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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

あんな自由、こんな自由も!(体験の解釈を変えると世界が変わる 3/15)

2011-02-06 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 3冊の本を今併読中である。一つは「プラハの春」(春江一也著)、1967年のプラハを題材にした元外交官による小説。一つは「キリスト論」(壺内弘吉著)、カトリックの神学者の著書。そして「愛と心理療法」(M・スコット・ペック著)である。

 全く繋がりのないような3冊であるが、≪自由≫を小説家、哲学者(神学者)、心理療法家がそれぞれの立場から描いている。生き甲斐の心理学でも勿論、心理療法家の立場で自由を描いているが、あらためて自由とは何か考え続ける大切さを実感している。

 ≪自由≫とか≪愛≫とか、大切なことは、生涯考え続けるべき問題なのだろう。何故なら、自分の大事な生活の理想領域を意識するにしろ、無意識にしろ形成し、日々の暮らしでの感情や行動の源泉になるものだからである。

 想えば、≪自由≫という自分なりの思考は、随分変わってきている。それは、ちょっとキザな言い方を許していただくとすれば、生き抜いてきた足跡のようである。

 青春時代、特に高校生の時の高校紛争は、一夜のうちに、自由といわれていた学園が極端に不自由になる現実を経験させていただいた。その中で、自分はどうだったのだろうか、一見好きなことができるサラリーマン生活に向かったが、それは自由とか自主性というものから逃げたのかもしれない。

 高校の恩師は、多くの先生が高校を去る中、その後も一教員として、その高校に亡くなるまで留まった。今考えると、それは自由な選択だったように思えてならない(人のことは自分のこと以上に判らないものだが)。

 ≪自由≫とは外見と余り関係ないようだと、最近気づいてきた。また、選択肢が沢山あればよいというものでもないようだ。選ぶというより深く受け入れるというのに似ている。

 受胎告知の時のマリアの言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。最近何でこの言葉が好きなのか、だんだん判ってきた。これは自由の究極の姿でもあるのだろう。

体験の解釈を変えると世界が変わる 3/15

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