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【京都幕間旅情】清水寺,平安遷都前に開かれた音羽山滝水際の庵は"いのち"を湛え讃える歴史

2021-11-10 20:01:17 | 写真
■千年前の京都と現代の日本
 清水寺。壮大な寺院は夜間特別拝観として艶やかともいえる朱色の紅葉を際だたせるものなのですけれども。

 清水寺は都が奈良の平城京と長岡京を右往左往していました宝亀年間の西暦778年、当地に造営されました。まもなく平安遷都となり、当地は平安京に隣接する事となりますが、足繁く首都が移ろった背景には、疫病の流行がありました、当時は天然痘の災厄でした。

 延鎮。清水寺の開祖は奈良の子島寺に修行を積んだ僧侶延鎮で、夢のお告げがあり、淀川を遡り美しい滝が朝日に輝く地にいたったという、これが音羽山であり、清水寺が今日に清水と称される背景には、音羽の滝の清冽な流れがそもそもお寺の始まりだった、という。

 COVID-19,日本は本当に巧く対応できたと考えるのですが、これは政府の努力というよりも強権を持たない戦後政治を支えた主権者の視点からは、都市封鎖や強制隔離という措置ではなく主権者としての国民が行動制限の強制を防ぐよう自粛した事が大きいのでしょう。

 夜景とともに何故COVID-19の話題か、と申しますと、そもそもこの地に清水寺が造営されました時代、当地周辺は大変なことになっていたのですが、この歴史をふまえますと、COVID-19が日本ではその再来にならなくて僥倖だった、と感じてしまう故なのですよね。

 命の大切さ。日本は人命を経済に優先しすぎている、と政府のコロナ対策に批判がありましたが、日本は太平洋戦争で人命を粗末にしすぎた歴史がありますので、その真逆があって良いと思う。経済よりも人命優先の姿勢は、幸い10月の総選挙でも国民に支持された。

 命については、この清水寺も実はその繋がりが今日に至る壮大伽藍につながっています。寺院だから当然だろう、とおもわれるかもしれませんが、そうした安易なものではなく、時は延鎮が当地に開いた頃、清水寺がまだ無名の小さな庵であった時代に遡るものです。

 坂上田村麻呂。日本最初の征夷大将軍が、まだ無名の武官であった時代に当地を訪れました、拝観というものではなく当時細君が身ごもっていまして滋養強壮に効くという子鹿の生き血を求めて狩猟に赴いていたのですね、これをみました延鎮は殺生を咎めたという。

 矢は射られたのですが、この矢から子を庇った親鹿に当たったのち、この親鹿も身ごもっていたため、絶命後に子鹿が生まれるという出来事があり、坂上田村麻呂は殺生を強く悔いるとともに延鎮に夫婦そろい延鎮へと帰依することとなった、そんな歴史がありました。

 蝦夷征伐。田村麻呂はその後に朝廷より征夷大将軍に任じられ、多賀城の北まで鎮定に成功します。これは当時としては画期的な勲功であったため、田村麻呂は朝廷から紫辰殿の建物を賜りまして、朝廷はこれを私邸にでもという計らいであったわけですが、これが。

 清水寺は当時まだ無名の寺院ではありましたが、田村麻呂がこの紫辰殿をそのまま延鎮に寄進し移築、これは紛れもなく朝廷の重要な建物が寄進された訳ですので、北観音寺と称され、今日の清水寺の本堂、その最初の本堂となってゆく、始まりは子鹿からの縁という。

 六道。清水寺界隈を散策していますと、六道の辻はじめ歴史的な風葬地が並びまして、これは芥川龍之介の羅生門が示す世界観が、実は日常であったというような時代が連綿と続き、しかも京都では平安朝の頃から定期的に疫病が流行していたという歴史もありました。

 清水寺の歴史を回顧しますと、実はこの京都と疫病の歴史に、清水寺の立地というものは不可分でもあるのですね。それは清水寺の音羽山の山麓、そして鴨川の東側が長らくどのように使われたか、という事と繋がります。COVD-19で一歩間違えれば再来した歴史です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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