幕閣を主導した長州の志士たちに大きな影響力を発揮した吉田松陰が、処刑される前に綴ったとされる「留魂録」を読んだ。(解説を聴いた)講師の合田一道氏の合田節を楽しんだひと時でもあった。
待望の札幌学院大学のコミュニティカレッジ「古文書に見る歴史が動いた瞬間」の3回シリーズが始まった。講師はお馴染みのノンフィクション作家の合田一道氏である。
10月7日(木)午後、札幌学院社会連携センターでその第1回講座が開かれた。合田氏の講座には私のような固定ファンのような方が存在しているようだ。講義室は今回もほぼ満席で受講者が60人を超える人気ぶりだった。

第1回講座のテーマはタイトルどおり「吉田松陰の『留魂録』を読む」だった。
『留魂録』には最初に辞世の句が書かれている。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士
句を作った日付の「念」は「二十」という意味で、十月二十五日にこの句を作ったことを記している。(ちなみに吉田松陰が処刑されたのは、十月二十七日である)
ここで興味あることを知ることができた。「二十一回」という吉田松陰のいわばペンネームである。「二十一回」というのは、「吉田」という文字を解体して再び組み立てた吉田の自作だという。(二十一回にも意味があるようだが、ここでは省略)
『留魂録』は、この句の後、第一章から第十六章までわたって綴られている。
講義では十六章全てにあたる時間がなかったので、合田氏が適宜指定する部分を読み合わせながら進むという方法がとられた。
ところが合田氏も古文の専門家ではないために、全てを完璧に読み込むということにはならなかった。そのため、聴いている私には『留魂録』そのものを十分に理解するには至らなかったところが残念だった。
そんな中で、合田氏が松陰の思いが特にあらわされている章として第八章を取り上げられた。第八章全文を記してみる。
一、今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る処り。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の蔵功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは蟪蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時己に備はる。亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年の恥じざるなり。同志其れ其れを考思せよ。

かなり意訳できる方も、全てに精通することは難しいのではと思われる。私も合田氏の説明だけでは、いま一つ理解することができなかった。そこでネットを繰っていると、全文の意訳が載っていた。訳者の古川薫氏には断っていないが、転写させていただくことにする。
今日、私が死を目前にして落ち着いていられるのは、四季の循環というものを考えたからです。おそらくあの穀物の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。私は享年三十歳。一つも事を成せずに死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。されども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょう。何故なら人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくようなものではないからです。十歳にして死ぬ者は、その十歳の中に自らの四季があります。二十歳には二十歳の中に自らの四季があり、三十歳には三十歳の中に自らの四季があり、五十歳や百歳にも、その中に自らの四季があります。十歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿にしようとするようなものです。百歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。それはどちらも、寿命に達することにはなりません。私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください。
十六章全てを書き終え、松陰は最後にまた句を残している。それは「かきつけ終わりて後」と題されている。
かきつけ終わりて後
心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄 二十一回猛士
合田氏は、松陰にはアジテーターと見られる面もあるとした。確かに、松陰が遺した『留魂録』だけを見ても、そうした側面が強く感じられる。
彼が萩で起ち上げた「松下村塾」、そしてこの『留魂録』によって、起ち上がった志士たちが多いことは史実が伝えている。
古文の読み合わせは私にとってはけっこう難儀ではあるが、これからも合田節を楽しみに残り2回の講座を楽しみたいと思っている。
待望の札幌学院大学のコミュニティカレッジ「古文書に見る歴史が動いた瞬間」の3回シリーズが始まった。講師はお馴染みのノンフィクション作家の合田一道氏である。
10月7日(木)午後、札幌学院社会連携センターでその第1回講座が開かれた。合田氏の講座には私のような固定ファンのような方が存在しているようだ。講義室は今回もほぼ満席で受講者が60人を超える人気ぶりだった。

第1回講座のテーマはタイトルどおり「吉田松陰の『留魂録』を読む」だった。
『留魂録』には最初に辞世の句が書かれている。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士
句を作った日付の「念」は「二十」という意味で、十月二十五日にこの句を作ったことを記している。(ちなみに吉田松陰が処刑されたのは、十月二十七日である)
ここで興味あることを知ることができた。「二十一回」という吉田松陰のいわばペンネームである。「二十一回」というのは、「吉田」という文字を解体して再び組み立てた吉田の自作だという。(二十一回にも意味があるようだが、ここでは省略)
『留魂録』は、この句の後、第一章から第十六章までわたって綴られている。
講義では十六章全てにあたる時間がなかったので、合田氏が適宜指定する部分を読み合わせながら進むという方法がとられた。
ところが合田氏も古文の専門家ではないために、全てを完璧に読み込むということにはならなかった。そのため、聴いている私には『留魂録』そのものを十分に理解するには至らなかったところが残念だった。
そんな中で、合田氏が松陰の思いが特にあらわされている章として第八章を取り上げられた。第八章全文を記してみる。
一、今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る処り。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の蔵功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは蟪蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時己に備はる。亦秀で亦実る、其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年の恥じざるなり。同志其れ其れを考思せよ。

かなり意訳できる方も、全てに精通することは難しいのではと思われる。私も合田氏の説明だけでは、いま一つ理解することができなかった。そこでネットを繰っていると、全文の意訳が載っていた。訳者の古川薫氏には断っていないが、転写させていただくことにする。
今日、私が死を目前にして落ち着いていられるのは、四季の循環というものを考えたからです。おそらくあの穀物の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。私は享年三十歳。一つも事を成せずに死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。されども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょう。何故なら人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくようなものではないからです。十歳にして死ぬ者は、その十歳の中に自らの四季があります。二十歳には二十歳の中に自らの四季があり、三十歳には三十歳の中に自らの四季があり、五十歳や百歳にも、その中に自らの四季があります。十歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿にしようとするようなものです。百歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。それはどちらも、寿命に達することにはなりません。私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください。
十六章全てを書き終え、松陰は最後にまた句を残している。それは「かきつけ終わりて後」と題されている。
かきつけ終わりて後
心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄 二十一回猛士
合田氏は、松陰にはアジテーターと見られる面もあるとした。確かに、松陰が遺した『留魂録』だけを見ても、そうした側面が強く感じられる。
彼が萩で起ち上げた「松下村塾」、そしてこの『留魂録』によって、起ち上がった志士たちが多いことは史実が伝えている。
古文の読み合わせは私にとってはけっこう難儀ではあるが、これからも合田節を楽しみに残り2回の講座を楽しみたいと思っている。