外国語を学ぶことが学問だとは私は思ったことがない。なぜなら、英語を話す国に行けば、英語はほとんど誰でも話すからである。
先日のドイツ語の今期の打ち上げ会でドイツ滞在が4年にも及んだOさんが自嘲気味に外国語を学ぶのはいつまでも猿真似をしているに過ぎないと言われていた。
それで私は彼が「ドイツ人の若い知人と話すときにあなたはそのときでもまず日本語で考えてそれをドイツ語に訳しているのか」と聞いたら、それは「そうではない」という。だったら、幾分かは知らないが、すでに猿真似を脱しているのではないかと。
猿真似うんぬんは別としても確かに母語ではない言葉を話すとき、読むとき、書くときにはいつも難しい問題がある。
トルコ人のドイツ語作家が母語でない言葉を学ぶということについて昨夜のテレビのドイツ語の講座で話していたが、いつまで経っても到着しない旅に出ているようだという。
彼女はそれについて日本のことわざとかを紹介したが(そのことわざを私は聞いたことがない)、それによると「旅は目的地に着かなくても途中が楽しい」というのだそうである。
要するに外国語を学ぶことは目的地に永遠に着くことが出来ない旅に出ていると思えばよい。そしてその旅を楽しみなさいと。そのトルコ人作家は日本で言えば、芥川賞のような権威ある文学賞をドイツで数年前に受賞したらしい。
ドイツという国に住んでいれば、自然とドイツ語が母語の代わりに部分的にしろ入れ替わってくるということもあろうが、日本にいてドイツ語に触れるチャンスのあまりない私たちにとっては確かにそのドイツ語が母語である日本語に代わるということは考えられない。
もっとも第1外国語であった英語とは、私にとって第2外国語のドイツ語が入れ代わるということはいくらかあって、先日在日のアメリカ人と数時間話す必要があったのだが、「信頼できる」という語が思いつかずそれに当たるドイツ語のzuverl"assigという語だけが思い出されて困った。
後でreliableだったなと一日ほどして思いついたが、それはあまりにも遅すぎた。