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北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】天龍寺,天龍寺と三つの戦争-鎌倉幕府滅亡後の混乱は南北朝の日本分断と京都騒擾応仁の乱

2023-08-09 20:23:45 | 写真
■天龍寺と三つの戦争
 嵐山のこの寺院はかつて三つの戦争に巻き込まれた、故に伽藍の多くは幾度も再興を重ねつつしかしその戦乱を回避する方法に思い浮かべれば歴史の複雑さを学ぶところから始めねば威勢だけでは進みません。

 天龍寺、嵐山と亀山の借景とともに美しい情景を醸し出す、故に冬の季節などは嵐山と亀山が早々と陽光を遮ってしまい憂国の頃には全く日陰の寂しい情景を引き出してしまう、のだけれどもそれは冬の話、今は夏です。刺すような青空がこれは逆に痛々しい。

 法堂と大方丈などは明治時代の建物となっていまして、これも寺院の複雑な歴史を建物の形で示している、けれどの曹源池庭園、嵐山と亀山を借景とした庭園は夢想礎石の作庭を継承しているというもので、文字通り国破れて山河在り、庭園の風景は不変という。

 橘嘉智子、もともとこの当地は平安時代に嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子が開いた檀林寺というお寺がありました。檀林寺という名前の寺院は残るものの、この時の檀林寺は残念ながら廃寺となり、四百年ほど放置されていた、土地は多く悠長な時代の話です。

 後嵯峨天皇の時代、嵯峨天皇は空海とともに時代を生きた文字通り平安遷都間もない頃の天皇さんですが、その時代から放置されていました檀林寺を再興しようという機運が、後嵯峨天皇の第三皇子により掲げられました。この人はのちの亀山天皇となられる。

 檀林寺を再興する、しかし寺院として再興するのではなく亀山殿という離宮として再整備するということであったのですが、ここで前に触れました足利尊氏の時代となる。亀山天皇の在位期間は西暦1259年から1274年までですので、時期的にはやや、近しい。

 鎌倉幕府滅亡と建武の新政に南北朝時代という日本分裂、そうした時代に苦悩する新しい権力者足利尊氏は、思い悩む様子を信頼する禅僧夢想礎石に迷いと後悔を弔うべく寺院造営を勧められ、光厳上皇に奏請したうえで亀山殿の跡地を賜り、寺院としました。

 落慶供養は後醍醐天皇七回忌の法要を意識して行ったという。そして禅寺の格を示す京都五山では第一位とされました。さて、戦争と天龍寺と銘打って散策の友の知識とした今回ですが、やはりといいますか、洛中からは離れている当地も後に戦火に見舞われる。

 応仁の乱で伽藍を焼失しているのですね。いや実はこの天龍寺は火災に見舞われる事が多い寺院でもあり、開山から最初の40年間で伽藍の焼失する大火災が二回、仏殿と法堂と三門とが焼け落ちる大火災が一回、そして庫裏が焼ける火災も一回起きていました。

 京都五山第一位という格付けは、火災に見舞われるも再建を果たした背景という。つまり寺域が非常に広く今の嵐電帷子ノ辻駅あたりまで伸びていた、あの鹿王院も天龍寺の塔頭というのは納得できるほど広大で、この為に度重なる火災でも再興ができたのです。

 応仁の乱は、しかし幕府権力そのものを大きく揺るがした騒擾であり、これにより天龍寺もその原動力を剝がされることとなるのですが、他方で安土桃山時代には大火災は無く、江戸時代も文化年間の大火を除きほぼほぼ安泰に火災予防に成功し祈りを紡ぐ。

 慶長伏見地震により、これは火災ではないのですがかなりの建物が倒壊しています。いやこの時は豊臣秀吉が1720石を寄進してくれましたし、江戸時代には徳川家康が寺領7020石安堵という、大名並みの厚遇を受けて伽藍を再構築することができているのだが。

 蛤御門の変。応仁の乱という大乱を挙げましたがもう一つ、幕末の騒擾に天龍寺は巻き込まれ、今度は火砲の攻撃を受け全焼しています。太平洋戦争のB-29空襲こそ受けていないが、この天龍寺は幾度も戦災というものに直面し続けた寺院ということに、なる。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】天龍寺,天龍寺と三つの戦争-間もなく迎える終戦記念日を前に思い浮かべた遠い歴史の蜃気楼

2023-08-09 20:00:11 | 写真
■天龍寺と三つの戦争
 八月九日は長崎原爆慰霊の日であり今年は台風に見舞われていますがその先は直ぐに八月十五日です。

 今年も八月十五日、終戦記念日を迎えるのですが、考えてみると戦後、という感覚は日本史では江戸時代などを例外として戦乱に見舞われていない稀有な時代であった、と感謝することもあるのですね。文字通り、わたしの祖父の世代までしか戦争経験はない。

 天龍寺は三つの戦争に巻き込まれた、偶然にしてその三つに戦争にアメリカとの太平洋戦争は含まれていませんが、三つの戦争により生まれ、そして荒廃と灰燼に帰し、しかし釈迦三尊を奉じる寺院として今に至ります。その歴史を経た立地の寺院を歩んでみよう。

 応仁の乱が京都では前の戦、という言葉があるようですが、応仁の乱よりも太平洋戦争の方が戦争という意味ではしっくりくるように思います。九条を守ろう、というスローガンは烏丸線九条駅を守るのではなく憲法九条を示すものが大半、その源は先の大戦で。

