北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【土曜特集】榛名から鹿島へ(7)練習艦隊停泊地巡る天保山遊覧船からの情景(2008.03.22)

2021-11-20 20:19:32 | 旅行
■天保山の練習艦隊
 舞鶴から大阪へ、第3護衛隊群護衛艦はるな撮影から練習艦隊旗艦かしま撮影へ巡りました撮影紀行もいよいよ完結です。

 大阪港天保山埠頭には遊覧船が運行されていまして、練習艦隊の埠頭真横を航行します。やはりフネは海上から撮影するに限るということで乗船します。青空はいつの間にか曇天となっていまして、しかし三月に撮影したのですから春の冬景色という情感を醸します。

 天保山は日本が明治維新の先に初の観艦式を明治天皇天覧のもとで挙行した歴史的史跡でもあります。明治元年、参加艦艇は6隻とフランス海軍艦、旗艦は佐賀藩から新生海軍に参加した電流丸で排水量800t、参加艦艇全部合わせて今の練習艦一隻程度という規模だ。

 サンタマリア号。遊覧船の名前はこういう粋なもの、もっとも歴史上有名なものを再現した帆船型の観光船でして、湾内を45分ほどかけて一周します。航路は入港船有無によっては奥のほうまで行く事もありますが、航路が混雑している時は出入港線優先となります。

 日本海から太平洋に、文字通り日本の本州を縦断する形で舞鶴から撮影に移動しているのですけれども、同やら運を使い果たしたようで、曳船が曳航作業をしている様子、艦隊の停泊の様子をしっかりと撮影するには少々時間のかかる作業が続いているようで残念です。

 渡船、天保山には市道扱いの渡船があります、こちらは大阪市が無料で運行しているものでして、全国に渡船は幾つも、呉市音戸渡船は廃止されるとの残念なお話を聞きましたが、渡船はありますが無料で乗船できる渡船となりますと、浅学にしてここしか知りません。

 入港する艦艇が内陸部へ艦首を向けて停泊してくれていますと、この渡船で桜島へ、桜島と云っても鹿児島ではなく大阪の桜島でユニバーサルスタジオジャパンなどがありますが、移動の際に眺めてみるのも一興です、もっとも折角運行してくれている渡船、何かしたい。

 桜島に渡りますとユニバーサルスタジオジャパンを愉しむのも一興かもしれませんが、此処は短時間で回れるようなところではありません、しかしお好み焼き屋さんが桜島にありまして、大阪の味を堪能してみるというのも良いでしょう、ホテルとカフェなんかもある。

 大観覧車。天保山入港鑑定撮影にはもう一つ、大阪を一望する大観覧車に乗ってみるという選択肢もあります、ちょっと気恥ずかしい、と思われる方もいるようですけれども、艦艇だけでなく大阪市を一望できる眺望と云うのは中々絶景です、15分掛け一周くるり廻る。

 摩耶山六甲山に生駒山や金剛山も眺められ、絶景と云うのもそのはず直径実に100mもありますし、1997年の開業当時は世界最大の観覧車でした。その姉妹機種に横浜のコスモクロック21がみなとみらい地区にありまして、支柱なども同型となっています、港の象徴だ。

 こんごう。巡視船に海上自衛隊イージス艦と同じ名前のものがあるのですね、これは考えてみますと通信などで混乱するのかもしれません、もっとも海上保安庁も同じように認識しているようで、最近は重複しない様に命名されているのは幸いです。でもいい名前です。

 海遊館を筆頭に練習艦隊入港の他にも、この天保山は日々日常から楽しめる場所となっています、観覧者の在りますコスモスクウェアには食事できるレストラン街もありますので、ちょっと散策してみるだけでも、この一帯の散策というものは、中々に楽しいものです。

 練習艦隊入港、2019年までは近海練習航海部隊の入港は一般公開もありましてちょっとしたお祭りでした、そして前半で紹介しました通り、舞鶴基地も毎週末に一般公開が行われ、公開艦艇は上甲板見学も出来ました。COVID-19感染拡大前は、こうした日常なのでした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【榛名備防録】アメリカ戦艦無用論,一発轟沈示した陸軍航空隊に海軍は戦艦防空強化で対抗

