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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】相国寺,相国元々のその意味と足利直義と夢窓疎石の対談"夢中問答集"の世界が至った禅の世界

2023-07-12 20:22:42 | 写真
■春屋妙葩と夢窓疎石
 学校教育の日本史では小国いという名前は出てきてもそもそもそれがどういった意味なのかまでは踏み込まない故にほう、と実際の拝観の際には驚きが有る。

 相国寺の相国とは、そもそも論となるのですが足利義満は禅寺を望んだもののその名を悩んだという、その際に禅の師である春屋妙葩は、大陸では左大臣に当たる官職を相国とする故に相国寺としてはどうか、と提案し受け入れられた実に政治的な寺院なのでした。

 夢窓疎石を開山に招いた相国寺、ここを散策の際に拝観しました背景には地下鉄今出川駅からの近さを挙げましたが、そしてもう一つ、ものすごい日本史における焦点の一つを為している寺院であり、伽藍も見事なのに対して何故か修学旅行生も観光客も少ない。

 金閣寺や銀閣寺に観光客や修学旅行生は行ってしまうよ、こう返されるかもしれないけれども、実は鹿苑寺と慈照寺、つまり金閣寺と銀閣寺はここ相国寺の塔頭寺院の一つでしかなく、落ち着いて伽藍の大きさを見れば相国寺法堂の方がはるかに巨大だと気付く。

 春屋妙葩、足利義満が禅の師と仰ぐ高僧が相国寺の名を提案したのは前述の通り、開祖に足利義満は春屋妙葩を望んだということですが春屋妙葩自身がその師たる夢窓疎石の開山を望み、二代住職ならば引き受けるとし、寺院は造営は始まる、建設は意外に長引く。

 禅寺がここまで大きくなるというのは少し不思議だと考える背景はまさにここにあり、しかし伽藍を大きくすることで長引いた工期により、実は春屋妙葩はこの相国寺の完成を見ることなくこの世を去っていますが、その壮大さ故、今日にも活況を残すのでしょう。

 禅寺を拝観しますと驚くほどに夢窓疎石の名と親しむことになりますが、夢窓疎石は臨済宗の禅に天台宗や真言宗と親和を重んじた新しい禅宗の広がりを試み、これが調和を生むという事から武家にも公家にも崇敬を集め、一種日本の価値観の一つを育みます。

 夢中問答集という足利尊氏の実弟足利直義と夢窓疎石の対談集などが記されていまして、もっとも足利直義は最後、非常に残念なこととはなりますがこうした中間となる人物を介して、いわば権力者の価値観へも影響を及ぼしていたのが、中世の日本でした。

 無畏堂とも呼ばれる法堂、相国寺は幾度も火災に見舞われ、実は最初の相国時は完工から三年ほどで失火により全焼、足利義満もその火災の様子を目の当たりにしており、実に落胆した様子が当時の伝承に伝わるのですが、改めて七重塔などを含め再建します。

 蟠龍図という龍が天井から見守る現在の法堂は慶長10年こと西暦1605年に豊臣秀頼が寄進したもので、なるほど花の御所とそして御霊神社にほど近く、いや中世の時代には寺域が隣接していたという。故にその地で勃発した応仁の乱で最初に焼け落ちている。

 鳴き龍という、堂宇の中心で柏手を叩けば幾度か共鳴するという法堂の天井絵は狩野光信の手によるものなのですが、同時にここは釈迦如来坐像と脇持の阿難尊者像という運慶彫像の仏像が奉じられた本堂であり、実はいま仏殿や本堂がないことを示しています。

 三門と仏殿は応仁の乱において焼失してしまい、とうとう再建されずに今に至るという。それではいつ再建するのか、と問われますと明治の廃仏毀釈に際して寺域が格段に狭くなり、同志社大学や同志社女子、一時は京都第一高女や鴨沂高校も跡地に建設されている。

 仏殿はいまの法堂よりもはるかに大きく、また堂々たる山門が御所の北辺に在ったことを再建することが叶えば浪漫を感じるものなのですが、それは同志社大学が全部京田辺に移転でもしなければ不可能という、こうして変わりゆく京都を見る寺院なのでしょうね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】相国寺,京都五山二位の寺院-足利義満は左大臣と征夷大将軍の先に見た仏教世界の夢

2023-07-12 20:00:33 | 写真
■暑い梅雨時の拝観
 京都御所と同志社大学とともに一つの壮大な寺院が佇んでいます。このお寺は権力と野望によりはじまりしかし芸術と文学により令和の今日に至る寺院でもある。

 相国寺。梅雨入りの季節、雨の気配が常に付きまとう中で、しかし気分転換にとカメラを手に散策へ出ました。傘を持っていけば云々という指摘はあるのかもしれないけれども、こういう気ままな散策の際には身軽に行きたい、なにしろカメラだけで重いのだから。

 上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町。いまなぜ相国寺なのかというと、それはお寺の方には申し訳ないけれども、その歴史に興味があることと、なにより地下鉄今出川駅からお寺が非常に近いのと、地下鉄と同志社大学が地下で繋がり、雨の日少々助かる故という。

 京都散歩、雨の日も実は楽しめるといいますか興味深い寺院は数多存在するといいますか、実は雨の日だからこそ大気に満ちた雨滴が騒音雑音喧噪をかき消し、しとしとと確かに雨音という音には満ちているものの単調な、醸し出すような静寂を生むのは面白い。

 京都五山二位、曇天が雨粒に衣替えしないようにふと空を見上げるけれどももう少し時間はありそうだ、そうして禅寺の格式では五山に並ぶ相国寺の格式ある広い寺域を法堂の方へと歩み進めてゆきます。最盛期は更に広かったというけれども今も創大そのもの。

