物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

索引の重要性

2024-05-18 09:53:52 | 数学
どんないい本でも索引のない本の利用価値は半減する。

これは心にとめておかなくてはならない。とは言いながら、自分の書いたはじめての著書『数学散歩』(国土社)には索引をつけていなかった。だから、これは自戒の念を込めての繰り言である。

偉い著者の先生の本に「索引をつけて」と言えない編集者も多いのかとは思うが、それなら編集者が索引をつけるくらいの見識がほしいと思う。 

宇沢弘文先生の数学の本がある。『好きになる数学入門』(岩波書店)全6冊だが、これにも索引がない。とてもいい本だとは思うのだが。私の持っている版は新装版だが、これに索引をつけてくれていたら、本の有効性はさらにアップしただろうに。この本の場合は高校生の学習者にしか頭がいっていない例であろうか。

目次のない本はないが、それだけではやはり有用ではないと思う。もう一冊あげると『ピタゴラスからオイラーまで』(海鳴社)も有用な本だと思うのだが、惜しいことに索引がない。これは本を読まないで索引でいろいろ検索することの多い私の注文である。

ちなみに、『ピタゴラスからオイラーまで』ははじめから終わりまできちんと読んでいる。もっとも読んだ順序は始めから順に読んだわけではないが。私は数学の本でも関心のあるところから、読むようにしている。もちろん読めればの話ではあるが。

遠山啓『数学入門』(岩波新書)の上巻を1989年に読み返したときに、最終章の「複素数」から順に逆戻りに1章づつ読んだ記憶がある。初版は1959年でこのとき私は大学生の2度目の一年生だった。そして、下巻も1989年に始めて読んだと思う。

『好きになる数学入門』に話をもどせば、この本で数学を学ぶ高校生の学習者はそれほど多いとは思えない。

だとすれば、この本は高校生の学習者向けを装った、一般人向けの数学の書ということになろうか。それなら、私のような要望が出てくるのを理解していただけるであろう。


全体的な成功ではないが、

2024-05-17 07:16:55 | 本と雑誌
第二余弦定理の証明図の作成だが、まだ全体的に出来上がっているわけではないが、昨夜少し前進した。

つくっている途中のPDFの文書の図をコピーしてここでお見せできるかといまちょっとやっては見たが、できなかった。

できているPDFの文書をワードか何かに変換すると、ここにもコピーできるかもしれないと思うが、いまのところまだそこまで試みてはいない。

三角形の辺の上に3つの正方形を描くことには成功した。tikzmathというので三角形の内角を計算しているのを見て、それをそのままlatexの文書に入力して見たが、これはどうしたものか成功しなかった。tikzmathはライブラリーなので、それを使うということをプレフィックスに載せたつもりだが、コピーのそのままでも動かなかった。

それでしかたなく、カシオ計算を利用することにして三角形の位置座標を計算してそれをtikzに入力して図を描いたという訳である。

まだ垂線を引くことが残っているが、なんとかやれるだろうと考えている。ここ数日は頭を悩ませたが、ほぼ解決の方向に向かっていると思う。

何でもあくせくしてみるものだ。


一般的な説明図を描けないか

2024-05-16 12:31:31 | 本と雑誌
昨日に続いて第二余弦定理の説明図の話である。

今朝、インターネットからプリントしたコピーを見ていたら、三角形の図(詳しくは三角形の外接円)を描くことが説明されてあった。

だから、私が特別の三角形の内角を設定して第二余弦定理の説明図を描こうとしているのだが、もっと一般的な説明図を描けないのかという疑問が出ている。

もちろん、はじめから私だってある具体的な設定で説明図を描こうとしたわけではない。

だが、どうもそういう一般的な方法で具体的な設定で説明図を描くことを思いつかなかったので、ある特定の角度を設定して描くことにしたのだった。

だが、もう一度その考えにゆり動かされている。どちらにしてもその解決は見通せていない。


第二余弦定理の証明図

2024-05-15 20:38:42 | 数学
昔、書いていた第二余弦定理の証明図を描こうとして悪戦苦闘している。これは知っている人には良く知られた図形なのだろうが、ピタゴラスの定理を証明するときに三角形の面積の等積移動で証明する有名な証明がある。

