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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

孫娘の書置き・・・(愛と親密性と孤立感 3/10)

2017-03-18 | 第九章「愛」

 先日、夜遅く仕事から帰宅すると、私の部屋のドアに子供の字で張り紙があった、

「おかえりなさい。おとうさま。おばけやしきは作りおわりましたよ。」

 そして、部屋の中に入ると張り紙がいろいろなところにべたべたと貼ってある。怖いお化けの絵も。

 その日、孫娘が我が家を訪れたとき、お化け屋敷の話をしていたのたが、仕事の時間となり孫等をのこして仕事に行った。その後、孫が一人妄想の世界からか?お化け屋敷のストーリーを考案し、見学者への指示書をいろいろ考え、それをいろいろ貼りまわったようだ。孫は、私が夜遅く帰宅するのを知っていたため、先の張り紙をドアにつけて帰ったのだろう。

 小学生低学年の孫であるが、文字を書けるようになり置手紙を残す。それも、何か心温まる文字だ。

 さて、この二年私は縄文小説を書いてきたのだが、5000年前に日本に文字はあったかどうかという問題は悩ましかった。世の中の学者の大半は縄文時代に文字はなかったというのが殆ど定説だったので、同時代のメソポタミアに文字が存在していたわけなので、日本には文字を拒絶する反文字文化があり、それゆえに文字はなかったという仮説ですすめた。

 その大きなポイントは、文字は人間の統治のための道具に過ぎないため、魂をもつ人間と平等性を信じている文化では文字は受け入れられなかったというものあった。

 しかし、良く考えると孫娘の書置きのように、文字の本質は支配というより情のこもった情報伝達なのだ。文字通り情けや愛を伝えるのが本質だと気づいた。それは、聖書や仏典のように叡智になる。

 さらに、先日の飛騨・金山の巨石群を見て、縄文時代の知的レベルの凄さに驚嘆をしただけでなく、明治以降に林道の障害となっているのでダイナマイトを仕掛けてもガンとして砕けない固くて重い巨大な岩でどう構築したのかという疑問を得た。巨大な岩はその地磁気から、その場所にあったものではなく、どこからかもってきていることは確かだそうだ。そんな、移動したり加工できる文化とはなんだろうか。進んだ交易が縄文時代にあったことは考古学からもある程度言えるが、巨大な岩を天文台のようにする大事業がエジプトやマヤと同じように日本の古代にあったとしか考えられない。もう文字なしでは考えられない。

 今の世の中=常識には実に不可解なところがある。例えば、「神がいることが証明できないから神はいない」そんな議論がまかりとおる。「神がいないことを証明できないから神はいる可能性がある」という風に考える人は意外にすくない。同じように縄文時代に文字がないと考える人は「文字が存在した証拠がないから文字はない」というような論理だ。この100年もたてば骨も溶けてしまう酸性の土壌が一般の日本に何が残るのだろう。しかし、文字がないことを証明したわけでもないことも事実だ。

 私は縄文小説の中で、中里貝塚の水産物工場遺跡を文字なしの文化の中でどう実現していったかを思考実験した。しかし、どうも文字がないのは不自然なように思った。そして今回の金山巨石群。日本の古代文字について若いころに調べたことがあるが、もう一回熟慮してみる必要を感じた。

 ところで、孫の「おかえりなさい。おとうさま。おばけやしきは作りおわりましたよ。」。これは、何か「愛と親密性と孤立感」というテーマに微妙に触れていないだろうか?

愛と親密性と孤立感 3/10

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