北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】等持院,秋空に紅葉季節はじまる衣笠山ふもとに歴史と静けさの伽藍と庭園

2021-11-17 20:21:55 | 写真
■室町将軍見守る静けさの寺院
 紅葉の季節が始りました。こんな時代ですから静けさは極まる最中ではありますが街中には活気と喧騒が戻りつつがあるところ。しかしここだけは。

 等持院。京福電鉄北野線沿線の、北野白梅町からもほど近い静かな住宅街、しかし大きな立命館大学に隣接した立地に、佇むという表現はこのためにあるのだろうなあ、という住宅街と大学の狭間にとても賑やかさの狭間の静かな空気の中に、鎮座しています寺院です。

 萬年山等持院、衣笠山の麓は京都市北区等持院北町、幕末の動乱、これは明治の頃ではなくその遥か前、鎌倉幕府を打ち倒し圧政の色彩を帯び始めた建武の親政をも排し室町幕府を開府した足利尊氏が別院北等持寺をひらいたのは康永2年こと西暦1343年のことでした。

 夢窓疎石を開山として招きました尊氏は戒名としまして等持の名を冠していまして、これが等持院の由来という。別院北等持寺というのは先んじて洛中に等持寺が造営されていたためですが、尊氏は望んで没後の安寧の地を衣笠山の麓としており、将軍の菩提寺となる。

 室町将軍の菩提寺、こうした歴史を持ちます等持院は、ともすれば拝観さえ謝絶しているのではないかという静けさの中に鎮座する立地とを併せて、大きな歴史を湛える寺院とは拍子抜けする、そんな伽藍が静かに並びます。ここは街寺であるとともに歴史があります。

 拝観料を納めて、そして靴を棚に収めてからしんとする木の床上に歩み進めますと、まず高い天井とその奥に庭園とがありまして、庭園は石庭と、そして小さな回遊式庭園とが左右に分かれています。ただ、ここは庭園を楽しむための伽藍ではないのかもしれない。

 衣笠山の麓、きぬかけの路と親しまれる一角に大学を挟んで在ります東福寺は、前述の通り室町将軍の菩提寺なのですが、庭園を楽しむのであれば北山殿、三代将軍足利義満が造営した庭園があり、これは金閣とともに鹿苑寺として長らく当地にあり、ここが最適だ。

 等持院の庭園は良い、観光客は少なく、すぐ近くの龍安寺や仁和寺、金閣寺のけんそうが異世界の事のように思えてきますほどに、静かではある。これほどの庭園を心地よく眺める、いや永めるという表現の方が相応しいでしょうか、その時間の移ろいは、ここちよい。

 室町将軍の菩提寺といいますので、霊光殿を中心として南には石庭、北には衣笠山を借景とした回遊式庭園が造営されており、これは霊廟ありきの立地なのだなあ、とも感慨深くおもうものです。そしてこれは趣の好みなのでしょうか、庭園には毛氈と座布団が並ぶ。

 石庭にはほんのりと紅葉の気配が、しかし南に面した縁側故に暖かい日差しが、そういえば夏も終わったのだなあと感じて少し経つことを思い出させるほどにまだ暑さの記憶も鮮明であるために、もう紅葉なのかと、逆に新鮮に、そして一年の流れの速さを感じます。

 庭園史上を少し調べますと、そもそも石庭とは寝殿造を中心とした回遊式庭園には不可欠な水の利というものに庭園造営の立地が阻まれることをよしとせず、水に代えて白砂を敷き詰め波紋を再現したことがその始まりです、すると回遊式庭園との隣接は不思議に思う。

 芙蓉池、池泉回遊式庭園という趣きを湛えていますがこちらは京都市指定名勝に指定されています。そしてもう一つ東側の池は心字池といいましてこちらも京都市指定名勝、夢窓疎石により作庭されたという。その東西庭園を分けていますのは、足利尊氏の墓標という。

 平安朝のころの草創期の石庭と一風気風を代えて、いわば水の利を得られる中にも石庭を造営した背景には、音を排した庭園、代用品としての石庭ではなく哲学としての無音を醸す思慮があったのではないか、これは石庭面する霊光殿の、しんとした、静けさに現れる。

 歴代将軍座像。室町時代の歴史を省みますと、日本史における武家政権は幕府のかたちをとった鎌倉と室町に江戸とありますが、室町は鎌倉幕府滅亡後の繋ぎ的な施策の失敗を受け暫定的に構築した制度枠組みが、しかし内政安定唯一の基礎となった故の波乱があった。

 哲学としての無音、この背景には霊光殿の将軍座像、睨むように座す、または憂うように視線を泳がせる、果ては満足げに拝観者を出迎える、歴代将軍の印象、庭園が音を通じて不可思議な心証を与えないようにとも配慮にも思えます、そう足元の軋みさえ此処は響く。

