北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【土曜特集】横須賀いせ-しらぬい寄港の春,艦艇日記【8】横須賀基地を一望(2019-04-14)

2021-11-06 20:00:35 | 日記
■いせ望む横須賀の高台散歩道
 横須賀は坂の街ですが坂道というものは辿りますと眺望が一歩一歩開けてゆくようで趣き深い。

 あまぎり。俯瞰風景という程ではありませんが標高高い立地から。もともと衣笠城という城郭がこの一帯には在りまして、源頼義が1062年に三浦平大夫為通に築城を命じた、源平合戦前の源氏の一大拠点が三浦半島山間部にありました、鎌倉街道の源流はここにある。

 しらぬい、きりしま、そして護衛艦がもう多数。衣笠城は支城として豆師、この地名は今の逗子に繋がるのですが、栗浜、いまの久里浜だ、大和田、横須賀に支城を築城しまして、いわば鎌倉幕府のもととなる源氏の拠点は山城の複郭陣地により成立っていたのですね。

 いせ、巨大さが際立つ。鎌倉時代、東関紀行によれば朝廷の置かれる京都と幕府が置かれた鎌倉とは街道が整備されますが、街道は鎌倉が終着地であり東国への街道とは繋がっていません、これが過度に攻撃を恐れ防御都市鎌倉を形成した際の交通遮断の理念にたつ。

 逸見桟橋全景、いせ、しらぬい、あまぎり、きりしま、はるさめ、はたかぜ、むらさめ、てるづき、たかなみ、おおなみ、一望に。鎌倉への街道は大磯、酒匂、湯本、と続くのですが鎌倉街道は京都と結ぶ街道に繋がらず、いわば鎌倉への裏街道は秘匿されていました。

 あさひ型、あきづき型の上部構造物相違が少し俯瞰できる。鎌倉時代に横浜はまだ無く久良岐とよばれていましてここから称名寺と金沢、いまの金沢文庫駅付近、六浦と三浦半島の境界線を構成していました、故に此処に細い街道が通ったのですが、未だ歩道に留まる。

 カーティスウィルバー、バリー、マスティン、ベンフォールド、そして次の遊覧船が出航してゆく。昔の鎌倉の地形は由比ヶ浜の沿岸部から扇谷の雪ノ下までが鎌倉時代の市域であり由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に至る大路が当時の官庁街としての機能を有していました。

 いせ、ときわ、いずも。今の横須賀とそして衣笠城とは六浦道を経て朝比奈切通へ至る経路、乱橋材木座から今の横須賀線当りに在った名越谷を経ての名越切通、そして三浦半島中央部を通る小坪切通というものがあり、三浦三十八地蔵尊というものが結んでいます。

 いずも。なんというか100-400mmIS2レンズを持って行けばよかったか、三十八地蔵尊興味はあるが、1番札所大松寺,2番札所大善寺,3番札所満昌寺,4番札所満願寺,5番札所正業寺,6番札所長安寺,7番札所伝福寺,8番札所最宝寺,9番札所十劫寺,10番札所三樹院,と続く。

 はたかぜ、むらさめ、てるづき、たかなみ、おおなみ。札所は11番札所永楽寺,12番札所福寿寺,13番札所福泉寺,14番札所真浄院,15番札所 本瑞寺,16番札所西浜地蔵堂,17番札所天養院,18番札所正住寺,19番札所浄楽寺,20番札所正行院,21番札所西徳寺,と続きまして。

 22番札所万福寺,23番札所相福寺,24番札所延命寺,25番札所海宝院,26番札所能永寺,27番札所信楽寺,28番貞昌寺,29番札所浄林寺,30番札所大泉寺,31番札所能満寺,32番札所常福寺,33番札所東福寺,34番札所常福寺,35番札所東林寺,36番札所円福寺,37番札所海応寺,と。

 ロナルドレーガンを望見する。三十八地蔵尊という名の通り鎌倉時代前の平安朝の頃より歴史がある街並みと云いますか秘密の街道まちが広がっていた三浦半島を地蔵尊が結んでいるのですね。横須賀軍港の散策に併せ、成程こうした深い歴史も見てゆきたいところ。