あれを一般化したような図形である。一般の三角形であり、直角三角形ではないので、tikzで描くのに苦労している。三角形の3辺の上に(図によっては下にだが)正方形を描く。斜辺を下にして図を描こうとしているのだが、斜辺の下の図はすぐに描けるのだが、上の辺の上に描こうとしている正方形をどうやって描くのか。あまりアイディアがない。

ここで困っている。第二余弦定理はこの証明以外にも証明法はいくつもあるのでこの証明を使って証明する人はあまりいないと思える。

しかし、この証明法はピタゴラスの定理が余弦定理の特殊な場合であることを教えてくれることで大いに役立っている。

午前中は病院に行った

2024-05-15 14:06:31 | 本と雑誌
午前中は病院に行った。もっとも10時半くらいに行ったのだが、帰って来たのは12時半ころだった。もっとも病院には歩いて3分くらいである。

妻が元の住居の近くにある病院に行くとなると車を出す必要があるので、「近くの病院に行け、行け」とうるさかったので仕方がなかった。

もっとも、それで前の病院には義理のわるいことをした。これは転居のためで仕方がなかった。もっとも転居といっても身柄が移って来ただけだから、あまり自分では転居したとかいう意識はない。

しかし、現に四六時中、体が今の住居にあることは事実である。あまり自分で自分の体を大事にするという考えがない。どうも医師の先生から見たら、おざなりのどうしようもない輩ではあるのだろう。

ただ、体のどこかが痛いとかいつも気分がわるいとこだと仕事にならないだろう。あまりそういうことが感じないですんでいる。





手取り足取り

2024-05-14 10:53:01 | 本と雑誌
ある老齢の女性にスマホの使い方を教えている妻が、私が中学生に初歩の代数を教えあぐねていることを知ってスマホの教え方と同じように教えたたらいいと助言してくれた。

これは、自分でやって見せて、それと同じことをやってもらう。それができたら、二人で同時に同じことをする。そしてそれができたら、一人でやってみてもらうという三段階である。

なるほど、なるほど。妻ももう若いということはない年齢だが、それでも同年代の女性とかより高齢の女性にスマホの使い方を教えているらしい。

できない、できないという方もある中でそういう不平を漏らさずにスマホの使い方を学ぼうとするとする90歳を越えた方がいるらしい。まったくそういう器具を使うことなど頭にない私など学びたい態度である。

またまた深みにはまりそうな

2024-05-13 10:51:30 | 数学
またまた深みにはまりそうな感じがしている。

私が四元数に関心を持ったきっかけは、いわゆるCauchy-Lagrangeの恒等式と言われる恒等式に関心を持って、その証明を見つけることから始まった。

私はこれが私の単なる個人的な経験によるもので、あまり正統的な道ではないのかと思っていたが、どうもそうではなくて、かなり正当な道だったということをごく最近になって、意識し始めている。

それで、八元数とかフルヴィッツの定理とかフロベニウスの定理とか、多元環だとかが、かなり数学の本道を行くものだとの認識が最近できてきた。

そうすると、そういうことを書いた本を読む必要がでてくる。しかし、そういう本はやさしく書かれたと称する本でもそうやさしくはない。大体「数学の劣等生だった私にそういう事柄が理解できるのだろうか」という根本的な疑問が出てくる。

「いかん、いかん、そういう弱気がいかん」という心の声もするのだが。はてさて?

