北大の全学企画講座「『非常識』が照らし出す私たちの未来」の全8講座がこのほど終了した。これまで5年間にわたり全学企画講座を受講してきたが、今回ほど私にとって難解だった講座は記憶にない。今回はレポすることが困難なほど打ちのめされた思いである…。
受講していた北大の公開講座「『非常識』が照らし出す私たちの未来」全8講座がこのほど終了した。具体的な日時、講義題目、講師は次のとおりである。
◇第1回(7/3) 「触媒で不可能を可能にする」 触媒科学研究所 福岡 淳 教授
◇第2回(7/6) 「クマに学ぶ ~草食を選んだ肉食獣~」 獣医学研究院 坪田 敏男 教授
◇第3回(7/10) 「『コンピテンス基盤型教育』は日本の教育改革の劇薬となり得るか?」 高等教育推進機構 鈴木 誠 教授
◇第4回(7/13) 「統計学によると…の非常識」情報基盤センター 水田 正弘 教授
◇第5回(7/17) 「『デモクラシー』の常識を問い直す」公共政策学連携研究部 空井 護 教授
◇第6回(7/17) 「正常細胞ががん細胞を駆逐する!~世界初のがん予防薬開発を目指して」遺伝子病制御研究所 藤田 恭之 教授
◇第7回(7/20) 「現代の金融政策」 公共政策連携研究部 代田豊一郎 准教授
◇第8回(7/24) 「流動化時代の人間関係」 文学研究科 結城 雅樹 教授
私がかろうじてレポできたのは、第1回、第2回の講座だけだった。(それもかなり怪しいものだったのだが…)
私にとってショックだったのは、多少なりとも私の専門領域であると考えていた第3回の教育に関する講座だった。鈴木教授が話される内容がまったく私の中へ入ってこなかったのだ。鈴木教授が日本の教育の何に危機感を抱いているのかさえ、私には理解できなかった。
このことが私の中では一つの契機となってしまった。
以降、それなりに真剣に耳を傾けていたつもりだったが、私の中には???が渦巻くばかりだった…。
このような事態になったことについて私なりに、自分を弁護してみたい。それは、今回のテーマに一つの要因があったように思えてならない。全体のテーマを説明する文章の中に、次のような下りがある。
「従来の『非常識』があらたな『常識』になるプロセスは自動的に進行するわけではありません。『非常識』な現象を追認し、これを『常識』として受け入れるべきか。あるいは、『非常識』を批判して『常識』を回復するべきであるか。多くの場合に、そのような選
択肢が存在しています。『非常識』の時代においてこそ、私たちの知性と主体性が試されることになるといえるでしょう」
講師の方々は、この一文をかなり意識されて講義に臨んだようである。事実、何人かの講師の方は講義前にそのことについて言及していた。つまり、これまではご自身の専門分野を説明的に講義すれば良かったものが、否応なくテーマを意識した講義内容に組み替えねばならないという作業が入ったのではないか。そのことが、講義内容を一段と難解なものにしてしまったように思えてならない。
などと、言い訳めいたことを述べてしまったが、率直に言えば、私の中に講義を受けるだけの素養が備わっていなかった、ということになるのだろう…。
う~ん。今回は打ちのめされた思いである……。といいながら、今週からまた別の講座が始まる。気を取り直して受講しようと思っている。
受講していた北大の公開講座「『非常識』が照らし出す私たちの未来」全8講座がこのほど終了した。具体的な日時、講義題目、講師は次のとおりである。
◇第1回(7/3) 「触媒で不可能を可能にする」 触媒科学研究所 福岡 淳 教授
◇第2回(7/6) 「クマに学ぶ ~草食を選んだ肉食獣~」 獣医学研究院 坪田 敏男 教授
◇第3回(7/10) 「『コンピテンス基盤型教育』は日本の教育改革の劇薬となり得るか?」 高等教育推進機構 鈴木 誠 教授
◇第4回(7/13) 「統計学によると…の非常識」情報基盤センター 水田 正弘 教授
◇第5回(7/17) 「『デモクラシー』の常識を問い直す」公共政策学連携研究部 空井 護 教授
◇第6回(7/17) 「正常細胞ががん細胞を駆逐する!~世界初のがん予防薬開発を目指して」遺伝子病制御研究所 藤田 恭之 教授
◇第7回(7/20) 「現代の金融政策」 公共政策連携研究部 代田豊一郎 准教授
◇第8回(7/24) 「流動化時代の人間関係」 文学研究科 結城 雅樹 教授
私がかろうじてレポできたのは、第1回、第2回の講座だけだった。(それもかなり怪しいものだったのだが…)
私にとってショックだったのは、多少なりとも私の専門領域であると考えていた第3回の教育に関する講座だった。鈴木教授が話される内容がまったく私の中へ入ってこなかったのだ。鈴木教授が日本の教育の何に危機感を抱いているのかさえ、私には理解できなかった。
このことが私の中では一つの契機となってしまった。
以降、それなりに真剣に耳を傾けていたつもりだったが、私の中には???が渦巻くばかりだった…。
このような事態になったことについて私なりに、自分を弁護してみたい。それは、今回のテーマに一つの要因があったように思えてならない。全体のテーマを説明する文章の中に、次のような下りがある。
「従来の『非常識』があらたな『常識』になるプロセスは自動的に進行するわけではありません。『非常識』な現象を追認し、これを『常識』として受け入れるべきか。あるいは、『非常識』を批判して『常識』を回復するべきであるか。多くの場合に、そのような選
択肢が存在しています。『非常識』の時代においてこそ、私たちの知性と主体性が試されることになるといえるでしょう」
講師の方々は、この一文をかなり意識されて講義に臨んだようである。事実、何人かの講師の方は講義前にそのことについて言及していた。つまり、これまではご自身の専門分野を説明的に講義すれば良かったものが、否応なくテーマを意識した講義内容に組み替えねばならないという作業が入ったのではないか。そのことが、講義内容を一段と難解なものにしてしまったように思えてならない。
などと、言い訳めいたことを述べてしまったが、率直に言えば、私の中に講義を受けるだけの素養が備わっていなかった、ということになるのだろう…。
う~ん。今回は打ちのめされた思いである……。といいながら、今週からまた別の講座が始まる。気を取り直して受講しようと思っている。