■大回し!四条河原町の祇園祭
祇園祭山鉾巡行が形成された当時は京都の町衆から見た山鉾タペストリーに描く世界各国の情景は正に異世界そのものだったでしょう。
タペストリーが描く題材は多岐にわたります、函谷鉾は旧約聖書の舞台を示しているという、三井家に並ぶ鴻池家が函谷町には住まいがあったという。この一つとっても、そもそもバテレン追放令やキリスト教禁教令下で、これは許されたのだなあ、と驚いてしまう。
世界からと云いますが地域の特性もなかなか多岐です、保昌山は中国の官服をタペストリーに仕立てたもの、中国の美術品も数多いのですね。岩戸山を飾るのは18世紀インドの絨毯、ムガル帝国時代のもの。そして太子山のけん装品は孔雀や花々が刺繍されています。
輸入品を飾って終わるものではないという、例えば太子山のタペストリーですが、模様周囲は金糸で埋められているのですが、江戸時代には白地の織物であったという、そこで当時の町衆が一年間掛けて金糸で刺繍してうめた、のべ1000名の職人が関わった、という。
大衆を喜ばせるために周りよりも一番美しく、その精神で織り上げたのかもしれません。月鉾は円山応挙の美術がくまれ、ムガル帝国の絨毯が覆う。これをアメリカのメトロポリタン美術館が展覧に貸した際に分析が行われますと、単に価格が高いだけではないとも。
メトロポリタン美術館によればその歴史的価値、ものによっては現存するものは世界に数点という水準であることがわかりまして、驚いたという。メトロポリタン美術館の視点では基調というよりも製法が失われている為に文化的価値もあり、これが毎年並ぶのか、と。
安土桃山時代の京都、山鉾が最初から現代の方式だったのかととわれますと、そもそもが八坂神社へ向かう神霊を慕って町衆が幟を建てて行列でついていったのが始まりですので、それこそ平安朝の時代も鎌倉時代ももちろん安土桃山時代も江戸時代も変容している。
安土桃山時代末期、祇園祭の一つの時代は瓦屋根の建物は少なく、そしてその分外国の方々が多かったという、京都には南蛮寺があり宣教師も多かったという。考えてみれば欧州や中国に天竺とイスラムの品々を並べるには文化的寛容さが必要で、当時京都はそうだった。
宣教師の南蛮寺によりスペインやポルトガルの人々、勿論中国からの方々も一機する、まあ人数的には今の京都程では何しましても、当時としては国際都市となっていたと考えられる、江戸時代の鎖国と外国船打ち払い令が出された幕末の時代の方が特異とさえいえる。
フランシスコザビエルも京都にいまして、これは本能寺を定宿としていた織田信長が世界の話を好んで集めるために都市計画を行った、とも。その結果が、新しいものへの好奇心を集めるという勝った意図文化的寛容性、多くのタペストリーに反映されていまして。
豪商が多く集まりました新町通りでは、豊臣秀吉の影響が色濃く反映されていました。すると、織田信長と豊臣秀吉の時代にも祇園祭が執り行われていました。タペストリー伝来前には函谷鉾などに虎の毛皮、それこそ欧州攻城塔のような構造の時代もあったという。
織田信長と豊臣秀吉の時代、先ほどの虎の剥製や毛皮というように、武将が好んだ勇壮な猛獣の毛皮などで彩った時代もありまして、時代とともに移ろいます。江戸時代、疾病は雷の伝統行事であった祇園祭は豪商が競った江戸時代に祇園祭を賑やかなものとしまして。
豪商が力をつける事により町衆文化に根付く祇園祭は栄華を極めてゆきました、たとえば三井財閥の創始者にあたる三井高利は両替商などで成功しますと、美術品を多く有することが呉服商として、京都において目利きとして存在感を示すために不可欠だったという。
呉服商の美的感覚の発露、それが山鉾のタペストリーだったという。杉本家、かつて呉服店だったとのことですがここで俵屋宗達の屏風などを保管していまして、名品を披露することで目利きであり、ここの呉服は確かなもの、としていわばブランドを高めたのですね。
伝統や格式、京都はこう思われていますが実際には新しいものに寄せられる、考えてみれば日本初の集合住宅、今でいう文化住宅のアパートの前例は豊臣秀吉が作った町家なのですよね、今でいう町家は応仁の乱の時代には無かった、近代都市としての歴史の方が長い。
古都、という認識は長い歴史からみれば特殊ともいえましょう。しかし山鉾、江戸時代には建物が低く、山鉾の姿は今とは比較にならないほどに遠方からみられたのかもしれません、その山鉾はひとつ組むにも千両箱が必要だったという。式年遷宮のように建て替えた。
式年遷宮のように定期的に立て替えた、という視点ですが、これは定格化されていたものではなく焼失によるもの。こういいますのも当時の京都は火災が多く、その都度に豪商が組み直した、鉾建てとは的を射て、豪商の時代故に栄華の祇園祭が形成されてゆきました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
