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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】西尾城(愛知県西尾市)その城塞は徳川家康危機一髪三河一揆最前線の城郭

2021-11-24 20:21:18 | 旅行記
■近代日本に繋がる分岐点
 歴史の分岐点舞台となった立地は日本に数多ありますが散策の際に偶然見つけますと何か感じ入るものがあるのです。

 近衛家邸宅。西尾城には京都は公家の名家が移築されています。実はこれは1990年に移築されたものでして、辰巳櫓も1990年に再建されたものです。ここには庭園から高揚をめでる様な心の余裕が、こんな時代でも連綿と受け継がれているのが少し嬉しいものですね。

 庭園の借景に西尾城、此処に将来的に天守閣が再建されるといいますので、工事の喧騒は厳しいですが、少し遠いものの尼崎に尼崎城が再建された際の活気を見ていますので、この活気が西尾でも盛上るのか、考えますとその先が楽しみにも思えるもの。かつての城は。

 三河一向一揆、永禄6年こと西暦1562年に勃発した戦国時代最大規模の一向一揆の最前線となるのですね、これは本證寺という西尾城から10kmほど先にあります城郭のような寺院での争乱で諸説在るも、無法者の捕縛を酒井正親が命じたことで発端となっています。

 松平広忠、三河一向一揆を理解するにはこの家康の実父が三河を統治していた時代、当地の本願寺門徒に守護使不入という一定の自治を認められていた事まで遡らなければなりません。ここが拡大解釈され、無法者の捕縛という一見正当な行為が、特権侵害と扱われた。

 家康三大危機、三河一向一揆は三方原の戦い、浜松で武田軍の戦死直前まで追いつめられた戦いや、伊賀越えにて本能寺の変にて盟友織田信長が謀殺された際に若干名の手勢とともに徒歩で京都を脱した危機とならぶ、つまり関ヶ原の戦いよりも危機的であったという。

 危機一髪とはどのくらいかといいますと、徳川家臣団のなかからも家康に離反して一揆に参加した武将がいまして、鉄の団結を誇示した徳川家臣団から離反があったことは家康に衝撃を与えたことでしょう、全員離反しなかったのは東三河地方で曹洞宗が強かったため。

 江戸時代の日本の統治を考える上で、特に家康の寛容と厳格を併せ持つ宗教政策には、この三河一向一揆が影響していることは疑い在りません、対立を避け統治する独特の政治姿勢がとられています。穿った見方ではありますが、これは明治以降にも好影響を及ぼした。

 明治以降の政教分離は、列強含める多くの国が宗教と国家の関係に軽装と紛争を絡ませた複雑な歴史を辿ることを強いた点とは対照的に、廃仏毀釈の動乱は挟んだものの、ほぼ軟着陸と表現するにふさわしい近代化を果たしました。その起点は、三河だったのやも。

 天正年間、酒井重忠による城郭拡張に話をも押しますと、この際に土塁は石垣へと強化されるとともに櫓、そして天守閣もこの際に造営されています。なにしろ天正年間、織田信長が没したばかりであり、まだまだ戦国時代に家康は三河の基礎固めの時代ですからね。

 豊臣秀吉の治世下では田中吉政が改めて1590年に三の丸を増強し、また複合式望楼三重方式の天守閣とともに三重櫓と三カ所に二重櫓を備えた重厚な城郭となっています。こののち、関ヶ原の戦いを経て徳川譜代大名本多康俊が勲功の二万石で西尾藩転封となりました。

 西尾城の完成は城下町を囲む総構えの工事を江戸時代に進めまして、明歴時代の西暦1657年に井伊直好が転封12年後に完成させています。こののちは増山家と土井家に三浦家と藩主がかわり、明和元年の西暦1764年より大給松平家の所領となり、明治維新まで続く。

 近衛家邸宅も移築されています西尾城はそれだけ市民憩いの場である事が分ります、この上に更に天守閣も再建しようというのですから愛されようがわかるというものでしょう。街に歴史あり、その町が城下町となりますと城郭の現況が街と歴史の絆の深さのようです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】西尾城(愛知県西尾市)徳川譜代家臣酒井正親の城郭は鎌倉時代からの歴史

