■仁和寺-中世は政治舞台
これが四月初旬の写真というから驚きなのですが京都の桜特集は今回の仁和寺が大団円となります。
仁和寺、ここは衣笠山を見上げる京都市右京区御室大内、山手に、しかし意外なほどの規模を以て広がる寺院となっています。この仁和寺とともに衣笠山の山麓一帯は、きぬかけの路という歴史文化地区を形成していまして、東へ向かえば金閣寺へといたるのです。
仁和寺は、京都の桜尾大団円を飾る委員といえるかもしれません、それほどに遅咲きの桜でして、周りのソメイヨシノが青葉となっている時節にそろそろかと訪れますと三分咲きであったりする、遠目には散っているように見えてまだ咲いていないおもはゆさがある。
衣笠山と仁和寺、そう仁和寺です。随分前の話ですので恐縮ですが、山陰線の高架を列車にて進む際、ふと壮大な寺院が電車の車内からも見えたものでして、いや規模として妙心寺、山陰線の隣接する妙心寺の方が大きいはずなのですが、驚かされたことがありました。
妙心寺は高架から近く、しかし仁和寺はやや山手と標高のある立地に鎮座していますし、そして伽藍も五重塔含めて大きいものですから、周りに比較する建物もなく、一角が広く寺院の寺域となっていることもあり、なるほど大きく見えたのだなあ、と。実際大きい。
真言宗御室派の総本山、仁和寺は元々は天台宗寺院でしたが、その草創期に真言宗寺院となり今日に至ります。しかしその歴史は、といいますと京都への平安遷都から百年を経た頃という、それはそれは長い歴史を連綿と受け継いでいる、日本史の源流にちかいところ。
古都京都の文化財の構成資産として世界遺産に登録されている寺院の一つなのですが、しかし桜の季節と紅葉の季節を除けば拝観料は庭園を拝観する際のみでして、数多時代劇で有名な五重塔の真下まで毎日通う事さえできるという、実は開かれた寺院という。
光孝天皇の勅願により創建されることとなりましたお寺、時は仁和2年こと西暦886年、しかし光孝天皇は寺院完成を見ることなく翌年崩御し、宇多天皇によって仁和4年こと西暦888年に落成、今日に至る連綿たる歴史を紡いでいる京都の寺院の一つなのです。
御室桜、とともにさて2023年桜花の季節を最後に巡る事としましたのは、一寸別のところで調べている研究対象に若干、この仁和寺というところが出てきまして、ここで気分転換とするならば行く先には仁和寺でゆったりし、きぬかけの路でパフェだろう、となった。
護憲、という言葉が京都では良く響くところですが、人口100万規模の都市に対する大学の数というものが影響しているのか、仏教思想と平和というものが偶然にしても現行憲法と重なる為かというのは難しいところですが、四条で河原町で京都駅前で良く耳にする。
憲法が有るからこそ護憲という概念が生まれるのだけれども、しかし民権という概念が今の憲法の原型である大日本帝国憲法制定の1889年という時代、その前にはどのように扱われていたのだろう、そもそも武家諸法度以外の全国的な法体系とは、と考えてしまう。
仁和寺に来て憲法かよ、と思われるかもしれませんが、まあ憲法そのものには関係ない所ではあるものの、Constitutionという概念、和訳すると憲法と構造にしかならないこの概念が徐々に形成される一翼を担った寺院の一つに仁和寺が含まれることもまた事実です。
Constitutionの概念、人権と共に統治機構の在り方を示しているものが憲法なのですが、多分に日本の明治憲法制定過程は文明国の末席でも宵から到達する為の理想論とともに、しかし国文学と史学とを織り交ぜた日本独自の価値観を盛り込もうとしたことは当然だ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
これが四月初旬の写真というから驚きなのですが京都の桜特集は今回の仁和寺が大団円となります。
仁和寺、ここは衣笠山を見上げる京都市右京区御室大内、山手に、しかし意外なほどの規模を以て広がる寺院となっています。この仁和寺とともに衣笠山の山麓一帯は、きぬかけの路という歴史文化地区を形成していまして、東へ向かえば金閣寺へといたるのです。
仁和寺は、京都の桜尾大団円を飾る委員といえるかもしれません、それほどに遅咲きの桜でして、周りのソメイヨシノが青葉となっている時節にそろそろかと訪れますと三分咲きであったりする、遠目には散っているように見えてまだ咲いていないおもはゆさがある。
衣笠山と仁和寺、そう仁和寺です。随分前の話ですので恐縮ですが、山陰線の高架を列車にて進む際、ふと壮大な寺院が電車の車内からも見えたものでして、いや規模として妙心寺、山陰線の隣接する妙心寺の方が大きいはずなのですが、驚かされたことがありました。
妙心寺は高架から近く、しかし仁和寺はやや山手と標高のある立地に鎮座していますし、そして伽藍も五重塔含めて大きいものですから、周りに比較する建物もなく、一角が広く寺院の寺域となっていることもあり、なるほど大きく見えたのだなあ、と。実際大きい。
真言宗御室派の総本山、仁和寺は元々は天台宗寺院でしたが、その草創期に真言宗寺院となり今日に至ります。しかしその歴史は、といいますと京都への平安遷都から百年を経た頃という、それはそれは長い歴史を連綿と受け継いでいる、日本史の源流にちかいところ。
古都京都の文化財の構成資産として世界遺産に登録されている寺院の一つなのですが、しかし桜の季節と紅葉の季節を除けば拝観料は庭園を拝観する際のみでして、数多時代劇で有名な五重塔の真下まで毎日通う事さえできるという、実は開かれた寺院という。
光孝天皇の勅願により創建されることとなりましたお寺、時は仁和2年こと西暦886年、しかし光孝天皇は寺院完成を見ることなく翌年崩御し、宇多天皇によって仁和4年こと西暦888年に落成、今日に至る連綿たる歴史を紡いでいる京都の寺院の一つなのです。
御室桜、とともにさて2023年桜花の季節を最後に巡る事としましたのは、一寸別のところで調べている研究対象に若干、この仁和寺というところが出てきまして、ここで気分転換とするならば行く先には仁和寺でゆったりし、きぬかけの路でパフェだろう、となった。
護憲、という言葉が京都では良く響くところですが、人口100万規模の都市に対する大学の数というものが影響しているのか、仏教思想と平和というものが偶然にしても現行憲法と重なる為かというのは難しいところですが、四条で河原町で京都駅前で良く耳にする。
憲法が有るからこそ護憲という概念が生まれるのだけれども、しかし民権という概念が今の憲法の原型である大日本帝国憲法制定の1889年という時代、その前にはどのように扱われていたのだろう、そもそも武家諸法度以外の全国的な法体系とは、と考えてしまう。
仁和寺に来て憲法かよ、と思われるかもしれませんが、まあ憲法そのものには関係ない所ではあるものの、Constitutionという概念、和訳すると憲法と構造にしかならないこの概念が徐々に形成される一翼を担った寺院の一つに仁和寺が含まれることもまた事実です。
Constitutionの概念、人権と共に統治機構の在り方を示しているものが憲法なのですが、多分に日本の明治憲法制定過程は文明国の末席でも宵から到達する為の理想論とともに、しかし国文学と史学とを織り交ぜた日本独自の価値観を盛り込もうとしたことは当然だ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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