2021-11-20 14:40:51 | 防衛・安全保障
■戦艦認識変えた1922年の実験
 戦艦無用論、戦前の一つの潮流でしたが日本では海軍が艦隊派閥と航空派閥に割れていた一方、海の向こうでも似たような状況がありました。

 戦艦無用論、驚かれるかもしれませんが戦前ではアメリカでも強い地位にありました、そしてこれを牽引したのはアメリカ陸軍航空隊です、アメリカ海軍航空隊ではなく。日本の場合は戦艦か航空機か、という論争は海軍航空本部と連合艦隊の間での論争でしたが、アメリカでは陸軍と海軍、特に戦前アメリカはモンロー主義、中立政策が国是でした、が。

 ヘルゴラント級戦艦のオストフリースラント、1911年にドイツ帝国海軍が竣工させたド級戦艦です、排水量22800tで30.5cm艦砲を連装砲6基の12門を搭載し主要部装甲は300mm、最高速力は20.5ノットの強力な戦艦です。そしてオストフリースラントはドイツ敗戦後、賠償艦としてアメリカに譲渡され、実験標的艦として1922年、実爆試験に供されました。

 マーチンMB-2爆撃機、初期の大型爆撃機が試験に参加しまして水平爆撃を実施、甲板上に十数発が命中した際には砲塔部分で300mm、艦橋一部が400mmという装甲により損傷は大きくなかったのですが、2000ポンド爆弾を高高度から投下した結果、至近弾となったものがバブルジェットを発生させ船底を破断、浸水の後、撃沈に至ったとのことでした。

 B-17,アメリカ陸軍航空隊はのちに沿岸防衛用にB-17爆撃機を開発します、戦略爆撃機として運用されていますが、もともとは長大なアメリカ大陸に上陸する敵戦力を航空攻撃により撃破する目的で開発され、1941年の真珠湾攻撃直前にハワイ哨戒任務へ本土から回送されていますし、重巡足柄はじめ泊地でB-17爆撃機による水平爆撃で損傷した事例も実際多い。

 戦艦なんて一発だぜ!。1920年代に実験とはいえ、航空機により2万t級の戦艦を撃沈できたことはアメリカ陸軍航空隊を大いに勢いづけるものとなりましたが、この問題を真剣に直視したのが、日本海軍と、そして当然ですがアメリカ海軍でした。日本海軍は航空本部長就任前の山本五十六がこの試験に関する公開情報や派米留学により情報を得ており、航空重視を進めています。

 簡単に沈められてたまるか。アメリカ海軍も、このまま陸軍を勢いづかせれば政治的に戦艦が廃されかねないとの危機感を受けますが、同時にアメリカ海軍が研究を開始したのは、艦隊防空を戦闘機など開発を通じ進めるとともに、艦艇の防空能力の強化を進める、というものでした。実際、アメリカの戦艦は作戦行動中、第二次大戦中含め航空攻撃に耐えています。何故か。

 要するに飛行機は全部撃ち落せばよい。アメリカはワシントン海軍軍縮条約明けの戦艦について、戦艦の脅威となる駆逐艦の魚雷攻撃を撃退すべく搭載される副砲を廃止し、駆逐艦の艦砲をそのまま搭載する、少し思い切った改変を行っています。当時既に両用砲であった艦砲は高角砲として使用できますし、また、レーダーが実用化される前から射撃統制装置への将来応用を研究しているのですね。

 草創期からの技術開発は効をそうし、第二次大戦中に実用化したものは凄いものでした。XバンドレーダーMk35により捕捉した目標を艦内に配置されたMk42射撃統制装置に自動電送し、ジャイロスコープにより得られた目標速力を入力、3秒で目標の未来位置に向けて対空戦闘を実施するシステム開発に着手、完成は終戦に間に合いませんでしたが。現代での艦隊防空システムへ繋がります。

 1941年にはアメリカがイギリスの巡洋艦デリーを近代化改修した際、Mk37射撃統制装置2基と連動した5インチ砲5門を搭載し、つまり海外へ提供できる水準に達しており、完成度の高さにイギリス海軍関係者が驚いたという一幕がありました。航空優位の可能性を突きつけられた際、日本は海軍部内が割れて足を引っ張り合いましたが、アメリカは純粋に海軍一体で対空戦闘能力強化に突き進んだのですね。

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