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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

草壁皇子に会いに行く!(新春の旅 2)

2017-03-05 | 旅・雑記帳

 3月1日の早朝、やっと草壁皇子の古墳に出会えた。昨年、推古天皇陵や孝徳天皇陵、牽牛子塚古墳(斉明天皇の御陵と言われている)に行けたものの、草壁皇子の御陵といわれている束明神古墳にはたどり着けなかったからだ。

 今回は、ネットでしっかりと調べて、近くの公民館に車を止めて行った。束明神古墳はこちら・・といった標識がいくつかあり、それに従ってやっと見つけた。古墳は春日神社の長い階段を上ったところ、春日神社境内にあった。

    

  

宮内庁が認可した御陵ではないが、案内板があり草壁皇子の墓とほぼ認定されていることがわかる。八角形古墳であり、墓石等の状況から殆どそうだとされている。草壁皇子の歯と推察される歯もでている。

天武天皇と持統天皇の子供であり、天武系の血筋で元明天皇と結婚し、文武天皇を産むが28歳で夭折する。束明神という名前が何か思わせぶりなのだが、草壁皇子が残した唯一の歌が万葉集巻第二 110にある。

 日並皇子尊、石川女郎に贈り賜ふ御歌一首

 大名児を(おおなごを)

 彼方野辺に(おちかたのへに)

 刈る草の

 束の間も(つかのあいだも)

 我忘れめや

 石川郎女(いしかわのいらつめ)と大津皇子が交わした有名な万葉集の名歌の陰で、小説などでは三角関係に敗れたかわいそうな草壁皇子といったイメージがあるが、この歌はなんとも深い。一般には歌も大津皇子に劣ると言われているが。

 彼方野辺に・・と遠方の観念的な世界から、刈る草の束の間と現実的な今ここの世界に至る、カメラで焦点を合わせるような感性は何だろう。それは、現実的な石川女郎を通しての神秘の世界のようだ。キーワードは束で、これは短い草壁皇子の命を暗示しているようだ。白村江の唐との戦い、敗戦後の混乱、そして壬申の乱での内戦、そして複雑な政権の中で早逝する。短い生は、大津皇子の死と共に何らかの政治的犠牲者であった可能性を想わせてしまう。

 しかし、その生は短いながら日本の歴史に残した意味は大きい。草壁皇子が居なかったら、持統天皇も天皇になれなかっただろうし、ひょっとしたら壬申の乱の結果も違っていたかもしれない。歴史にもしもは禁物かもしれないが、これまた束の意味を感じてしまう。

 草壁皇子の時代、私の祖先はどうしていたのだろうと妄想する。2の階乗で祖先の数は増えていくのだが、父方の祖先は、どうも瀬戸内海で活躍していたようだ。越智氏と関係が深いようだが、越智は白村江の戦いで奇跡的に生き残った氏族のようだ。2万人の日本(当時は倭国)の船団が壊滅したとき、どのように生き残ったのだろうか。そして、古代の関ケ原の戦いのような壬申の乱のとき、白村江の戦いで殆ど戦力を失った西国の祖先は、草壁皇子をどのように見ていたのだろうか。

 この草壁皇子の墓。物寂しいものを感じた。草壁皇子自体のこともあるが、この墓の歴史も悲しい。明治時代の廃仏毀釈の時代に、草壁皇子の墓との情報が当局に入ったため、村を追われてしまうかもしれないとの村人の不安から、この墓自体を破壊しようとする人もいたようだ。明治という時代は、1000年以上前に作られた草壁皇子の墓にとっても、不思議な時代であったようだ。

そして、束明神古墳はひっそりと今も神社の境内に残されている。草壁皇子の魂は何を伝えようとしているのだろう。

新春の旅 2

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