なぜ男はミラーを拭き始めようと思ったのか?
なぜ男は自分の行為を語ろうとしないか?
寡黙な男はひたすらカーブミラーを拭き続ける…。
4月20日(水)午前、ちえりあ(札幌市生涯学習総合センター)で表記の映画会があった。
平日で、しかも無料、時間と暇だけはたっぷりとあるシニア層(私もその中の一人)の男女が大挙押しかけて会場は満員だった。
映画は緒形拳(今は故人となってしまった)が演ずる主人公がカーブミラーを懸命に拭き続けるというものである。
そもそものキッカケは主人公が起してしまった小さな交通事故なのだが…。
主人公は事故現場のミラーから始め、市内全域のミラー、それが達成すると全国のミラーを拭く旅に出てしまう。
家族を犠牲にし、自らのこれまでの人生を否定するほどの事故とはとうてい思えないような軽微な事故だと思うのだが…。
映画は主人公に何も語らせない。
どうやらこのあたりがこの映画のねらいのようなのだが…。
イマージネーションが不足している私にはいまひとつ作者(監督)の思いが伝わってこなかったのだが、私なりの思いを記してみることにする。
家族を捨て、自分の人生を否定してまで、全国のカーブミラーを拭きつづけようとした主人公は、あるいはこれまでの人生に疲れていたのかもしれない。それが自ら起した小さな事故をキッカケとして表出し、周りから見ると無謀とも思える行為に走ったのかもしれない。
家族から、これまでの人生から、解き放たれた主人公は全国のミラーを拭き続ける旅を続ける中、日を経るごとにその表情に充実感が漲ってくるところが印象的である。セリフのほとんどない緒形拳さんがそのあたりを見事に表現しているのはさすがである。
ウェブ上の評価で「ロードムービー的な映画だ」と評していたものがあったが、確かに北海道、東北の各地や旅の途中で遭遇する人やエピソードもこの映画のテーマを物語っているような気がした。
主人公にそれぞれの目的を持って接触してくるが、それを邪険にせず、かといって積極的な関わりを持とうともせず…。主人公はただひたすらミラーを拭き続ける…。
彼が拭いていた(磨いていた)カーブミラーは単に車のためだけではなく、世の中の人の心を皮肉に映し出す鏡だったのかもしれない…。