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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】伊賀上野城(三重県伊賀市)藤堂高虎五層天守閣の夢と平時の行政拠点津城への道

2023-07-05 20:22:18 | 旅行記
■藤堂高虎という人物へ
 忍者の街として知られる伊賀市ですが、その城下町の街づくりの基礎を確たるものとした武将は藤堂高虎そのひとでしょう。

 藤堂高虎、豪放磊落のようで緻密な人物だったらしい。近江国犬上郡藤堂村生まれ、つまり滋賀県甲良郡で、しかし主君は転々となっていた。近江国の浅井長政に仕え姉川の戦いでは初陣を果たし勲功から浅井長政より脇差と感状を賜る、しかし浅井氏はのちに。

 小谷城の戦いで浅井氏は織田信長により滅ぼされると浪人となる、有能であったために織田信澄に取り立てられ佐和山城に入るが人間関係で長続きしなかったようです。その運命を変えたというのは羽柴秀長、豊臣秀吉の弟との出会いであったところが大きい。

 羽柴秀長のもとで武者働きに邁進し但馬では竹田城奇襲で勲功を挙げ、足軽大将に任じられます、三木合戦と古城山一揆衆攻めでも勲功を挙げ、まあこの辺りは兵庫県にたくさん友人がいるのであまり書き立てることはしないのですが但馬小代一揆平定で鉄砲大将に。

 小牧長久手の戦いにも参陣しましたが、この頃から猿岡山城と和歌山城の築城で普請奉行を務め、築城工学に経験を積みます。聚楽第の改修では特に関白豊臣秀吉に謁見する徳川家康を迎える御座所普請を任され、徳川家康に防備第一の御座所造営を褒められた。

 熊野赤木城造営とともに叛乱者への厳しい処罰でおそれられながら、根白坂の戦いでは九州島津に恐れることなく戦った勲功で豊臣秀吉より大名に取り立てられ、後に悲しい歴史を経て豊臣秀長が没すると一時は高野山に出家しますが、説得を受け環俗する。

 漆川梁海戦と鳴梁海戦では朝鮮水軍を殲滅するという、日本の武将としては海戦に秀でた才能を有していますが、実はこの時、伊予国板島を所領としていて瀬戸内の海上交通にも秀でており、この知識と経験が海戦に活かされたという、なかなか驚きが尽きません。

 関ケ原の戦いでは東軍の一員として、会津征伐にも出征するも家康とともに直ぐに関ケ原に転進し大谷吉継と正面から戦う一方で留守中を狙った毛利輝元の四国出兵をも撃退し宇和島城8万石に加え今治城12万石が加増される。ここで城郭の重要性を改めて。

 層塔型天守、従来の天守閣は戦闘用ではなく示威用のもので城主の展望台的な望楼型天守が造営されていました、しかしこれは地震と台風に弱く、故に盛んに倒壊し天守閣はその都度再建される一種の消耗品でした、藤堂高虎は層塔型天守というものを発案する。

 伊賀上野城に至るまでの歴史で長くなりましたが、層塔型天守を持つ城郭として伊賀上野城を作り直します。当初は今治城の天守閣を遥々運ぶ計画でしたが丹波亀山城で使う事となり断念、改めて五層天守閣を造営します、が、重すぎたらしい。悲劇が起こる。

 五層天守閣造営中の慶長17年こと1612年に台風が襲来し天守閣三層目が圧壊、大工ら百数十名を巻き込んで倒壊します。気を取り直して再建に臨むさなかに元和元年こと1615年に大坂の陣で大坂城が落城し豊臣家が滅亡、結果的に天守閣は不要となりました。

 津城、藤堂高虎は伊賀上野城から平時の行政拠点に相応しい津城を藩庁とし、一国一城令の時代ではありますから弟の藤堂高清を城代としたうえで伊賀国の城として存続、実に明治時代まで、藤堂氏の居城として維持、版籍奉還後に破却された、と歴史は続く。

 高石垣、建物の多くは破壊されていますが高石垣は藤堂高虎の時代から残り、戦前の昭和10年に衆議院議員川崎克が私財を以て天守閣を木造復元します。高石垣を最後に真下から眺めたかったのですが、伊賀鉄道は列車本数が少ない、また来よう、帰路に就いた。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】伊賀上野城(三重県伊賀市)藤堂高虎が打ちこんだ楔!そして自衛隊師団配置との重なり

2023-07-05 20:00:18 | 旅行記
■藤堂高虎の城郭へ
 令和時代を迎えて五年を経た日本ですが日本史を見ますと実は今の制度に数百年前の制度が影響を及ぼしているのではと考えさせられる事も、実は多い。

 伊賀上野城、江戸時代に最も広く整備された城郭の面影は残念ながら当時の建築物がほとんど残らず、残っているものも実は高校の校舎に隣接しているなど近現代的な建築物に重れ、今威容を轟かせているのは再建の建築物ばかり、という現実があります。

 藤堂高虎、江戸時代に徳川家康より伊賀の地を任されたのは築城の名手藤堂高虎その人なのですが、しかし、遺構がのこっていない城郭をいまここまで壮大に再建天守閣を筆頭に広げているのは何か、それは領民に愛された城下町という郷土愛を育んだ故でしょう。

 伊予宇和島城、現存中に天守閣の一つですが、藤堂高虎は筒井騒動により前の城主で伊賀藩主筒井定次が排除された際、宇和島藩主という瀬戸内の交通要衝を守る地位にありました。このころ、関ケ原の戦い以降も西国大名の豊臣家への忠誠は意外なほどに高かった。