2021-11-24 20:00:07 | 旅行記
■紅葉の東三河に西尾の城郭
 本日も二部構成としまして高揚な紅葉に色づく中に浮かぶ城郭の歴史を紹介しましょう。

 平成の大修理、令和時代になり久しい今日このごろですが、旅行というよりは散策という、目的地は観光地ではなくともその周辺で散策する場所を探すという自由な旅情を好む当方としては、下調べせず散策した先が休館や拝観謝絶、平成の大修理が続くと寂しい。

 西尾城。愛知県東三河地方の西尾市にあります城郭です。実はここ、天守閣再建という動きがあるようでして、もう少し散策へ年単位で遅れていましたら、普請中の白い作業用シートに覆われて工作機械の音と輸送車両の振動が響く台無し状態だったのかもしれません。

 鶴城とも鶴ヶ城とも称される城址は名鉄西尾駅から20分、いや25分ほど丘陵地を歩み進めたところにありまして、広大な駐車場が確保されていますので、愛知県はトヨタ自動車の城下町というか自動車主体の町づくりなのだと思われるところ、しかしこちらのお城は。

 鎌倉時代のころ、あまり情報もなしに城郭があるようだから行ってみよう、庭園もある、ということで散策に歩み伸ばしました。なにしろこんな時代、感染対策はマスクと消毒よりも人にないところを目指したい、西尾市のみんなには悪いものの、すいていそうだった。

 足利義氏が三河守護を任じられた際に造営された城郭という。足利氏といいますと、室町幕府の足利尊氏を思い浮かべますが、足利義氏は鎌倉時代に北条家直系の三男として、承久の乱においては鎌倉幕府を支えました、この勲功をもって三河守護を任じられている。

 西尾城は三河守護の拠点として造営されたということですが、12世紀末に造営されたと記録されるものの、詳細な築城は諸説あるといい、しかし当地に武家屋敷の複郭構造という城郭があったのは確かとされ、京都と鎌倉を結ぶ東海道交通の要衝を確保した城郭です。

 櫓もあるのか、と広さに驚くのですが歴史資料館とともに並ぶ様子は当地の歴史の中心にあったということを理解させられます。規模は大きくありませんが、もともとの規模を大事にしていますので変に観光地化されていない、が、ただ駐車場は広い、これは不思議ね。

 城址公園、石垣と堀などは当時のものといいまして、ここに巧みに再現された構造物がおもしろい。歴史在る城郭といいますのは、足利義氏は建長年間の西暦1255年に没しますが、ここを足利家が抑えていたことが、1333年の鎌倉幕府倒幕に際し足利尊氏の助けとなる。

 室町幕府、足利尊氏は関ヶ原を盟友京極氏が抑えるなど、東海道の要衝を抑えていたことが動乱から新しい時代を構築するまでの歴史につながっていますが、しかし、時代が安定しますと西尾城は姿を消します、ただ、遺構は維持され、多少は活用されたようではある。

 酒井重忠、歴史の表舞台に西尾城が輝くのは徳川の譜代家臣酒井正親の嫡男が城郭を大きく広めたためという。現在広い遺構が西尾市の丘陵地帯を構成していますが、当時この一体が西尾城であったといい、江戸時代に西尾藩の中心部を整備することとなりました。

 酒井正親は永禄年間の西暦1561年に徳川家康が今川家から距離を置いた際にここ西尾城を攻撃し落城させています。徳川家康の本拠地は三河の岡崎城、岡崎と西尾は、電車ですとJR東海道本線が遠く、いったん名鉄で名古屋方面の新安城に出るため遠く感じるが、近い。

 城主として家康から西尾城を与えられた酒井正親は、家康に幼少の頃からつき従い、駿府城へ人質として出された際には随行、家康の初陣にも参戦しています。暖かく良い歴史、とおもわれるかもしれませんが、城郭を拡大するには情勢緊迫、相応の理由がありました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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