■臨済宗東福寺派の大本山
十一月末が一番輝いていて十二月初旬は何とかなっていましたが流石に十二月中旬の昨今はこの輝きも来年までのお楽しみ。
東福寺、紅葉の季節となりますと一度は歩み進める場所、といいたいのですが、まだ青椛だ、とか未だちょっと早かったな、とか、そうそうこの朱色が絶景なんだが北時間帯の太陽の傾きがちょっと、最高の紅葉だけれども曇天だ、と何度も拝観する寺院という。
通天モミジ、東福寺といえばこの情景でしょう、京都を代表する紅葉の情景と言っていいのかもしれません。実はここ、元々は在来種の桜並木であったという。しかし後世に遊興の場となり修行の邪魔になると考えられたことで、外来種の椛へ植え替えられた歴史が。
画僧吉山明兆が室町幕府四代将軍足利義持に絵を献上した際に感激した将軍は褒美に何を望むかと問うたところ、自らが修業に励む東福寺の桜並木をすべて伐採してほしい、遊興の地となっては修行できない故、というこうした顛末が様々な媒体で紹介されている。
観桜、なるほど当時から日本にはそうした優雅な、と思われるでしょう。ただこれを純粋な視点で考えますと、桔梗でも芙蓉でも紫陽花でもなく、観桜、なのですね。これは春に咲く、言い換えれば冬を乗り越えた、生き延びられたことへの感謝にほかならないのでは。
紅葉を楽しむ、平安貴族はじめ飢餓とは無関係な方々には冬は寒いだけ、というところなのでしょうが、なにしろ中世まで、いや近世以降でも冬は糧食の貯えを怠れば簡単に飢餓により生き延びられず、そして春に作物を植えても初夏までほぼほぼ収穫できません。
秋を楽しむ余裕が現代にはできている、これだけでも豊かになったのでしょうね。しかし遊興の場となってしまったではないか、という反論があるのかもしれませんが、それはそれ、現代の寺院は寄進と拝観料により存続できている故、修行がなりたつのですから。
禅寺、これは大陸から平安朝末期の時代に日本へ伝えられました新しい仏教の解釈でして、ちょうどこのころ日本では武士階級の勃興とともにその華美さを省いた様式と哲学的な側面が質実剛健を以て成り立つ武家集団の価値観と重なり、急速に信仰を広めてゆく。
釈迦如来を奉じる東福寺、その山号は慧日山といいまして、室町時代に禅寺の寺格を定めた京都五山では第四位の禅寺という位置づけを有しています。ただ、その割には堂宇伽藍が大きすぎ、ちょっと偉そうだということで、京都の町衆は東福寺の伽藍面と揶揄した。
東山区本町、東福寺は東山区のJR奈良線東福寺駅から徒歩で門までは200mほどの立地にあるのですが、そこからが塔頭寺院と宅地化された街区を縫うように歩み進め20分ほど行った先に在りまして、広い、旭川駐屯地や北千歳駐屯地のようにここはひろい。
臨済宗東福寺派の大本山の寺院でもあります東福寺、広大な寺域が一つの街のようだ、と思われるところなのでしょうが、実際に江戸時代には寺領を幕府から認められ、その年貢により寺院を維持していましたので、街のように広いのはある意味当然かもしれない。
法性寺という、どうして東福寺の様な巨大な寺院がここに造営できたのかを紐解きますと、此処にはもともと藤原氏の氏寺であった法性寺という巨大寺院がありまして、その立地を用い東福寺は栄えた、ただ、法性寺は実は東福寺駅前に残っているのですけれどね。
九条道家、もともとここ東福寺は禅寺として始まったのではなく、これもいつの時代も同じなのかもしれませんが、比叡山の延暦寺、国家宗教という位置づけの天台宗が禅寺を受け入れなかった時代に九条家菩提寺として造営された、という歴史がありました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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十一月末が一番輝いていて十二月初旬は何とかなっていましたが流石に十二月中旬の昨今はこの輝きも来年までのお楽しみ。
東福寺、紅葉の季節となりますと一度は歩み進める場所、といいたいのですが、まだ青椛だ、とか未だちょっと早かったな、とか、そうそうこの朱色が絶景なんだが北時間帯の太陽の傾きがちょっと、最高の紅葉だけれども曇天だ、と何度も拝観する寺院という。
通天モミジ、東福寺といえばこの情景でしょう、京都を代表する紅葉の情景と言っていいのかもしれません。実はここ、元々は在来種の桜並木であったという。しかし後世に遊興の場となり修行の邪魔になると考えられたことで、外来種の椛へ植え替えられた歴史が。
画僧吉山明兆が室町幕府四代将軍足利義持に絵を献上した際に感激した将軍は褒美に何を望むかと問うたところ、自らが修業に励む東福寺の桜並木をすべて伐採してほしい、遊興の地となっては修行できない故、というこうした顛末が様々な媒体で紹介されている。
観桜、なるほど当時から日本にはそうした優雅な、と思われるでしょう。ただこれを純粋な視点で考えますと、桔梗でも芙蓉でも紫陽花でもなく、観桜、なのですね。これは春に咲く、言い換えれば冬を乗り越えた、生き延びられたことへの感謝にほかならないのでは。
紅葉を楽しむ、平安貴族はじめ飢餓とは無関係な方々には冬は寒いだけ、というところなのでしょうが、なにしろ中世まで、いや近世以降でも冬は糧食の貯えを怠れば簡単に飢餓により生き延びられず、そして春に作物を植えても初夏までほぼほぼ収穫できません。
秋を楽しむ余裕が現代にはできている、これだけでも豊かになったのでしょうね。しかし遊興の場となってしまったではないか、という反論があるのかもしれませんが、それはそれ、現代の寺院は寄進と拝観料により存続できている故、修行がなりたつのですから。
禅寺、これは大陸から平安朝末期の時代に日本へ伝えられました新しい仏教の解釈でして、ちょうどこのころ日本では武士階級の勃興とともにその華美さを省いた様式と哲学的な側面が質実剛健を以て成り立つ武家集団の価値観と重なり、急速に信仰を広めてゆく。
釈迦如来を奉じる東福寺、その山号は慧日山といいまして、室町時代に禅寺の寺格を定めた京都五山では第四位の禅寺という位置づけを有しています。ただ、その割には堂宇伽藍が大きすぎ、ちょっと偉そうだということで、京都の町衆は東福寺の伽藍面と揶揄した。
東山区本町、東福寺は東山区のJR奈良線東福寺駅から徒歩で門までは200mほどの立地にあるのですが、そこからが塔頭寺院と宅地化された街区を縫うように歩み進め20分ほど行った先に在りまして、広い、旭川駐屯地や北千歳駐屯地のようにここはひろい。
臨済宗東福寺派の大本山の寺院でもあります東福寺、広大な寺域が一つの街のようだ、と思われるところなのでしょうが、実際に江戸時代には寺領を幕府から認められ、その年貢により寺院を維持していましたので、街のように広いのはある意味当然かもしれない。
法性寺という、どうして東福寺の様な巨大な寺院がここに造営できたのかを紐解きますと、此処にはもともと藤原氏の氏寺であった法性寺という巨大寺院がありまして、その立地を用い東福寺は栄えた、ただ、法性寺は実は東福寺駅前に残っているのですけれどね。
九条道家、もともとここ東福寺は禅寺として始まったのではなく、これもいつの時代も同じなのかもしれませんが、比叡山の延暦寺、国家宗教という位置づけの天台宗が禅寺を受け入れなかった時代に九条家菩提寺として造営された、という歴史がありました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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