは内親王が伊勢神宮または賀茂神社に奉仕する制度です。平安遷都を経て一層の崇敬を集めました。
室町末期、戦乱を経て貴族の位置づけに代わり個々人の崇敬が支える時代にも栄えると共に江戸時代には上記の通り徳川家と同じ葵を掲げる神社との事で格別の保護を受け、明治初年に伊勢神宮と共に官幣大社首位として我が国の神社に在って筆頭に挙げられています。
神武天皇治世下に始まり日本の歴史の大きさを感じると共に、糺の森を歩み祝詞舎に四脚中門と細殿や舞殿と続き神服殿や供御所を経て東本殿と西本殿との社殿に向かいますと、大都市にもこうした空間があるのか、との静寂さへのある種何か感慨深いものを抱きます。
祭事も数多く葵祭や節分神事はこれまでに当方もお伝えましましたが、一月に御粥祭と蹴鞠はじめ、五月には葵祭を筆頭に流鏑馬神事と奉納演武に御蔭祭が執り行われ、七月には御手洗祭が行われる。葵祭は平安時代に祭りといえば本祭事を示す程で15日に行われます。参拝終えた頃、台風は和歌山に上陸しました。
北大路機関:はるな くらま
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