■国宝本殿とながい歴史
祇園祭が終わりましたがこの八月二日は青森では祭事ねぶた祭が始まったといいますので夏を感じる今日この頃です。
祇園祭の季節、一か月間にわたる祭事とともに一度は詣でて、これも祇園祭が無病息災を祈る神事なのですから、やはり健康長寿を祈りつつ、まだそれほど混雑していない神域を一つ巡ってみる。それほど広大な社殿ではないが、それでも広々としている。
重要文化財として2020年に西楼門と蛭子社社殿と石鳥居に加えて26の建物などが加わりまして、29もの重文が並ぶ社殿なのですが、充分といわれても、昔から大切にされていることは変わりなく、いつものように柏手を叩き本殿に頭を垂れ無心に拝みます。
素戔嗚尊と櫛稲田姫命と八柱御子神が祀られる社殿、考えてみれば祇園祭の最中、参拝したのは神幸祭と還幸祭の中間という季節でしたので、祭神の面々は巡幸の最中というところではあるのですが、まあ、祇園祭の以外にも参拝する社殿にもう一度額づく。
八坂神社は、その名前が明治時代に祇園社から政治的に八坂神社へと改められた、という歴史を持つのですが、京都有数の歴史を有する神社故にその始まりは様々な説があるという。少なくとも牛頭天王が当地に祀られる前に社はあったという記録が多い。
山城国愛宕郡八坂郷。八坂神社の名は明治時代に改まったという事ですが、その名の由来は元々当地が山城国愛宕郡八坂郷という、名前に戦艦と重巡の名を含んでいるものの八坂郷にある神社なので八坂神社となった、という明治時代のある種単純なながれ。
円如という僧侶が、貞観18年こと西暦876年に観慶寺という寺院を造営しまして、そこに祇園神、お釈迦様生誕の地を守護する神様ということですけれども、降臨したことを受けまして祇園社と改まり、今日に至るという。当時は祇園天神ともよばれた。
延喜式神名帳によれば、しかし意外にも祇園社の名は見当たらず、神社ではなく興福寺の、のちには延暦寺の神社という、寺院の一部と朝廷には理解されていたようで、だけれども二十二社の一つと記されるなど神仏習合の大らかな神社であったことがわかる。
本殿は国宝に指定されています。承応3年こと西暦1654年に徳川家綱により再建されたということでして、そして歴史をたどりますと平安朝末期の頃には、鴨川の西岸は全部祇園社の所領とされており、今では考えられぬほどの広大な神域となっています。
延暦寺の末社という位置づけではあったのですが、1384年に足利義満は鴨川西岸への影響力を考え、延暦寺と祇園社を分離している。しかし幕府は禅宗寺院には格付けを行うなど保護を加えていましたが神社はそこに及ばず、結果、町衆の社殿へと移ろう。
祇園祭は八坂神社の祭事ですが、よくぞまあ一か月間京都市中心部を祭事で埋められるものだ、という背景にはこの町衆に育てられた祭事という意味合いがありまして、元亀2年こと1571年の織田信長による延暦寺焼き討ちが祇園社独立の決定打となる。
豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を当社に祈願した際に壮大な多宝塔、寛政年間の火災により焼失してしまい現存しないのが残念なのですが、神社は比叡山延暦寺からの影響を離れるとともに町衆の寺院、しかし権力者から崇敬を集める寺院として広がる。
変わらないようで、細部は変わっている、これは長い目で見れば着実な変化を意味するもの、変わるからこそ成長する視線からは逆に伝統墨守のように見えるのだろうなあ、そんなことを思いつつ、厳しい日差しが戻ってくる前に一礼し、帰路へと就きました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
祇園祭が終わりましたがこの八月二日は青森では祭事ねぶた祭が始まったといいますので夏を感じる今日この頃です。
祇園祭の季節、一か月間にわたる祭事とともに一度は詣でて、これも祇園祭が無病息災を祈る神事なのですから、やはり健康長寿を祈りつつ、まだそれほど混雑していない神域を一つ巡ってみる。それほど広大な社殿ではないが、それでも広々としている。
重要文化財として2020年に西楼門と蛭子社社殿と石鳥居に加えて26の建物などが加わりまして、29もの重文が並ぶ社殿なのですが、充分といわれても、昔から大切にされていることは変わりなく、いつものように柏手を叩き本殿に頭を垂れ無心に拝みます。
素戔嗚尊と櫛稲田姫命と八柱御子神が祀られる社殿、考えてみれば祇園祭の最中、参拝したのは神幸祭と還幸祭の中間という季節でしたので、祭神の面々は巡幸の最中というところではあるのですが、まあ、祇園祭の以外にも参拝する社殿にもう一度額づく。
八坂神社は、その名前が明治時代に祇園社から政治的に八坂神社へと改められた、という歴史を持つのですが、京都有数の歴史を有する神社故にその始まりは様々な説があるという。少なくとも牛頭天王が当地に祀られる前に社はあったという記録が多い。
山城国愛宕郡八坂郷。八坂神社の名は明治時代に改まったという事ですが、その名の由来は元々当地が山城国愛宕郡八坂郷という、名前に戦艦と重巡の名を含んでいるものの八坂郷にある神社なので八坂神社となった、という明治時代のある種単純なながれ。
円如という僧侶が、貞観18年こと西暦876年に観慶寺という寺院を造営しまして、そこに祇園神、お釈迦様生誕の地を守護する神様ということですけれども、降臨したことを受けまして祇園社と改まり、今日に至るという。当時は祇園天神ともよばれた。
延喜式神名帳によれば、しかし意外にも祇園社の名は見当たらず、神社ではなく興福寺の、のちには延暦寺の神社という、寺院の一部と朝廷には理解されていたようで、だけれども二十二社の一つと記されるなど神仏習合の大らかな神社であったことがわかる。
本殿は国宝に指定されています。承応3年こと西暦1654年に徳川家綱により再建されたということでして、そして歴史をたどりますと平安朝末期の頃には、鴨川の西岸は全部祇園社の所領とされており、今では考えられぬほどの広大な神域となっています。
延暦寺の末社という位置づけではあったのですが、1384年に足利義満は鴨川西岸への影響力を考え、延暦寺と祇園社を分離している。しかし幕府は禅宗寺院には格付けを行うなど保護を加えていましたが神社はそこに及ばず、結果、町衆の社殿へと移ろう。
祇園祭は八坂神社の祭事ですが、よくぞまあ一か月間京都市中心部を祭事で埋められるものだ、という背景にはこの町衆に育てられた祭事という意味合いがありまして、元亀2年こと1571年の織田信長による延暦寺焼き討ちが祇園社独立の決定打となる。
豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を当社に祈願した際に壮大な多宝塔、寛政年間の火災により焼失してしまい現存しないのが残念なのですが、神社は比叡山延暦寺からの影響を離れるとともに町衆の寺院、しかし権力者から崇敬を集める寺院として広がる。
変わらないようで、細部は変わっている、これは長い目で見れば着実な変化を意味するもの、変わるからこそ成長する視線からは逆に伝統墨守のように見えるのだろうなあ、そんなことを思いつつ、厳しい日差しが戻ってくる前に一礼し、帰路へと就きました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)