2月28日より3月2日の昨日まで、小旅行に行ってきた。行先は縄文小説を書いているときから訪れたかった、縄文時代の天文台ともいえる飛騨の金山巨石群。さらに、今年のテーマ「持統天皇」に関係する飛鳥南方の壷阪寺と草壁皇子の墓と言われる束明神古墳、さらに天智天皇の時の遺跡として有名な水時計の水落遺跡、前回ゆっくり見られなかった二上山のそばの当麻寺、さらに伊勢神宮と斎宮歴史博物館。小旅行にしては欲張った旅であった(身体は疲れたが心はイキイキ)。
ちょうど今、自己実現のテーマでブログを書いていたが、その収穫も大きかった。さて、今日はその小旅行の初日の金山巨石群について述べたい。
早朝に八王子から車で約5時間。下呂温泉から約30分の岩屋ダムのそばに岩屋岩陰遺跡があった。2月28日の11:00に到着したので、閏年を観察できる10:00のスポット光には間に合わなかったが、18年の観察データをもとに作られた「金山巨石群の縄文太陽観測ガイド」の著者の一人のTさんのガイドでみっちりと巨石群を堪能させていただいた。
この遺跡は、余り知られていない考古天文学で語られる分野であり、世間では殆ど知られていない。しかし、知れば知るほど、青森の三内丸山遺跡以上に縄文の祖先の偉大さを感じることができる画期的なものた。
その内容は、山奥であるにも関わらず人為的に巨大な巨石を加工・移動して、太陽光や星空から高精度の暦を求められるようになっているだけでなく、観念的なものではなく、身近な生命体と結びつく時間・暦で、恐らく当時の専門家以外の大人や子供が実感でき、生きた知識になるように工夫されているようだった。
Tさんによると毎年夏の時期になると岩屋で子育てをする蝙蝠は、観測開始してから毎年判で押したように来て同じ数の子供を育てるようだ。もちろん、蝙蝠だけでなく、周辺の多様な森の生命は正確に時間を刻んでもいるのだろう。それゆえに、縄文時代の祖先は冷蔵庫もスマホもない時代に、多様な生命の恩恵を暦を把握することによって得ていたのだろう。何百もある植物の中で、今日が特定の野草が旬であることを知ったり。
この遺跡の古さは古代天文学の知見から、最後に使われたのが3000年前(縄文晩期)とされているが、それ以上であることは他の遺物等で確実なようだ。それは、エジプトの太陽暦をはじめ今まで知られている古代の暦にひけをとらない。
(太陽を観察する場所も加工されて確保してあり、そこから春分や夏至の太陽の位置も正確に読み取ることができる!)
(有名な縄文の祖先が刻んだ太陽の光の方向を示す線刻と、スポット光の形の目安。形から夏至を決めることができる)
(北斗七星の観測等に使ったと思われる岩に刻まれた世界各地の遺跡と同じ反転した北斗七星の図)
(北極星を観察するために35度の角度の傾斜の岩があるのも凄い)
(微妙なスポット光を作るために巨石をどのように移動したり加工したかは不明だが、ちゃんと必要な穴ができている。)
(ちょうど2月28日は、祖先も恐らくスポット光から割り出した閏年の判定日であった。閏年が観念的なものでなく、観察してわかるようになっているのは驚きだった。スポット光は四季や二至二分を観測できるようになっている)
さて、最後にこの遺跡を作った祖先は、いったい何のために作ったのかをご一緒に考えてみたい。私たちもそうだが、短い人生の中で何のために・・・と考えることは大事だ。恐らく遺跡の設計者は地球の一年の周期を正確に知りたいと考えたことは間違いないだろう。それは実用的な意味からすると当時でもあまり役にたたないことだったと思う。数学の整数論の世界が暗号で若干役立っているが、そのほかには今の世の中に営利的には貢献していないのに似ている。しかし、真理を探究することは人間の持つ不思議な傾向であり、それ自体は尊いことだ。
美の世界の探究もあったように思う。冬至の太陽が沈む様は私にとっては感動を覚える世界だが、飛騨の山中でこのような巨石を通して太陽や星空を見ることは大きな意味があると思う。固定した視座から清々しい太陽の光をみて幸福を感じることもあると思う。
さらに、暦は部族が生き残るための衣食住に関係する大事な情報ともいえる。従って、特定の人の道楽ではなく、子孫に伝える教育や社会の構成員への教育も兼ね備えてなければならない。この遺跡は、複数の岩から観測が多角的にできるようになっていて、冗長かもしれないが、あらゆる人や動植物にやさしいようにできている。なにか、村の切れ者というより、偉大な知恵をもった年寄りのような、善そのものの存在のようだ。
以上のように真善美の面から考えても、この遺跡は素晴らしいと思う。
新春の旅 1