「夷酋列像」でその名を知られた蠣崎波響は、画人である前に武士であったという。また、彼は画人であるとともに詩人でもあった。武士であるがゆえに「夷酋列像」を描かざるを得なかったが、その後の彼は「夷酋列像」的な画は一枚も絵描かなかったという。そこに波響の教養人としての矜持をみる思いがする。
「夷酋列像」をめぐる講演の第3弾として、10月4日(日)午後、北海道博物館において「武士・画人・詩人 波響」と題して、宮城学院女子大学の井上研一郎名誉教授の講演があり受講した。井上氏は「日本美術史」が専門で、長く北海道立近代美術館の学芸員として活躍された方だそうだ。

井上氏はまず、波響が武士(当時は家老に仕える身、後に松前藩の家老)であるがために「夷酋列像」を描かざるを得なかった、と述べた。しかし、それは彼の本意ではなく、事実その後波響は「夷酋列像」的な画は一枚も残していないという。
それよりも波響は教養人としての側面が強く、多くの画とともに、その画にまつわる詩をたくさん作ったことで知られているとし、講演では波響作の漢詩の数点を紹介してくれた。
波響作の漢詩を何点か紹介してくれた中で、私が印象深かった一つについて記すことにする。
「次韻酒井兄秋郊行」と題するものである。(左が原文、右が読みである)
秋霽撥忙成意行 秋霽 忙を撥(はら)い 意を成して行く
林端遠近四山横 林端 遠近 四山横たわる
煙郊深草牛童睡 煙郊の深草に 牛童眠り
雲岳危巣鷹子鳴 雲岳の危巣に 鷹子鳴く
酒貯肩瓢詩叵貯 酒は肩瓢(けんびょう)に貯うるも 詩は貯え叵(がた)く
人争名路我何争 人は名路を争うも 我は何をか争わん
欲描此景不随筆 此の景を描かんと欲して 筆に随われず
併写無声与有声 併せて写さん 無声と有声と
正確な訳はできないが、秋の晴れた日に多忙を押して郊外に遊びに行ったときの情景を楽しんで読んでいる詩だとうっすらとは分かる。
最後の二行であるが、この景色を画に描こうと欲して、絵筆の動きにだけ従(随)わず、併せて無声と有声を写したい、と解した。
この「無声与有声」のところで「画無声詩、詩有声画」という言葉が紹介された。その意味するところは、「画は無声の詩」であり、「詩は有声の画」である、と説明され、深く納得した私だった。
この漢詩を創作する上での画「山村図(桃源)」という画は、残念ながらネット上からは検索することができなかった。
ネット上で検索できた波響の唯一の作が「月下巨椋湖遊図」という画だった。この画については波響の漢詩は無いのだが、波響の漢詩の師匠ともいうべき菅茶山の漢詩が残っている。その詩を紹介して、本稿を閉じることとしたい。

「伏水道中」と題された菅茶山が波響にあてた手紙風の漢詩である。
巨椋湖辺感昔遊 巨椋湖辺(おぐらこへん) 昔遊(せきゆう)を感ず
回頭二十五年秋 頭(こうべ)を回(めぐ)らす 二十五年の秋
汀前依旧楊柳多 汀前(ていぜん) 旧に依(より)て 楊柳(ようりゅう)多し
何樹曾維賞月舟 何れの樹か 曾(かつ)て維(つな)ぐ 月を賞するの舟
波響の漢詩を一編しか紹介できなかったが、波響は弱小の松前藩の藩主の子息として教養人である前に、藩の維持と継続を考えねばならない立場に立たされていた。そのことが「夷酋列像」を描くことで幕府に対しての虚勢を張らねばならなかった事情があったようだ。
その後も藩は武蔵国や陸奥国に転封させられるなど苦難の道を辿った。その頃家老の職についていた波響は、画作や試作に没頭できるような境遇ではなかったようだ。
その点において波響の後半生は、彼にとって不本意な後半生だったのかもしれない。
講演後、この日こそ本物の「夷酋列像」と対面したいと思っていたが、講演終了時には閉館の時間が近く、この日も「夷酋列像」との対面が叶わなかったのが残念だった。近くに是非と思っているのだが…。
「夷酋列像」をめぐる講演の第3弾として、10月4日(日)午後、北海道博物館において「武士・画人・詩人 波響」と題して、宮城学院女子大学の井上研一郎名誉教授の講演があり受講した。井上氏は「日本美術史」が専門で、長く北海道立近代美術館の学芸員として活躍された方だそうだ。