 嵐山へ。平和の尊さを云々するために嵐山へ、というよりは京福電鉄嵐電の増結という季節ですので長い編成を見るついでに散歩の歩みを嵐山まで伸ばそう、と考えました次第です。しかし、ここは考えてみれば京都でも戦争というものを考えさせられる地だ。

 天龍寺。そう天龍といえば巡洋艦で船団護衛の最中に潜水艦に沈められたので平和のなどなど、なんてことは考えないのですが、この寺院は、戦争、太平洋戦争ではないのだけれども、関係のある歴史をたどっています。偶然とはいえ散策の先に歴史を見つけた。

 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町、要するに嵐電嵐山駅の目の前にありまして、京都五山の一つに数えられる禅寺であるとともに、その美しい庭園から嵐山観光の定番となっています。しかし熱い、陽炎が立つほど熱くアスファルトの地面は火傷しそうとさえ。

 八月十五日、あの日も暑かった、と様々な方が回顧しています。気温は今ほど高くはなかったにしろ冷房が全く普及せず電力は戦力といわれ扇風機さえ憚れた時代ですので、感覚からしますともっと暑かったのでしょう、いまは気候変動との戦争に巻き込まれる。

 霊亀山天龍資聖禅寺、天龍寺は正式にはこう冠せられていまして臨済宗の寺院、より正確には臨済宗天龍寺派の寺院となっています。京都五山の通り禅寺ですので日本に入ってきました仏教としては後発、創建は康永2年こと西暦1343年と京都の寺院では新しい。

 夢窓疎石を開山に足利尊氏が開基となりまして開かれた寺院なのですが、当地に寺院を開こうと足利尊氏が決意した背景には、後醍醐天皇の崩御でした。もちろん阿りのような感覚ではなく、鎌倉幕府を滅ぼし始まった建武の新政を経て天皇と足利尊氏は対立する。

 鎌倉幕府滅亡は、最後の執権赤橋守時が新田義貞との会戦で戦死し、北条家当主北条高時が生き残りの家臣と慕って付き従った白拍子たちとともに炎上する東勝寺において全員死亡するという、日本史にある三つの幕府の中では際立った最期を遂げています。

 建武の新政、鎌倉幕府滅亡とともに公家一統を掲げ親政に臨んだ醍醐天皇は、しかし政治手段とともに補佐役など統治機構や法治体系の構築に失敗し、結果的に足利尊氏と対立、吉野に逃れて南朝を興すことで日本は史上初、南北朝の分裂時代を迎えてしまう。

 後醍醐天皇崩御は、こうした南北朝対立の最中での吉野での崩御という背景があり、いわば戦争と権力闘争の末に開かれた寺院、それが天龍寺のもう一つの姿でもあるのです。しかし、天龍寺と戦争の関係はもう更に、歴史が重なるのですが、また別の機会に。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ情勢-戦場衛生基盤限界による四肢喪失多発と両軍が戦果主張のクピャンスク・スヴァトヴェ間の激戦

2023-08-09 07:00:44 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 本日は長崎原爆慰霊の日ですが平和祈念とはかけ離れた状況がウクライナでは続いています。そして戦場衛生基盤については自衛隊も学ぶべき点があるのでしょうか。

 ウクライナ国内では四肢喪失事例が既に数万件に上っているとみられる、ウォ-ルストリートジャーナルが報じました。これは戦闘により生じた重傷者や応急措置の遅れによる壊疽などから四肢切断を余儀なくされる状況で、広報とされる西部のリヴィウ医療機関だけでも過去1年間に5万3000件以上もの四肢切断手術が行われているという。

 イラク戦争やアフガニスタン治安作戦において、戦闘防弾チョッキや個人用応急措置装備の普及により、過去の戦争であれば救命が叶わなかった事例でも生存救命に成功した事例とともに、しかしその代償として四肢切断を余儀なくされる事例が報告されています。そしてウクライナでの医療切迫は四肢切断が有力な外科手術手段となっている状況だ。

 ウォールストリートジャーナルによれば、第一次世界大戦の数字を引用し、ドイツでは6万7000名とイギリスでは4万1000名が四肢切断を余儀なくされた点を紹介、第一次世界大戦では戦傷者の救命率も戦死者数も根本から異なりますが、ウクライナの戦後復興を考えるうえで、少なくない規模の四肢喪失退役兵は厳しい影を落とすことでしょう。
■クピャンスク-スヴァトヴェ
 ウクライナでは大規模な地上戦闘が続いています。

 クピャンスク-スヴァトヴェ間の攻防戦が激化している、8月2日付ISWアメリカ戦争研究所戦況報告が分析結果を公表しました。ロシア側はこの地域での攻撃前進を発表し、ウクライナ軍もこの地域での反撃を発表しています、しかし双方ともに顕著な前進が確認されていません。これは双方ともに激戦により前進を果たせていない証左です。

 クピャンスク-スヴァトヴェ間が激戦となる背景には、南部でのウクライナ軍反撃に対する揺動という側面はありますが、それ以上に南部地域はクリミア半島との鉄道輸送路が断続的に橋梁破壊を受け頓挫しており兵站線が寸断されている状況にあり、ロシア本土からの補給線を維持することができる地域でのロシア軍行動が活性化しているのでしょう。

 バフムト、東部戦線のもう一つの焦点は昨年からロシア側が攻撃を継続しているバフムトでの戦闘ですが、第57自動車化狙撃旅団がバフムト地域において部分的に攻撃に成功したとロシア側一部報道が示唆しています。しかし顕著な前進は確認されず、旅団は横溢戦闘加入ではなく、分散投入若しくは逐次投入されている可能性があるようです。

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