比と比の値

2024-05-12 11:14:24 | 数学
元気象省庁長官だった和達清夫さんの数学についてのエッセイで中学校のとき、数学の先生から「比とは比の値のことです」と説明があって、目から鱗が落ちたような感じがしたという述懐があった。

比とはなにかよくわからないと感じる人は多いと思われる。ご多聞に漏れず私もそのうちの一人だった。

昨日の午後、ただ塾の数学の教師ということで教育会館に詰めていたとき、私の友人のEさんから比とは比の値のことだと、これは言葉ではなく式で示された。また、ただ塾に来ていた2年生君もそういう風に学校で教わったと言っていた。

それでようやく現在の中学校の数学教育が私の受けた頃よりも進んでいることを知った。また友人のEさんは70年以上昔だが、進んだいい数学教育を受けていたということもわかった。

昔は
 a:b=c:d
が成り立てば、「内項の積は外項の積に等しい」、すなわち、ad=bcという等式が成り立つとあまり理由を教えないで覚えさせられた記憶しか残っていない。

それで上の比例式を私などは嫌って
 a:b=c:d
と書かれていれば、即座に
 a/b=c/d
と書くことにしている。これなら等式であるから両辺にすぐに同じ数bdをかければ、
 ad=bc
が導かれる。要するに現在の数学教育で「比とは比の値のことである」ということを教えられているのを、私は自前で実行していたことになる。

こういうことをどこで学んだかというと、私の場合には大学受験のために化学の計算問題の解き方を、津田栄先生の学習参考書を学んでいたときに自然に覚えた方法である。津田先生の本に詳しくそういう説明があったわけではないが、そういう風に考えてそこから学んだと思う。

私の亡くなった長兄は中学校の理科の教師であったが、彼も私と同じに
a:b=c:dが出てくるとa/b=c/dとするように教えていたらしいことは、彼の生前に何度か聞いたことがあった。

彼もまた私と同様に比例式で「内項の積は外項の積に等しい」ということが、数学的にどこから来るのかわからないという理由であったと彼から聞いていた。

a:b=a/bであるのならば、同様にc:d=c/dであるから、a:b=c:dから直ちに
a/b=c/dが得られて、ad=bcも出てくる。少なくとも長兄や私が学んだ頃の数学教育は今とは違って理不尽なものであったに違いない。

だが、そういうことは愛媛県では70年以上の昔はまかり通っていたのかもしれないが、他県、少なくとも、Eさんの育った、茨城県ではそういう教育ではなかったらしい。

ただ塾の数学の教師としてある時間をある場所に詰めているだけではなくて、貴重な経験をさせてもらっている。

今でも理系の人の書いた文章に比例式のままの表現がときどき見受けられる。だから、私は私の受けた教育が愛媛県にだけあったとは思っていない。全国津々浦々まで浸透していたのだろうと思っている。だが、それも現在では変わって来ているということだ。





マロン・グラッセ

2024-05-11 11:50:36 | 本と雑誌
お隣さんから、高級なお菓子であるマロン・グラッセを頂いた。それでマロンとは何だったかということが夫婦の間で議論になった。

マロンは栗だったと妻が言うので、フランス語の辞書を引いてみた。確かにmarronは栗である。つぎにグラッセであるが、はじめラをraと思っていたので、grasseを見つけたのだが、どうも意味がうまく合わないような感じだった。

それでイタリア語の小辞典を引いてみたら、marrons glaceeがあった。それで綴りのrとlとまちがえていたことにようやく気付いたというお粗末である。

glacesは砂糖でくるんだというような意味であった。これはお菓子そのものと一致している。その後でマロン・グラッセの包みの文字を見たら、ちゃんとmarrons glacesと書かれていた。glaceというとアイスクリームを思い出す人もおられるかもしれない。氷とか食べるアイスクリームとかと関連した語である。

ちなみに、glaceの最後のeの上にはアクサン・テギュがついている。フランス語eではこのアクサンも綴りの一部なのだが、私にはアクサンを入れる技術がないので、失礼する。

(2024.5.12付記)
Seraさんに教えられてeアクサン・テギュを入れて見たのが、
  glacé
である。うまくいったが、しかし、いつもこうやって変換するのはめんどうですね。さてどうしたものか。