祇園祭山鉾巡行が形成された当時は京都の町衆から見た山鉾タペストリーに描く世界各国の情景は正に異世界そのものだったでしょう。
タペストリーが描く題材は多岐にわたります、函谷鉾は旧約聖書の舞台を示しているという、三井家に並ぶ鴻池家が函谷町には住まいがあったという。この一つとっても、そもそもバテレン追放令やキリスト教禁教令下で、これは許されたのだなあ、と驚いてしまう。
世界からと云いますが地域の特性もなかなか多岐です、保昌山は中国の官服をタペストリーに仕立てたもの、中国の美術品も数多いのですね。岩戸山を飾るのは18世紀インドの絨毯、ムガル帝国時代のもの。そして太子山のけん装品は孔雀や花々が刺繍されています。
輸入品を飾って終わるものではないという、例えば太子山のタペストリーですが、模様周囲は金糸で埋められているのですが、江戸時代には白地の織物であったという、そこで当時の町衆が一年間掛けて金糸で刺繍してうめた、のべ1000名の職人が関わった、という。
大衆を喜ばせるために周りよりも一番美しく、その精神で織り上げたのかもしれません。月鉾は円山応挙の美術がくまれ、ムガル帝国の絨毯が覆う。これをアメリカのメトロポリタン美術館が展覧に貸した際に分析が行われますと、単に価格が高いだけではないとも。
メトロポリタン美術館によればその歴史的価値、ものによっては現存するものは世界に数点という水準であることがわかりまして、驚いたという。メトロポリタン美術館の視点では基調というよりも製法が失われている為に文化的価値もあり、これが毎年並ぶのか、と。
安土桃山時代の京都、山鉾が最初から現代の方式だったのかととわれますと、そもそもが八坂神社へ向かう神霊を慕って町衆が幟を建てて行列でついていったのが始まりですので、それこそ平安朝の時代も鎌倉時代ももちろん安土桃山時代も江戸時代も変容している。
安土桃山時代末期、祇園祭の一つの時代は瓦屋根の建物は少なく、そしてその分外国の方々が多かったという、京都には南蛮寺があり宣教師も多かったという。考えてみれば欧州や中国に天竺とイスラムの品々を並べるには文化的寛容さが必要で、当時京都はそうだった。
宣教師の南蛮寺によりスペインやポルトガルの人々、勿論中国からの方々も一機する、まあ人数的には今の京都程では何しましても、当時としては国際都市となっていたと考えられる、江戸時代の鎖国と外国船打ち払い令が出された幕末の時代の方が特異とさえいえる。
フランシスコザビエルも京都にいまして、これは本能寺を定宿としていた織田信長が世界の話を好んで集めるために都市計画を行った、とも。その結果が、新しいものへの好奇心を集めるという勝った意図文化的寛容性、多くのタペストリーに反映されていまして。
豪商が多く集まりました新町通りでは、豊臣秀吉の影響が色濃く反映されていました。すると、織田信長と豊臣秀吉の時代にも祇園祭が執り行われていました。タペストリー伝来前には函谷鉾などに虎の毛皮、それこそ欧州攻城塔のような構造の時代もあったという。
織田信長と豊臣秀吉の時代、先ほどの虎の剥製や毛皮というように、武将が好んだ勇壮な猛獣の毛皮などで彩った時代もありまして、時代とともに移ろいます。江戸時代、疾病は雷の伝統行事であった祇園祭は豪商が競った江戸時代に祇園祭を賑やかなものとしまして。
豪商が力をつける事により町衆文化に根付く祇園祭は栄華を極めてゆきました、たとえば三井財閥の創始者にあたる三井高利は両替商などで成功しますと、美術品を多く有することが呉服商として、京都において目利きとして存在感を示すために不可欠だったという。
呉服商の美的感覚の発露、それが山鉾のタペストリーだったという。杉本家、かつて呉服店だったとのことですがここで俵屋宗達の屏風などを保管していまして、名品を披露することで目利きであり、ここの呉服は確かなもの、としていわばブランドを高めたのですね。
伝統や格式、京都はこう思われていますが実際には新しいものに寄せられる、考えてみれば日本初の集合住宅、今でいう文化住宅のアパートの前例は豊臣秀吉が作った町家なのですよね、今でいう町家は応仁の乱の時代には無かった、近代都市としての歴史の方が長い。
古都、という認識は長い歴史からみれば特殊ともいえましょう。しかし山鉾、江戸時代には建物が低く、山鉾の姿は今とは比較にならないほどに遠方からみられたのかもしれません、その山鉾はひとつ組むにも千両箱が必要だったという。式年遷宮のように建て替えた。
式年遷宮のように定期的に立て替えた、という視点ですが、これは定格化されていたものではなく焼失によるもの。こういいますのも当時の京都は火災が多く、その都度に豪商が組み直した、鉾建てとは的を射て、豪商の時代故に栄華の祇園祭が形成されてゆきました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)