■咲き誇る梅花の梅園
2023年は前にもまして桜前線の北上が早く京都は最早満開から散り始めの様相ですが、順番ですので先ずはここ城南宮の梅花を愛でました日常の中の旅情を。
梅花の季節はなぜこう心地よいのか、考えてみるとようやく今年思い至ったのは、静かであるという意味が大きく違ったという事です。梅の花見は静かで桜の花見は賑やか、というのは前々から宴会というものの有無、宴会か歌会かを考えていたのですけれども、ね。
花見が静か、というのは気づきました、蜂の羽音の有無です。梅花にはまだ蜂が飛び始めていないのですね、つまりまだ寒いのだ、という事にもなるのかもしれませんが、そう考えてみると桜の花にはぶんぶんと蜜蜂の羽音が大きいのです、梅花の際はまだ飛びません。
酒宴になる桜の花見、COVID-19の季節もようやく終わりましたのでそろそろ2023年は再開、というところになるのか、もう少し慎重となるのか。そして桜花観桜の酒宴は、蜂の音が気付かないほどに賑やかなのだろうなあ、と思うのですが観梅は蜂が静かなのです。
蜜蜂であっても、刺されれば多少は痛いものですし、アナフィラキシーショックというアレルギー反応の問題もありますから、ぶんぶんと音が鳴り響くのは多少緊張感を強いるものでしょう、実際、数が多いものですから樹上を数百数千と飛ばれますと音はよく響く。
観桜の際に、そう確かに羽音がしているもので、考えると桜の真下では長時間、一人二人の観応の際には散策することはあっても、真下に長時間、というものはないように感じた、歩いているか動いたまま、時折立ち止まって撮影する、座るのはもう少しとおいところ。
蜂の羽音、考えれば相手も警戒音として翅を使う習性があるのですし、人類には太古の昔から蜜蜂にやられた方も少なからず多いのでしょう、ゆえに生理的に不安となる音のような考えも成り立つ、なるほど、梅花が落ち着くには、そうしたものもあるのだろうなあ。
城南宮、鎌倉時代の一つの転換点となった、あの承久の乱はここから始まったのだ、こう思い起こしますと、なるほど幾多の戦火により当時の遺構は失われているのだけれども、今のニッポンへ至る分水嶺の一つがここであったのだなあという素朴な感慨がわきます。
後鳥羽上皇は鎌倉時代の承久3年こと西暦1221年、武芸を奉納するべく流鏑馬揃えを城南宮にて執り行う為に信頼のおける貴族や武士に呼びかけています。流鏑馬ならば墨染神社だろうとか、弓の神様なのだから石清水八幡宮だろう、とおもうのは一般的でしょう。
城南宮の歴史は平安遷都の頃に平城京から王城鎮護の社殿を移築したのが始まりとされています、しかし城南宮と平安京は、特に桓武天皇が晩年に軍事と造作という、特に首都移転事業を式年遷宮のごとく繰り返す造作政策を終了したことで市域がどんどん広がります。
白河天皇が鳥羽離宮、所謂“城南離宮”を造営したのは平安朝後期の時代ですが、帳級が造営されるとともに城南宮は離宮の鎮守社として実質取り込まれることとなりました。いや、元々城南宮は王城鎮護へ裏鬼門を固める社殿であり平安京はここを南端に整備された。
鳥羽離宮の整備は、同時に鴨川と桂川の合流点であり水運の起点で、そして山陽道と東海道が交錯する緊要地形を醸成してゆくのですが、同時に市域の南端ということは南方には避暑地となる緑と木々が茂り、ここに離宮を造営し院政を始めたことで重要性は増す。
院政の時代はこうして始まり、一方で上皇権限はいまよりもずっと強く、といえる上皇陛下の時代再来にはなにか素朴な郷愁感を満たされる優雅さを感じるのですが、院政の聖地は次第に貴族邸宅の増設が放射線状に広まり、一種の新都心を形成していったのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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2023年は前にもまして桜前線の北上が早く京都は最早満開から散り始めの様相ですが、順番ですので先ずはここ城南宮の梅花を愛でました日常の中の旅情を。
