先日、夕方に多摩動物公園に行ったとき、カンガルーのところに近づくと多摩動物園の職員さんが、丁度掃除を始めるところであった。写真が撮れないかなと思っていたら、さっとコンクリートの地面を掃き清め(いつもは丸いフンが一杯散らばっている)てしまった。
綺麗になったところでのカンガルーの写真がこれである。
さて、カンガルーの私個人のイメージは、この一年で随分変わってしまった。テレビで有袋類の・・確かBBCのドキュメンタリーを観たことが大きかった。
オセアニアという海に囲まれた地域で、他の大陸ではすでに滅びたカンガルーなどの動物が、のんびりと生き残ったというイメージであったが・・・最近の研究によると、そうでもないようだ。オーストラリアの厳しい環境の中で、有袋類が生存に適し生き残ったという説が確かになりつつあるようだ。カンガルーのような袋ではなく、お腹の中の子宮で赤ちゃんを育む哺乳類のほうが生き残れなかったようだ。
独特のカンガルーの走る速度や効率も、通常の四足動物よりも優れているようだ。カンガルーは哺乳類の化石・・・のように従来思っていたが、そうではない。科学がそれを究明しつつある。
ここで、話は飛躍するが、自分の成育史上の宗教観も随分変わって来た。私は、幼児洗礼を受けたカトリック信徒(キリスト教)であるが、幼いころからの宗教との関わりは次のように変遷してきた。そして、恐らく人生そのものに大きな影響を与えている。
カトリックー>有神論的ではあるが(神がいるという信念には至らない)、特定の宗教を信じないー>カトリック
高校生くらいからカトリックも、昔のカンガルーのイメージのように古臭いと感じ、離れて行った。これは、様々な要素がからんでいる。防衛機制の転位などの影響もあるだろう。大事なことなのに、しっかりと納得できるほど知的に対決しなかったという中途半端さもあった。日本の伝統的な宗教・文化の影響もあっただろう。
そんな私がカトリックに再度出会ったのは、ある意味では幸運であった。もしそのままであれば、生き残ることができたであろうか?・・・そんな時期まであった。今日は随分、飛躍の連続であるが、源氏物語の浮舟が、宇治川に身を投げて聖に救われる・・・そんな劇的な変化も勿論小説のように華やかではなかったが、あった。
今の日本の現状で、特定の伝統宗教を信じ帰依することは意外に難しい。自分がカンガルーのことを見直すのと同じようだとも思う。その見直しの糸口は、知識かもしれないし、とてもリアルな何か実感のようなものかもしれない。
体験の解釈を変えると世界が変わる 5/15