■第13方面軍司令部
軍事施設よりは軍需工場となにより住宅街の民家や文化財が破壊されている印象がある。

名古屋城、空襲により徹底的に破壊されたという歴史がありますが、名古屋空襲を調べてみますとそもそも、被害は名古屋城だけではなかった、いや、戦災復興で名所旧跡復興を名古屋城以外後回しとしたために、やたら機能的だけという街となった事を知り驚く。

名古屋は軍都であり空襲の標的となった、という視座は名古屋空襲による軍事施設被害状況を見ますと全く当てはまらない事がわかります。空襲で破壊された軍事施設は、陸軍航空本部名古屋監督班事務所と東海軍管区司令部別館一棟第二庁舎となっている。

第13方面軍司令部が名古屋に置かれていまして隷下には第54軍と方面群直轄の第73師団、第153師団、第229師団、高射第2師団が隷下に。それなりの規模の方面軍であったのですが、空襲の主目標は野戦部隊ではなく市街地と軍需工場に向けられました。

第54軍などはその隷下部隊を見ますと、第143師団と編成中の第224師団及び編成中の第355師団、独立混成第97旅団と独立混成第119旅団と独立混成第120旅団そして第3砲兵司令部、それなりの規模があったのですが、軍が爆撃されなかったのは上記の通り。

寺社仏閣という視点で見ますと、名古屋の寺社仏閣は、名古屋の方に申し訳ないのですが見るものが少ないといいますか、無い。のだけれども、これは戦災により焼かれてその後に宅地開発で寺社仏閣を破却してしまったという戦後の都市計画の結果でもあるという。

B-29戦略爆撃機により名古屋が受けた空襲は数回に分け、全体で延べ2579機、もちろんこのほかに空母艦載機やB-25などの爆撃は含まない。あのドゥーリットル日本初空襲では名古屋赤十字病院がB-25に攻撃されていますが、これを含まず2579機という。

萬松寺、空襲の被害を受けた寺院には先ずこの織田家ゆかりの寺院があります、2017年に本堂が再建されたのですが、どうみてもマンションにしか見えない事でマンショウ寺をもじってマンション寺といっていましたが、これは戦後都市計画の犠牲という歴史が。

織田信秀という織田信長の実父葬儀が開かれ有名な位牌に信長が抹香を叩きつけた逸話はこの萬松寺でして、実は今よりもはるかに広い寺院でしたが空襲で全焼し不動堂と稲荷堂だけを再建して本堂はビルに甘んじるほかなかったという寂しい歴史があります。

長福寺。もう一つ、ここは歴史ある寺院らしいという事でしかも大須電気街からほど近い立地もあっては如何に歩み伸ばしたのですが、あまりに小さく驚いたのです。廃仏毀釈の影響か真言宗寺院故に禅宗の流れで縮小したのかと思いましたが、ここも戦災だった。

七寺塔頭という長福寺の寺域は旧国宝として指定された本堂も中世造営という三重塔なども七堂伽藍を全て焼失しており、しかも戦後復興により住宅地や商用地へ区画整理で寺域を取られてしまい、戦前は現在の大須観音よりも遥かに広かった寺域が今に至る。

熱田神宮は本殿含め国宝鎮皇門も国宝海上門も春敲門をも焼き払い今に至るも再建されていない、名古屋東照宮は権現造の社殿と楼門及び唐門と渡殿を焼失、誓願寺は源頼朝の生誕地の寺という歴史があるも本堂を焼失し、高速道路効果近くに小さな庵を残すのみ。

戦後は、苦しいという以前に喰っていくだけで精一杯という中での苦肉の復興計画がこうした現状となっている。名所旧跡なき名古屋の街は、こう考えますと、空襲の被害というもの、実は2020年代の現代でも如実に突き付けられていることを痛感するのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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軍事施設よりは軍需工場となにより住宅街の民家や文化財が破壊されている印象がある。

名古屋城、空襲により徹底的に破壊されたという歴史がありますが、名古屋空襲を調べてみますとそもそも、被害は名古屋城だけではなかった、いや、戦災復興で名所旧跡復興を名古屋城以外後回しとしたために、やたら機能的だけという街となった事を知り驚く。

名古屋は軍都であり空襲の標的となった、という視座は名古屋空襲による軍事施設被害状況を見ますと全く当てはまらない事がわかります。空襲で破壊された軍事施設は、陸軍航空本部名古屋監督班事務所と東海軍管区司令部別館一棟第二庁舎となっている。

第13方面軍司令部が名古屋に置かれていまして隷下には第54軍と方面群直轄の第73師団、第153師団、第229師団、高射第2師団が隷下に。それなりの規模の方面軍であったのですが、空襲の主目標は野戦部隊ではなく市街地と軍需工場に向けられました。

第54軍などはその隷下部隊を見ますと、第143師団と編成中の第224師団及び編成中の第355師団、独立混成第97旅団と独立混成第119旅団と独立混成第120旅団そして第3砲兵司令部、それなりの規模があったのですが、軍が爆撃されなかったのは上記の通り。

寺社仏閣という視点で見ますと、名古屋の寺社仏閣は、名古屋の方に申し訳ないのですが見るものが少ないといいますか、無い。のだけれども、これは戦災により焼かれてその後に宅地開発で寺社仏閣を破却してしまったという戦後の都市計画の結果でもあるという。

B-29戦略爆撃機により名古屋が受けた空襲は数回に分け、全体で延べ2579機、もちろんこのほかに空母艦載機やB-25などの爆撃は含まない。あのドゥーリットル日本初空襲では名古屋赤十字病院がB-25に攻撃されていますが、これを含まず2579機という。

萬松寺、空襲の被害を受けた寺院には先ずこの織田家ゆかりの寺院があります、2017年に本堂が再建されたのですが、どうみてもマンションにしか見えない事でマンショウ寺をもじってマンション寺といっていましたが、これは戦後都市計画の犠牲という歴史が。

織田信秀という織田信長の実父葬儀が開かれ有名な位牌に信長が抹香を叩きつけた逸話はこの萬松寺でして、実は今よりもはるかに広い寺院でしたが空襲で全焼し不動堂と稲荷堂だけを再建して本堂はビルに甘んじるほかなかったという寂しい歴史があります。

長福寺。もう一つ、ここは歴史ある寺院らしいという事でしかも大須電気街からほど近い立地もあっては如何に歩み伸ばしたのですが、あまりに小さく驚いたのです。廃仏毀釈の影響か真言宗寺院故に禅宗の流れで縮小したのかと思いましたが、ここも戦災だった。

七寺塔頭という長福寺の寺域は旧国宝として指定された本堂も中世造営という三重塔なども七堂伽藍を全て焼失しており、しかも戦後復興により住宅地や商用地へ区画整理で寺域を取られてしまい、戦前は現在の大須観音よりも遥かに広かった寺域が今に至る。

熱田神宮は本殿含め国宝鎮皇門も国宝海上門も春敲門をも焼き払い今に至るも再建されていない、名古屋東照宮は権現造の社殿と楼門及び唐門と渡殿を焼失、誓願寺は源頼朝の生誕地の寺という歴史があるも本堂を焼失し、高速道路効果近くに小さな庵を残すのみ。

戦後は、苦しいという以前に喰っていくだけで精一杯という中での苦肉の復興計画がこうした現状となっている。名所旧跡なき名古屋の街は、こう考えますと、空襲の被害というもの、実は2020年代の現代でも如実に突き付けられていることを痛感するのですね。
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