 平成の大修理、等持院は2020年にその工事を完了させました。工事の最中には石庭がみられない、庭園を巡れない、などなどありましたものの拝観料が値引きされ、そして等持院は出会ってしまったかのような偶然で拝観に歩み進める方も多く、結構賑わっていたよう。

 回遊式庭園へ。霊光殿をゆっくり周り、平成の大修理により真新しくなりました手すりや床とを歩みすすめ、至りますと、石庭よりは狭く感じるのですけれども、美しい庭、こう感じられる緑と岩と木々に茶室が広がりまして、茶室は一段高く散歩さえ楽しめる経路だ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】真如堂,最澄に師事の円仁"うなずきの弥陀"は御十夜法要経て一日の御開帳

2021-11-17 20:00:19 | 写真
■秋の京彩る紅葉景色とともに
 本日は秋を彩る美しい紅葉の季節ゆえの真如堂ともう一つを巡る二部構成としましょう。

 三重塔が紅葉に浮かぶ、ここまで美しかったかと息を呑む瞬間です。ここは真正極楽寺、真如堂として親しまれる京都市左京区浄土寺真如町の御寺だ。少し小高い金戒光明寺に隣接した寺域には洛陽三十三所観音霊場第5番札所の新長谷寺が鎮座し、静けさに浮かぶ。

 真如堂。十一月となりますと紅葉の季節、ということも確かなのですが、洛中が高雄や鞍馬のあたりから徐々に冬支度の椛や楓と銀杏に桜の木々が紅く色づくそのころというのが、ここ真如堂ではちょうど一年に一度だけ、御本尊、その御開帳を迎える日でもあります。

 うなずきの弥陀。真如堂の御本尊は最澄の弟子、円仁が開山となりました際の伝承が説話的で興味深い。円仁も師事した最澄、その道程を辿り仁明天皇の命を受け承和年間の西暦838年、遣唐使に留学生として参加します、なおここでいう留学生は"るがくせい"と読む。

 円仁は中国の五台山にある寺院に臨み、ここで文殊菩薩の光臨をみたといい、浄土念仏の教えを授けられたという。真如堂の御本尊は、この際に円仁が自ら彫像しました阿弥陀仏像とされています。日本仏教は超人的な空海と努力の巨人最澄が一時代を築いたものです。

 最澄に師事した円仁が開いたお堂は、天台宗の寺院となりましたが天台宗は国家鎮護と仏教の二つの願いとともに広がる宗派であり大衆に分け入る宗派とは距離を置き、これは天台宗総本山、比叡山延暦寺が示すように荘厳重厚な本堂に象徴されている国のお寺でした。

 文殊菩薩の光臨、この際に円仁が彫像しましたいまの御本尊は、仏師ではない僧侶が自ら彫像したものでありますが、仏像は真如堂開山前の承和年間は西暦847年に日本へ帰国しますと、比叡山延暦寺の常行三昧堂、その御本尊として安置されいる仏像の胎内にある。

 天台宗は、国家鎮護という国の願いと、しかし仏教の本旨である万民の救済の中間にあります寺院です。故に国家鎮護よりも万民安寧あってこその国家だとの認識から多くの宗派が別れ、恰も東京大学が官僚養成校でありながら人材を人財として社会に供給するよう。

 円仁も、やはりこの視点に考えさせられたようで、持仏を胎内に納める阿弥陀仏像を帰国後に彫像する際、衆生を救うために比叡山を降りて衆生の中で教えを広めたい、こう閃いたその瞬間に目の前に、阿弥陀仏像がこう、頷いた、そのように見えたというのですね。

 うなずきの弥陀。御本尊はこうして一時は延暦寺の常行三昧堂に御本尊として安置されましたが、円仁は延暦寺の僧侶として、しかし参拝者を通じて、世界観を説いてゆくこととなります。そして円仁は生涯比叡山に在りましたが、百年ほど時代が過ぎることとなる。

 戒算。真如堂の開山は比叡山の僧侶戒算でした、既に百余年にわたりうなづき弥陀として崇敬された仏像を洛中へ、戒算は夢のお告げを受けたといいまして、これを受け御本尊は遂に比叡山を下りまして、一条天皇の母堂東三条離宮に納められることとなりました。

 女人救済、永観2年こと西暦984年、うなづきの弥陀はこうして新しく造営されました真如堂へ納められることとなります。ただ、応仁の乱では金戒光明寺へ疎開し、本堂再建まで更に大津は穴太に疎開、今出川に再建されたお堂も豊臣秀吉京都大改造で移転します。

 宝永年間の西暦1705年、幾多の火災と移転を経て当地に真如堂が再建されるうこととなりまして、そして十一月は御十夜法要の最後の日、11月15日に一年に一度の御開帳を迎えます。当方拝観の日は御十夜法要の最中、初冬の寒さの中に一種静謐な空気が、ありました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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