井上氏はまず、波響が武士(当時は家老に仕える身、後に松前藩の家老)であるがために「夷酋列像」を描かざるを得なかった、と述べた。しかし、それは彼の本意ではなく、事実その後波響は「夷酋列像」的な画は一枚も残していないという。
それよりも波響は教養人としての側面が強く、多くの画とともに、その画にまつわる詩をたくさん作ったことで知られているとし、講演では波響作の漢詩の数点を紹介してくれた。
波響作の漢詩を何点か紹介してくれた中で、私が印象深かった一つについて記すことにする。
「次韻酒井兄秋郊行」と題するものである。(左が原文、右が読みである)
秋霽撥忙成意行 秋霽 忙を撥(はら)い 意を成して行く
林端遠近四山横 林端 遠近 四山横たわる
煙郊深草牛童睡 煙郊の深草に 牛童眠り
雲岳危巣鷹子鳴 雲岳の危巣に 鷹子鳴く
酒貯肩瓢詩叵貯 酒は肩瓢(けんびょう)に貯うるも 詩は貯え叵(がた)く
人争名路我何争 人は名路を争うも 我は何をか争わん
欲描此景不随筆 此の景を描かんと欲して 筆に随われず
併写無声与有声 併せて写さん 無声と有声と
正確な訳はできないが、秋の晴れた日に多忙を押して郊外に遊びに行ったときの情景を楽しんで読んでいる詩だとうっすらとは分かる。
最後の二行であるが、この景色を画に描こうと欲して、絵筆の動きにだけ従(随)わず、併せて無声と有声を写したい、と解した。
この「無声与有声」のところで「画無声詩、詩有声画」という言葉が紹介された。その意味するところは、「画は無声の詩」であり、「詩は有声の画」である、と説明され、深く納得した私だった。
この漢詩を創作する上での画「山村図(桃源)」という画は、残念ながらネット上からは検索することができなかった。
ネット上で検索できた波響の唯一の作が「月下巨椋湖遊図」という画だった。この画については波響の漢詩は無いのだが、波響の漢詩の師匠ともいうべき菅茶山の漢詩が残っている。その詩を紹介して、本稿を閉じることとしたい。

「伏水道中」と題された菅茶山が波響にあてた手紙風の漢詩である。
巨椋湖辺感昔遊 巨椋湖辺(おぐらこへん) 昔遊(せきゆう)を感ず
回頭二十五年秋 頭(こうべ)を回(めぐ)らす 二十五年の秋
汀前依旧楊柳多 汀前(ていぜん) 旧に依(より)て 楊柳(ようりゅう)多し
何樹曾維賞月舟 何れの樹か 曾(かつ)て維(つな)ぐ 月を賞するの舟
波響の漢詩を一編しか紹介できなかったが、波響は弱小の松前藩の藩主の子息として教養人である前に、藩の維持と継続を考えねばならない立場に立たされていた。そのことが「夷酋列像」を描くことで幕府に対しての虚勢を張らねばならなかった事情があったようだ。
その後も藩は武蔵国や陸奥国に転封させられるなど苦難の道を辿った。その頃家老の職についていた波響は、画作や試作に没頭できるような境遇ではなかったようだ。
その点において波響の後半生は、彼にとって不本意な後半生だったのかもしれない。
講演後、この日こそ本物の「夷酋列像」と対面したいと思っていたが、講演終了時には閉館の時間が近く、この日も「夷酋列像」との対面が叶わなかったのが残念だった。近くに是非と思っているのだが…。