梅花の季節はなぜこう心地よいのか、考えてみるとようやく今年思い至ったのは、静かであるという意味が大きく違ったという事です。梅の花見は静かで桜の花見は賑やか、というのは前々から宴会というものの有無、宴会か歌会かを考えていたのですけれども、ね。
花見が静か、というのは気づきました、蜂の羽音の有無です。梅花にはまだ蜂が飛び始めていないのですね、つまりまだ寒いのだ、という事にもなるのかもしれませんが、そう考えてみると桜の花にはぶんぶんと蜜蜂の羽音が大きいのです、梅花の際はまだ飛びません。
酒宴になる桜の花見、COVID-19の季節もようやく終わりましたのでそろそろ2023年は再開、というところになるのか、もう少し慎重となるのか。そして桜花観桜の酒宴は、蜂の音が気付かないほどに賑やかなのだろうなあ、と思うのですが観梅は蜂が静かなのです。
蜜蜂であっても、刺されれば多少は痛いものですし、アナフィラキシーショックというアレルギー反応の問題もありますから、ぶんぶんと音が鳴り響くのは多少緊張感を強いるものでしょう、実際、数が多いものですから樹上を数百数千と飛ばれますと音はよく響く。
観桜の際に、そう確かに羽音がしているもので、考えると桜の真下では長時間、一人二人の観応の際には散策することはあっても、真下に長時間、というものはないように感じた、歩いているか動いたまま、時折立ち止まって撮影する、座るのはもう少しとおいところ。
蜂の羽音、考えれば相手も警戒音として翅を使う習性があるのですし、人類には太古の昔から蜜蜂にやられた方も少なからず多いのでしょう、ゆえに生理的に不安となる音のような考えも成り立つ、なるほど、梅花が落ち着くには、そうしたものもあるのだろうなあ。
城南宮、鎌倉時代の一つの転換点となった、あの承久の乱はここから始まったのだ、こう思い起こしますと、なるほど幾多の戦火により当時の遺構は失われているのだけれども、今のニッポンへ至る分水嶺の一つがここであったのだなあという素朴な感慨がわきます。
後鳥羽上皇は鎌倉時代の承久3年こと西暦1221年、武芸を奉納するべく流鏑馬揃えを城南宮にて執り行う為に信頼のおける貴族や武士に呼びかけています。流鏑馬ならば墨染神社だろうとか、弓の神様なのだから石清水八幡宮だろう、とおもうのは一般的でしょう。
城南宮の歴史は平安遷都の頃に平城京から王城鎮護の社殿を移築したのが始まりとされています、しかし城南宮と平安京は、特に桓武天皇が晩年に軍事と造作という、特に首都移転事業を式年遷宮のごとく繰り返す造作政策を終了したことで市域がどんどん広がります。
白河天皇が鳥羽離宮、所謂“城南離宮”を造営したのは平安朝後期の時代ですが、帳級が造営されるとともに城南宮は離宮の鎮守社として実質取り込まれることとなりました。いや、元々城南宮は王城鎮護へ裏鬼門を固める社殿であり平安京はここを南端に整備された。
鳥羽離宮の整備は、同時に鴨川と桂川の合流点であり水運の起点で、そして山陽道と東海道が交錯する緊要地形を醸成してゆくのですが、同時に市域の南端ということは南方には避暑地となる緑と木々が茂り、ここに離宮を造営し院政を始めたことで重要性は増す。
院政の時代はこうして始まり、一方で上皇権限はいまよりもずっと強く、といえる上皇陛下の時代再来にはなにか素朴な郷愁感を満たされる優雅さを感じるのですが、院政の聖地は次第に貴族邸宅の増設が放射線状に広まり、一種の新都心を形成していったのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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