■近代日本に繋がる分岐点
歴史の分岐点舞台となった立地は日本に数多ありますが散策の際に偶然見つけますと何か感じ入るものがあるのです。
近衛家邸宅。西尾城には京都は公家の名家が移築されています。実はこれは1990年に移築されたものでして、辰巳櫓も1990年に再建されたものです。ここには庭園から高揚をめでる様な心の余裕が、こんな時代でも連綿と受け継がれているのが少し嬉しいものですね。
庭園の借景に西尾城、此処に将来的に天守閣が再建されるといいますので、工事の喧騒は厳しいですが、少し遠いものの尼崎に尼崎城が再建された際の活気を見ていますので、この活気が西尾でも盛上るのか、考えますとその先が楽しみにも思えるもの。かつての城は。
三河一向一揆、永禄6年こと西暦1562年に勃発した戦国時代最大規模の一向一揆の最前線となるのですね、これは本證寺という西尾城から10kmほど先にあります城郭のような寺院での争乱で諸説在るも、無法者の捕縛を酒井正親が命じたことで発端となっています。
松平広忠、三河一向一揆を理解するにはこの家康の実父が三河を統治していた時代、当地の本願寺門徒に守護使不入という一定の自治を認められていた事まで遡らなければなりません。ここが拡大解釈され、無法者の捕縛という一見正当な行為が、特権侵害と扱われた。
家康三大危機、三河一向一揆は三方原の戦い、浜松で武田軍の戦死直前まで追いつめられた戦いや、伊賀越えにて本能寺の変にて盟友織田信長が謀殺された際に若干名の手勢とともに徒歩で京都を脱した危機とならぶ、つまり関ヶ原の戦いよりも危機的であったという。
危機一髪とはどのくらいかといいますと、徳川家臣団のなかからも家康に離反して一揆に参加した武将がいまして、鉄の団結を誇示した徳川家臣団から離反があったことは家康に衝撃を与えたことでしょう、全員離反しなかったのは東三河地方で曹洞宗が強かったため。
江戸時代の日本の統治を考える上で、特に家康の寛容と厳格を併せ持つ宗教政策には、この三河一向一揆が影響していることは疑い在りません、対立を避け統治する独特の政治姿勢がとられています。穿った見方ではありますが、これは明治以降にも好影響を及ぼした。
明治以降の政教分離は、列強含める多くの国が宗教と国家の関係に軽装と紛争を絡ませた複雑な歴史を辿ることを強いた点とは対照的に、廃仏毀釈の動乱は挟んだものの、ほぼ軟着陸と表現するにふさわしい近代化を果たしました。その起点は、三河だったのやも。
天正年間、酒井重忠による城郭拡張に話をも押しますと、この際に土塁は石垣へと強化されるとともに櫓、そして天守閣もこの際に造営されています。なにしろ天正年間、織田信長が没したばかりであり、まだまだ戦国時代に家康は三河の基礎固めの時代ですからね。
豊臣秀吉の治世下では田中吉政が改めて1590年に三の丸を増強し、また複合式望楼三重方式の天守閣とともに三重櫓と三カ所に二重櫓を備えた重厚な城郭となっています。こののち、関ヶ原の戦いを経て徳川譜代大名本多康俊が勲功の二万石で西尾藩転封となりました。
西尾城の完成は城下町を囲む総構えの工事を江戸時代に進めまして、明歴時代の西暦1657年に井伊直好が転封12年後に完成させています。こののちは増山家と土井家に三浦家と藩主がかわり、明和元年の西暦1764年より大給松平家の所領となり、明治維新まで続く。
近衛家邸宅も移築されています西尾城はそれだけ市民憩いの場である事が分ります、この上に更に天守閣も再建しようというのですから愛されようがわかるというものでしょう。街に歴史あり、その町が城下町となりますと城郭の現況が街と歴史の絆の深さのようです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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歴史の分岐点舞台となった立地は日本に数多ありますが散策の際に偶然見つけますと何か感じ入るものがあるのです。
近衛家邸宅。西尾城には京都は公家の名家が移築されています。実はこれは1990年に移築されたものでして、辰巳櫓も1990年に再建されたものです。ここには庭園から高揚をめでる様な心の余裕が、こんな時代でも連綿と受け継がれているのが少し嬉しいものですね。
庭園の借景に西尾城、此処に将来的に天守閣が再建されるといいますので、工事の喧騒は厳しいですが、少し遠いものの尼崎に尼崎城が再建された際の活気を見ていますので、この活気が西尾でも盛上るのか、考えますとその先が楽しみにも思えるもの。かつての城は。
三河一向一揆、永禄6年こと西暦1562年に勃発した戦国時代最大規模の一向一揆の最前線となるのですね、これは本證寺という西尾城から10kmほど先にあります城郭のような寺院での争乱で諸説在るも、無法者の捕縛を酒井正親が命じたことで発端となっています。
松平広忠、三河一向一揆を理解するにはこの家康の実父が三河を統治していた時代、当地の本願寺門徒に守護使不入という一定の自治を認められていた事まで遡らなければなりません。ここが拡大解釈され、無法者の捕縛という一見正当な行為が、特権侵害と扱われた。
家康三大危機、三河一向一揆は三方原の戦い、浜松で武田軍の戦死直前まで追いつめられた戦いや、伊賀越えにて本能寺の変にて盟友織田信長が謀殺された際に若干名の手勢とともに徒歩で京都を脱した危機とならぶ、つまり関ヶ原の戦いよりも危機的であったという。
危機一髪とはどのくらいかといいますと、徳川家臣団のなかからも家康に離反して一揆に参加した武将がいまして、鉄の団結を誇示した徳川家臣団から離反があったことは家康に衝撃を与えたことでしょう、全員離反しなかったのは東三河地方で曹洞宗が強かったため。
江戸時代の日本の統治を考える上で、特に家康の寛容と厳格を併せ持つ宗教政策には、この三河一向一揆が影響していることは疑い在りません、対立を避け統治する独特の政治姿勢がとられています。穿った見方ではありますが、これは明治以降にも好影響を及ぼした。
明治以降の政教分離は、列強含める多くの国が宗教と国家の関係に軽装と紛争を絡ませた複雑な歴史を辿ることを強いた点とは対照的に、廃仏毀釈の動乱は挟んだものの、ほぼ軟着陸と表現するにふさわしい近代化を果たしました。その起点は、三河だったのやも。
天正年間、酒井重忠による城郭拡張に話をも押しますと、この際に土塁は石垣へと強化されるとともに櫓、そして天守閣もこの際に造営されています。なにしろ天正年間、織田信長が没したばかりであり、まだまだ戦国時代に家康は三河の基礎固めの時代ですからね。
豊臣秀吉の治世下では田中吉政が改めて1590年に三の丸を増強し、また複合式望楼三重方式の天守閣とともに三重櫓と三カ所に二重櫓を備えた重厚な城郭となっています。こののち、関ヶ原の戦いを経て徳川譜代大名本多康俊が勲功の二万石で西尾藩転封となりました。
西尾城の完成は城下町を囲む総構えの工事を江戸時代に進めまして、明歴時代の西暦1657年に井伊直好が転封12年後に完成させています。こののちは増山家と土井家に三浦家と藩主がかわり、明和元年の西暦1764年より大給松平家の所領となり、明治維新まで続く。
近衛家邸宅も移築されています西尾城はそれだけ市民憩いの場である事が分ります、この上に更に天守閣も再建しようというのですから愛されようがわかるというものでしょう。街に歴史あり、その町が城下町となりますと城郭の現況が街と歴史の絆の深さのようです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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