Seraさんコメントありがとうございます。



代数の初歩をどう教えるか

2024-05-10 14:46:38 | 数学
中学生の数学のただ塾の先生となってほぼ1か月だが、まだ本格的に始動していない。

いくつかの教材を持ってはいるのだが、私の自前の教材は高校生以上であるので、もちろんはじめは代数の初歩から書いてあるのだが、その中にはすぐに分数式とかも出てくる。

この部分は中学生には難しすぎる。そこまで行くところだけ使えばいいのではあるが、どうしたものか思い悩んでいる。私の教材では負の数は導入されていない。というのは負数はもうすでに知っているという想定だからである。

さらに、数とか数式とかには計算の順序を習得しておくことが必要である。こういうことがわっと一挙に中学生君にはすべて襲いかかってくる。それらを一つ一つ修得していかねばならない。

それらはそういうことを習得済みの私たちにとっては何でもないことだが、初めて出てくるときには、立ち振る舞いに小うるさい近所のおばさんか、なんでも事毎に注文を付けてくる母親みたいであるので、面倒だと感じるのかもしれない。

もう私などはそういうときのことについては、思い出として何も残っていないので、なかなか中学生君の気持ちがわからなくなっている。これでは困るのだが。

ただフアィルしただけだが、

2024-05-09 11:29:15 | 本と雑誌
ただフアィルしただけだが、自分のやっていた仕事の一部の全貌が明らかになってきた。

昨夜、自分の机の上とかその近くにある書類を分けて、ファイルした。その後でそのファイルを眺めていると、一か月以前だったかにしていた仕事(とはいっても私の場合には、前に書いた数学エッセイの修正とか書きかけの原稿であるが)のことを思い出してきた。

仕事が完成していないうちに、あれこれ気が変わっていろいろ手を付けるという習性が私にある。そういう様子がただ書類をファイルしただけだが、わかってきた。

それに伴い、数学エッセイの書きかけの原稿の見つかった。なかなかこういう仕事は簡単には終わらないので、書きかけの途中の原稿もあっても自分でも忘れてしまうのだ。それが今回ファイルしたおかげでわかってきた。

ファイルするということに、こういう効用があるとはいままで知らなかった。大体、私自身はなんでも物持ちのいい方であるが、ここらあたりが何でもすっぱり捨ててしまうことを躊躇しない妻といつもぶつかるところである。

今回も、私の購読してきた雑誌を捨てると言ってきかない妻を納得させるためにもう半世紀以上のわたって取ってきた岩波の雑誌「図書」を資源ごみとして、リサイクルに出すことに同意した。

私のラジオとかのフランス語、ドイツ語のテキストを資源ごみとして、リサイクルに出されそうだったのでしかたがなかった。今住んでいるところではおよそ20年数年分だが、旧居にはその上にさらに20年以上のテキストがたまっている。

なにしろ、1977年にドイツから帰ってからの分だから、これくらいあっても当然ではあるのだが。

こういうことを書くと世の人は、妻に同情するのが当然であろうか。

私自身は自分の知的作業の一環を何とか後世に残したいという思いが底辺にはあるのだが、そういう思いは妻にはまったくわからない。


またまた遅くなったが、

2024-05-08 14:21:28 | 本と雑誌
またまた遅くなったが、これはまたいつものように自分のブログで検索されたものを読み直しをしていたからである。

自分の書いたものだが、こんなこと考えていたんだとか、書いていたんだとか、なかなか興味津々である。

過去の自分はまるで他人である。その時々の文章だが、まるで自分ではないかの如くである。自分の再発見とでも言ったら、いいのだろうか。

極端にいうと、「自分がこんなことを書くとは」と思わされることが結構多いかもしれない。

「神は細部に宿る」ドイツ語

2024-05-07 12:44:46 | 本と雑誌
インターネットで検索してみた。(以下引用)

(引用はじめ)
神は細部に宿る:Der liebe Gott steckt im Detail.
「神は細部に宿る」、”Der liebe Gott steckt im Detail.”(美しき神は細部に宿りたまう)は、ドイツの美術史家アビー・ウォーバーグや、ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエが好んで使ったとされています。
(引用終わり)

 Der liebe Gott steckt im Detail. 
 