 関ケ原の戦い、そもそも西軍は毛利輝元が総大将であるはずが現場にいないために石田三成が、そもそも石田三成を中心とした指揮系統が明確でないまま東軍の徳川家康による統一戦闘加入の指揮系統に敗北した構図があります、ただ、西軍の総大将は残った。

 西国監視という徳川家康の関心事は、この頃に城郭造営を見ていますとまるで新興宗教ならぬ侵攻宗教という今の自衛隊の防衛計画を彷彿とさせるような、経路ごとの防衛計画と城郭の配置、親藩譜代大名の配置を行っています。ただ、少し考えてしまうのだ。

 現代日本の防衛計画、自衛隊の師団配置の原型は江戸時代初期の譜代大名と親藩の配置を彷彿とさせるものではないのか、基盤的防衛力整備という全国に均一の防衛力を展開させ、しかしそれにより機動運用ができない装備体系、その原型を江戸時代に見てしまう。

 基盤的防衛力、日本の道路事情と自衛隊の機動力の低さ、近年は冷戦時代に重視されていた空中機動部隊の大幅な削減と2011年の東日本大震災の頃と比較しても半減しているヘリコプターを見ますと、地域ごとに張り付けるのは部隊が動けないためと納得するのだが。

 総合近代化旅団に即応機動連隊を加えた第11旅団型の戦車大隊も特科隊も持つ編成の旅団を11個全国に配置し、3個旅団を以て一個師団を編成し、旧中央即応集団と合わせて高度に機械化された4個師団に集約し機動運用に充てた方が、現状より良いのではないか。

 定数の少ない師団よりも総合近代化旅団ならば定員は3700名、11個併せても四万強の定員で済む、旅団普通科連隊はマンパワー不足が否めないが連隊で重要なのか災害派遣などの窓口に当たり防衛計画と自治体を結ぶ連隊区の意味合いが実のところ大きい。

 普通科連隊は、現状の募集難を考えればいっそ即応予備自衛官の中隊を一つつけて待機部隊とした方がよい、浮いた人員を地対艦ミサイル部隊に充て、政府が戦闘ヘリコプターを陳腐化したというならば陸上自衛隊がF-35Bを運用すればよい、話が大分逸れた。

 藤堂高虎を伊賀上野城主に据えたのは西国大名のなかでも紀伊半島周辺の豪族を含めた警戒監視の意味合いが大きく、その為に交通の要衝である伊賀上野は重要視された、そしてなにより、豊臣方との決戦を念頭に兵站中継点という意味合いも求められたかたち。

 天下普請、戦略的な重要性から江戸時代の国家プロジェクトを意味する天下普請により造営されることとなり、豊臣政権時代の三層天守閣よりも壮大な城郭が造営されてゆくこととなります。それは一国一城令時代、藤堂高虎の築城総決算といえるものでした。

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ウクライナ情勢-反攻作戦投入AMX-10RC装甲偵察車の課題と先月撃破されたレオパルド2主力戦車の回収

2023-07-05 07:01:27 | 先端軍事テクノロジー
■臨時情報-ウクライナ情勢
 AMX-10RCというのは操行系統は違いますが要するに87式偵察警戒車に105mm低圧砲を積んだようなものです。

 れています。AMX-10RCは105mm低圧砲を搭載した装輪装甲車で1973年に開発、装甲は薄いアルミ製ですが水陸両用性能を有し、フランス軍では軽戦車連隊に70両以上を集中配備し、威力偵察などに活用していますが、実際問題装甲は薄い。

 第一線運用を行っているのはウクライナ海軍歩兵第37海兵旅団、フランス軍からのAMX-10RCの供与数は多くないものの監視任務に活用しており、装甲防御の低さと装軌式装甲車AMX-10Pの駆動系を応用した事による整備性の難しさが課題として挙げられ、これはフランス軍でも指摘されています。他方、監視器材の性能は高い水準とされています。

 AMX-10RCは近代化改修を繰り返し、特に追加装甲の装着により水陸両用能力を断念する程に防御力を強化しているのですが、やはり対戦車火器の命中に対して脆弱性は否めなかった、ウクライナ軍では破壊された際に弾薬に誘爆し乗員全員が戦死するという厳しい結果も生じています。もっともフランス軍では偵察用で前線突破任務にはあてていません。
■ウクライナ軍レオパルド2
 衝撃の撃破映像公開から間もなく一ヶ月ですが次の撃破情報が出ない以上はウクライナ軍は上手く運用しているのでしょう。

 ウクライナ軍レオパルド2が撃破された6月11日の戦闘ですが、ロシア軍は結局レオパルド2を鹵獲できなかったことが破壊された車両の回収により明らかになりました。防御力の高いレオパルド2A6と思われる車両が地雷原に阻まれ前進できない状態で戦闘ヘリコプターや徘徊式弾薬の攻撃を受け複数が破壊されたのは衝撃的ではありましたが。

 ブラッドレイ装甲戦闘車も同じ日の戦闘で撃破され、ロシア軍兵士による記念写真などが撮影される様子がロシア軍後方により発表されていましたが、懸念されたのは西側の新鋭戦車であるレオパルド2が鹵獲されたのか、ということでした。しかしブラッドレイ装甲戦闘車ともども回収できたという事は最前線で戦車回収車が行動できた事になります。

 他方で、ロシア軍は対戦車地雷を効果的に使用しており、冷戦時代に想定されたソ連軍対戦車地雷密度と比較し今回は数カ月間のロシア軍防御体制構築の猶予を与えた為にその地雷原処理の難しさが課題となっています。通常こうした状況では戦闘ヘリコプターにより後方を叩くのですが、現在ウクライナ軍にはこうした航空戦力の余裕がありません。

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