 いずも沖合を眺めつつ、艦艇日記を完了しました。横須賀線車窓から始まりヴェルニー公園散策と横須賀軍港めぐり遊覧船、そして横須賀の三浦半島街道を往く一日、実はこの後グルメと酒場巡りに休みの日を捻出出来た際には、こうした過ごし方は趣き深いものです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【榛名備防録】ボフォース40mm,大口径機関砲国産化出来なかった大戦中の日本興業技術力

2021-11-06 14:18:55 | 防衛・安全保障
■艦艇防空能力の一視点
 第二次大戦中の著作権法上と北大路機関内規上使える写真が手元にない為に自衛隊写真と共に。

 日本海軍の艦艇が航空攻撃に脆弱性をもっていた、戦艦大和など海軍艦艇は世界最強、と誤解されている方がいるようですが、現実的には日本海軍は駆逐艦が水雷戦闘において秀でた性能を有していたものの当時、水測装備の未発達により対潜戦闘が不得手でしたし、潜水艦は性能は高くとも量産性が非常に悪いものとなっていました。さてこの中でも一つ。

 機関砲、いまでこそ日本の製鉄技術は世界一の技術力を維持できていますが、第二次世界大戦時代はもちろん、戦間期の時代には装甲板となる鋼板の一部を輸入するなど、まだまだ八幡製鉄所をはじめとする技術に後れをとっていました、製鉄以外にも、アルミニウム製錬技術が定着するまでにも時間を要していまして、ここに兵器製造上の問題が生じる。

 ボフォース40mm機関砲、スウェーデンのボフォース社が開発した機関砲ですが、日本海軍には九六式25mm機銃と10cm高角砲といった防空火器が艦載兵器として開発されていますが、航空機の武装にロケット弾などがくわわりますと、25mm機関砲では発射前に命中させるには射程が短く、高角砲は連射性能が限られ、航空機を有効に迎撃ができません。

 アメリカ海軍では12.7mm艦砲と40mm機関砲、そしてエリコン20mm機関砲と三段階の防空を第二次世界大戦中の基本的防空能力としていました、日本もボフォース40mm機関砲を太平洋戦争緒戦にインドシナやマレーで鹵獲していますが、この国産化は日本の技術限界を越えており、ようやく実現した五式機関砲が制式化された際には末期でした。

 ヴィッカース40mm機関砲を毘式機関砲として国産化していましたが、連射速度も初速も遅く信頼性が低く射程は1600mしかありませんでした、そこでホチキス社からライセンスを取得し九六式25mm機銃を導入、その射程は2500mあり、これが日本の標準対空機銃となっています。ただボフォース40mmならば射程は6800m、まさに段違いだったという。

 駆逐艦の艦砲になりますと状況は深刻です。戦艦や重巡洋艦には八九式12.7cm連装高角砲が搭載、装填時に時限信管半自動調定装置を有するなど優れた性能を有していましたが、駆逐艦の艦砲は12.7cm連装砲ではありましたが、高角砲ではなく、いちおう角度は時代とともに高角を狙えるよう改良されますが、対空照準器はなく高角砲ではありませんでした。

 日本海軍では実は1932年に両用砲という高角砲としての性能を有する艦砲を駆逐艦に搭載し巡洋艦以上の12.7cm艦砲と駆逐艦の艦砲をともに統合する案が検討されています、これが実現していたならば太平洋戦争における日本海軍駆逐艦は米軍機の攻撃にかなり有効に反撃できた可能性はあります、実現すれば25mm機銃数基だけより遙かに強力なのは確か。

 しかし、いったんは統合で決定するのですが、日本海軍の艦艇設計を担う平賀譲造船中将の頑強な反対に見舞われ白紙撤回しています。平賀中将は5500t級軽巡洋艦の武装を3500t軽巡洋艦に搭載しつつ復元性や航行能力を向上させ世界を驚かせた夕張、ロンドン条約の遠因となった世界初の重巡洋艦古鷹、重巡妙高型の設計などで知られる造船の巨人です。

 駆逐艦のさらなる大型化による能力低下を危惧したためともいわれますが、戦艦は冶金技術の稚拙さから大口径機関砲国産化に手間取ったため、駆逐艦は両用砲開発の機会を逸したため、という理由から、対空戦闘能力に限界を抱えていたことは事実です。またこれに加えて、艦艇対空戦闘のシステム化、という概念でもアメリカに後れをとっていました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする