■長谷川等伯の見上げる仏涅槃図
仏涅槃図という巨大な仏画が迎える本堂の本法寺は街中の寺院には妙な心持を受けるところではありますが、開基の歴史を辿ればなるほどと得心します。
日親は、兎に角法華経を広める事で、これは教条主義的な価値観ではなく理想国家像を法華経の世界観に重なると信じ立ち向かっているのですが、相手が相手ですと無茶苦茶な治世下には支持が集まります。もっとも八紘一宇のように権力者に利用される事もあるが。
万人恐怖。さて義教の政治は比叡山からの強訴に軍事力で反撃するなどいよいよ万人恐怖と称されるような様相をきたすのですが、暴政には徹底した箝口令を敷き、例えば朝廷参議を務めた高倉永藤が箝口令を破ったとして所領没収と硫黄島流刑など、やりたい放題に。
比叡山焼き討ち、この表現は織田信長の専売特許のようにおもわれているふしがありますが、室町将軍足利義教は先を行っていまして、御輿を役宅前に持ち出し放置して帰る、強訴への反撃に根本中堂まで攻め込み僧侶数十名を閉じこめた上で焼き討ちにしている。
正長の土一揆。上記の通り政治は麻の如く乱れ、という表現の典型となりますと地方情勢も悪化します。日本で最初の土一揆とよばれた正長元年こと西暦1428年の一揆、くじ引き将軍のくじ引きが行われたその年に起こりましたが、将軍交代を機に徳政令を求める声が。
易姓革命の思想ではありませんけれども、将軍交代は前将軍の没に意味を見いだし、だからこそ新しい将軍には徳政令を含めた善政を求める機運となり、義教将軍宣下とともにこの求めは暴動のように広がります、これを私徳政という、いわば略奪、これが広がります。
勧進興行。私徳政という略奪を受ける側には例えば文化芸能などを供して支持や喜捨を受ける方策をとりまして、本法寺は含まれないようですが、いまの北野天満宮や千本閻魔堂に矢田寺と六角堂や六道珍皇寺と伏見稲荷、醍醐寺とそして鞍馬寺でも行われていました。
本阿弥家と繋がりがあります本法寺は、直接勧進興行をおこなうことはありませんでしたが、こうした文化の隆盛とともに本阿弥家の豊富につながり、これは寄進となり、民衆支持を深める背景ともなるのですね。一方、暴虐を極めた将軍義教はどうなったかというと。
嘉吉の乱。将軍義教は嘉吉元年こと西暦1441年に管領赤松満祐が開いた宴会に臨席、引き出物献上に挨拶を終え夕餉とともに猿楽の見物というところで、完全武装の赤松家手勢十数名が乱入、義教はあっさり暗殺、これを機に幕府は弱体化を始め、応仁年間へ進みます。
長谷川等伯。さて本法寺の歴史にもう一人文化人が加わる事となります。16世紀の日本画大家であり日本文化史の巨人である長谷川等伯も本法寺と縁が在ります、いや、本阿弥光悦と所縁ある寺院故に洛中の庶民に親しまれる寺院が、芸術の拠点となっていたのですね。
本阿弥光悦と本阿弥家が支えた本法寺、ここに一人の画家志望者が逗留を希望します、長谷川等伯ですね。加賀の国に生まれた長谷川等伯は、寺院に水墨画を描いて寄進する承認でしたが、養父母が世を去った頃の齢30を越え、画家を目指して上洛を決意するのですね。
長谷川等伯、しかし無名の頃に上洛し逗留を許したのが此処本法寺でした。仏涅槃図、本法寺には実に10mという巨大な仏教画が安置されています、長谷川等伯が齢60を超えたころに、涅槃の世界観を壮大な規模と老齢の達観とともに悟りに結ばれるよう描いたもの。
仏涅槃図は複製画が安置され、それでも巨大さに驚かされるものですが、拝観の際に観る、いや見上げる事が出来ます。複製画とはいえ撮影は許されませんが、年に一度現物も拝観できる、9系統バスが行き交う堀川通りの、その隣に不思議な情感と信仰が広がるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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仏涅槃図という巨大な仏画が迎える本堂の本法寺は街中の寺院には妙な心持を受けるところではありますが、開基の歴史を辿ればなるほどと得心します。
日親は、兎に角法華経を広める事で、これは教条主義的な価値観ではなく理想国家像を法華経の世界観に重なると信じ立ち向かっているのですが、相手が相手ですと無茶苦茶な治世下には支持が集まります。もっとも八紘一宇のように権力者に利用される事もあるが。
万人恐怖。さて義教の政治は比叡山からの強訴に軍事力で反撃するなどいよいよ万人恐怖と称されるような様相をきたすのですが、暴政には徹底した箝口令を敷き、例えば朝廷参議を務めた高倉永藤が箝口令を破ったとして所領没収と硫黄島流刑など、やりたい放題に。
比叡山焼き討ち、この表現は織田信長の専売特許のようにおもわれているふしがありますが、室町将軍足利義教は先を行っていまして、御輿を役宅前に持ち出し放置して帰る、強訴への反撃に根本中堂まで攻め込み僧侶数十名を閉じこめた上で焼き討ちにしている。
正長の土一揆。上記の通り政治は麻の如く乱れ、という表現の典型となりますと地方情勢も悪化します。日本で最初の土一揆とよばれた正長元年こと西暦1428年の一揆、くじ引き将軍のくじ引きが行われたその年に起こりましたが、将軍交代を機に徳政令を求める声が。
易姓革命の思想ではありませんけれども、将軍交代は前将軍の没に意味を見いだし、だからこそ新しい将軍には徳政令を含めた善政を求める機運となり、義教将軍宣下とともにこの求めは暴動のように広がります、これを私徳政という、いわば略奪、これが広がります。
勧進興行。私徳政という略奪を受ける側には例えば文化芸能などを供して支持や喜捨を受ける方策をとりまして、本法寺は含まれないようですが、いまの北野天満宮や千本閻魔堂に矢田寺と六角堂や六道珍皇寺と伏見稲荷、醍醐寺とそして鞍馬寺でも行われていました。
本阿弥家と繋がりがあります本法寺は、直接勧進興行をおこなうことはありませんでしたが、こうした文化の隆盛とともに本阿弥家の豊富につながり、これは寄進となり、民衆支持を深める背景ともなるのですね。一方、暴虐を極めた将軍義教はどうなったかというと。
嘉吉の乱。将軍義教は嘉吉元年こと西暦1441年に管領赤松満祐が開いた宴会に臨席、引き出物献上に挨拶を終え夕餉とともに猿楽の見物というところで、完全武装の赤松家手勢十数名が乱入、義教はあっさり暗殺、これを機に幕府は弱体化を始め、応仁年間へ進みます。
長谷川等伯。さて本法寺の歴史にもう一人文化人が加わる事となります。16世紀の日本画大家であり日本文化史の巨人である長谷川等伯も本法寺と縁が在ります、いや、本阿弥光悦と所縁ある寺院故に洛中の庶民に親しまれる寺院が、芸術の拠点となっていたのですね。
本阿弥光悦と本阿弥家が支えた本法寺、ここに一人の画家志望者が逗留を希望します、長谷川等伯ですね。加賀の国に生まれた長谷川等伯は、寺院に水墨画を描いて寄進する承認でしたが、養父母が世を去った頃の齢30を越え、画家を目指して上洛を決意するのですね。
長谷川等伯、しかし無名の頃に上洛し逗留を許したのが此処本法寺でした。仏涅槃図、本法寺には実に10mという巨大な仏教画が安置されています、長谷川等伯が齢60を超えたころに、涅槃の世界観を壮大な規模と老齢の達観とともに悟りに結ばれるよう描いたもの。
仏涅槃図は複製画が安置され、それでも巨大さに驚かされるものですが、拝観の際に観る、いや見上げる事が出来ます。複製画とはいえ撮影は許されませんが、年に一度現物も拝観できる、9系統バスが行き交う堀川通りの、その隣に不思議な情感と信仰が広がるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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