 水上勉氏、作家の水上勉氏が亡くなって間もなく20年となります、飢餓海峡という、これはあの宮本武蔵五部作でメガホンをとった内田吐夢監督の作品という事で映像作品から知ったものなのですが、いくつかの映画作品でも知られる作家の方、大作家の方です。

 湖の琴という作品は、戦前の戦争映画では最も考えさせられる作品である土と兵隊を撮った田坂具隆監督がメガホンをとったといいまして、水上勉に水上勉と水上勉かあ、と決して文学好きではない当方も名前だけは知っていたという作家の方なのですがここでは。

 昭和、今から百年近く前に幼少の水上勉は家庭の貧困もあり福井県大飯から相国寺塔頭の小僧として引き取られ、厳しいというよりも当時理解できない修業に苦しみ、その出奔までは独特の文学世界を生んだという、そういった意味で文学の寺院ともいえるところ。

 足利義満、この寺院を開山から数百年を経ても壮大たらしめているのは、室町幕府第3代将軍足利義満その人が当地に壮大寺院の創建を求めた為という。そう、北山第としていまの金閣寺が寺院鹿苑寺となる前にきらびやかすぎる別荘を造営した足利義満そのひと。

 征夷大将軍とともに朝廷では左大臣に任じられた足利義満、この時代に調停は南朝と北朝に分かれた南北朝の時代にあり、その首府は吉野か京都か、いや実際には教徒であるのだけれども三種の神器は吉野にあり、いわば正当性は兎も角として正統性では分断された。

 左大臣足利義満はその長抵抗症を室町幕府の強大な権力基盤と軍事力、更には日明貿易による経済力を背景に行い、南北朝時代を平和裏に解消し再統一に成功したことでさらにその影響力を増しました。その足利義満が禅宗での修行を志し造営したのが相国寺で。

 花の御所という今では大聖寺となった、先日には上皇猊下ご夫妻が行幸されたことで一躍有名となりましたこの相国寺近くの寺院が、もともと室町幕府の中枢として造営され、国宝洛中洛外図屏風左隻にはそのほぼ一面を花の御所として描かれる程のものがあった。

 禅宗伽藍をその花の御所のすぐ隣に造営する、中国との外交関係において日本国王を自称したほどの足利義満がこう希望したことで永徳2年こと西暦1382年、この相国寺は造営されることとなります。この関係から相国寺は正式には萬年山相国承天禅寺という。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ情勢-アメリカのウクライナへのクラスター弾薬供与,CBU-87クラスター爆弾かM-26ロケット弾か

2023-07-12 07:00:19 | 先端軍事テクノロジー
■臨時情報-ウクライナ情勢
 アメリカ政府はウクライナへクラスター弾を供与すると発表しました。実はてっきりMLRS用のクラスター弾薬は提供されていると思っていたのですが今度初めてのもよう。

 クラスター弾薬について。航空機から投下するCBU-87クラスター爆弾などが航空自衛隊でもかつて装備されていましたが、もう一つ、陸上自衛隊が精密誘導型のM-31ロケット弾を導入する以前に運用していたM-26ロケット弾がクラスター弾薬に当たり、また、正式化後即座に廃棄されましたが、03式155mm多目的弾もクラスター弾薬にあたる。

 一発で大量の子弾を散布し広範囲を一気に制圧するクラスター弾薬は、元々冷戦時代にソ連軍戦車軍団による欧州侵攻を通常兵器により食い止めるために導入されたものです。その後、コソボ空爆や湾岸戦争などで不発弾の問題が生じ、特に非戦闘員が拾う、記者が持ち帰り空港で爆発し死傷者が出るなど、非人道的と指摘され、オスロ条約で規制された。

 航空機から投下するものについては、JSOW滑空爆弾のようなものはクラスター弾薬には開発されておらず、基本的に攻撃目標の上空まで戦闘機で運び投下せねばなりません。レーザー誘導装置も搭載は可能なのかもしれませんが、基本的に広範囲を狙い精密さは要求されません。ただ、相手の陣地に地対空ミサイルがあれば、簡単には投下できません。
■M-26ロケット弾
 MLRS用のクラスター弾薬は正直1990年代まで自衛隊はこの弾薬でロシア軍上陸に備えていました。

 アメリカが提供するクラスター弾薬にM-26ロケット弾が含まれているならば、ウクライナ軍の反攻作戦に大きな威力を発揮するのかもしれません、射程は32㎞とGMLRSのM-31ロケット弾ほど大きくはなく、またGPS誘導にも対応していませんが、そもそもGMLRSはクラスター弾ではない故に命中精度を上げざるを得なかったためという背景が。

 鋼鉄の雨、この単語は沖縄戦の“鉄の暴風”を思い起こさせるものですが、鋼鉄の雨、とM-26ロケットを表現したのは湾岸戦争のイラク兵でした。サダムラインというソ連型戦術を取り入れたイラク軍の防衛線を突破する際に運用したのがMLRSから発射されたM-26ロケット弾です。保管期間は25年ですので古いものを供与すればちょうどよい。

 陣地に籠るロシア軍に対してクラスター弾の有用性を疑問視する声があるようですが、地下陣地ではなく塹壕線であれば上記の通りサダムライン突破に成果を上げています。不発弾が残ることは問題ですが、不発弾がウクライナ市民を巻き込む前にロシア軍がウクライナ市民を殺傷している状況こそ問題で、しかもロシア軍もクラスター弾を使うのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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