 デア リーベ ゴット ステックト イン デタイュ

のaoyamaの直訳は「神様は細部に潜んでいる」である。im DetailのDetailはフランス語であり、ドイツ語でどう発音するか知らないが、たぶんデタイュと発音したと思う。Detailの文法上の性はわからないが、男性名詞か中性名詞である。

いま、辞書で確かめたら、Detailの文法上の性は中性名詞でした。また念のためにsteckenの意味を独和辞典で調べたら、私の予想していた「隠れている」の意味ではなく、「突っ込む」とか「差し込む」であった。

そういえば、「電気のコンセントをSteckdoseと言うな」と思い出した。

エッセイの改訂は終わったが、

2024-05-06 11:27:15 | 本と雑誌
エッセイの改訂は終わったが、むしろこれからが大変である。読み直すのが。

また細かな字句の修正とかもある。これが意外と時間がかかる。気持の上では大筋ではエッセイの改訂は終わったのだが、むしろこれからの時間の方が大量にかかる感じがしている。

「神は細部に宿る」という、ことわざか哲人の言葉があるらしい。その意味は知らないが、まさにその通りという気がするから、不思議である。

「神は細部に宿る」という文句は物理学者の武谷三男の盟友であった、哲学者の久野収さんの座右の銘でもあったらしい。「神は細部に宿る」は原文はドイツ語なのだろうか。

 Gott liegt in Einzelheiten. 
 ゴット リークト イン アインツェルハイテン

なんていうのだろうか(付記参照)。liegtをstehtとした方がいいのだろうか。

(2024.5.8付記)Der liebe Gott steckt im Detail. であった。ちなみに手紙のはじめの文句としてLieber Herr Kishida, ・・・という風に始めるのだが、このときは形容詞が強変化をしている。der liebe Gottというときには定冠詞derがついているから、弱変化してliebeと語尾eがついている。

こういう細かいことを言うから、ドイツ語は嫌われるのだが。とか、知ったふりして書いたが、私自身は自信がない。ちょっと文法書を参照して見ようか。






「Levi-Civitaの記号」再論について

2024-05-05 11:15:59 | 物理学
『「Levi-Civitaの記号の縮約」再論』というのは、私が昔書いた数学エッセイである。

小著『物理数学散歩』(国土社)にもこのエッセイは収録されているが、このエッセイの改訂を現在行っている。二つのLevi-Civitaの記号の積をKroneckerのデルタの4つの積として表し、それらの和の各項の係数を決める。

このプロセスが長いので、それをコンパクトな表にしている。この表の入力をする必要があるのだが、昨夜遅くこのうちの主要で大きな表の入力を終えた。

もう一つの表の入力が残っているが、こちらは既に入力済みの表に比べれば、断然簡単である。だから一応のエッセイの改訂は今日中には終わるであろう。もっとも見直しが何回も必要なのだが。

このエッセイの続きとして『「Levi-Civitaの記号の縮約」再々論』という数学エッセイもある。これも上に述べた『物理数学散歩』に収録してある。

ベクトル解析を学んだときに複雑だと思った、ベクトル解析の公式はほとんどこのLevi-Civitaの記号の縮約公式がわかれば、面倒なく導けるという、魔法のような記号である。

さすがに最近のベクトル解析のテクストで、これについて言及のないテクストはたぶん売れない。だから、ベクトル解析のテクストではLevi-Civitaの記号の縮約公式についての言及のない、テクストはないだろう。

もっともスペースの関係でその説明の濃淡はいろいろであろう。Levi-Civitaの記号の縮約公式に真正面から取り組んできた、私の書がある意味で貴重と思われたのも頷ける。

もっとも私みたいに過剰にLevi-Civitaの記号の縮約公式にこだわるのは生産的ではなかろうが。

まあ、これは徹底した理解とか納得感を欲する私の気質なのでしかたがない。人は「それぞれ自分の器量でしか生きられない」と痛感する。