行きがかり上、観光ボランティア的ガイドをしなければならないことになってしまった。でも、おかげで初めて知り得たこともあり、私にとっては得難い初体験だった…。
7月25日(火)、「めだかの学校」の7月の野外学習があった。今回の学習対象は「道立施設三館巡り」と題して、いずれもが近隣に立地する「道立近代美術館」、「知事公館」、「道立三岸好太郎美術館」の三館を巡るという企画だった。
この三館巡りの企画担当に私が充てられていた。
三館を巡るにあたって、課題が浮かび上がってきた。それは「知事公館」は一度に多くの人が入館できない、という問題があった。(今回の企画の参加希望者は34名だった)
そこで企画担当としては、参加者をA、Bの二つのグループに分けて、一方が知事公館を見学する間に、もう一方のクループは知事公館の庭園に散在する石碑や彫刻、さらには庭園内に残る竪穴式住居跡を見ていただくことにした。
問題は、それを誰が案内するか?ということだった。結局、企画担当である私が俄か勉強をして、その任に当たることになったのである。
それでは俄か勉強をした成果をもとに順に、知事公館の庭園にご案内します。
初めに、知事公館の庭の奥の方にある【竪穴住居跡】をご案内します。
知事公館の庭園内には今から約1,000年前の擦文時代に先住民が住んでいたとされる「竪穴住居跡」がたくさん残されています。研究者によると、その住居跡は17ヵ所とされていますが、素人の私たちが明らかにそれと分かるのは2ヵ所ほどです。都市化が進んだ市内中心部にこうした住居跡が見られることは世界的にも珍しいということです。
※ 芝地のかすかな凹みが竪穴住居跡です。
続いて、庭園内の林の中の目立たないところに立っている【桑園碑】です。知事公館の敷地を含む開拓使本庁(現在の道庁)の西側一帯は、北海道開拓期には桑畑が広がり、一帯は「桑園」と呼ばれていました。面積21万坪にも及ぶ桑畑を開墾したのは、昭和8年に入植した鶴岡藩の氏族約160人で、わずか三か月で開墾したということです。
そうした桑園の縁を記念して昭和40年に有志によってたてられたそうです。
しかし、「桑園碑」にはその元になった碑が存在します。それは【国富在農碑】です。庭園の一番東側に立っていますので、今日は行きませんが、明治時代に立てられたものと言われています。
続いて、知事公館の入口近くに立っているのが【村橋久成胸像 残響】です。村橋久成は道民にはあまり知られた存在ではありませんでしたが、実は開拓使ビールの創設の他、七重勧業試験場、琴似屯田兵村、葡萄酒醸造所、製糸所、牧羊場などの創設に関わり、北海道の産業の礎を築いた人だそうです。北海道在住の作家・田中和夫が村橋の業績を掘り起こし、小説「残響」として著したことにより、その名が知られるようになったそうです。
平成15年、村橋の業績を知った高橋はるみ北海道知事が道政執行方針演説で取り上げたことが縁となって平成17年に現在地に胸像が建立されました。
残りは、知事公館の中庭の芝生の上に設置された二つの彫刻作品です。
一つは、美唄市出身でイタリアの白大理石を使った彫刻で知られる【安田侃作 意心帰】です。「意心帰」とは、英語で「Shape of mind」と表記され、「自らの心に帰るところ」という意味があるそうです。安田侃は、有珠山噴火の際の泥流によって犠牲になった方々を鎮魂する意味からこの作品を創ったと言われています。
安田侃の作品は、札幌市内でも多数見られることができますね。
最後は、中庭に立つ二つの立像 【流政之作 サキモリ】です。流政之は特に北海道に縁のある方ではないようですが、北海道各地に彼の作品は数多くあるようです。道立近代美術館前にも「雲の砦 jr.」という作品があります。
流政之は「サキモリ」の作品について次のように言っています。「私の代表作の一つである『サキモリ』シーリーズは内臓部分が空洞になった人型の作品だ。私が作るまで、そういうヌードはなかった。空洞の中に、生命とか、夢を入れて考えるんだ。サキモリは文字通り『防人(さきもり)』が題材。防人は守る側で、自分からは攻撃しない。防衛する存在だ」と言っています。流氏は自身が少年時代に特攻兵だったことに強い嫌悪感を抱いていることが創作活動の原点になっているようです。
概ね、私は以上のようなことを説明しながら、二つのグループを案内した。
心掛けたことは「簡にして要を得る」説明だった。素人なのだから、へんな知ったかぶりは危険である。見学者の中に私より詳しい人が何人もいたはずである。だからいらないことは言わないように気をつけた。そういう意味では「まあまただった」のかな、と自己評価している。
今回のガイドをするにあたって、私は初めて「村橋久成」の存在を知ることができたし、「国富在農碑」も初めて目にすることができた。そういう意味では、私自身も収穫のあった観光ボランティア的ガイドの初体験だった。
7月25日(火)、「めだかの学校」の7月の野外学習があった。今回の学習対象は「道立施設三館巡り」と題して、いずれもが近隣に立地する「道立近代美術館」、「知事公館」、「道立三岸好太郎美術館」の三館を巡るという企画だった。
この三館巡りの企画担当に私が充てられていた。
三館を巡るにあたって、課題が浮かび上がってきた。それは「知事公館」は一度に多くの人が入館できない、という問題があった。(今回の企画の参加希望者は34名だった)
そこで企画担当としては、参加者をA、Bの二つのグループに分けて、一方が知事公館を見学する間に、もう一方のクループは知事公館の庭園に散在する石碑や彫刻、さらには庭園内に残る竪穴式住居跡を見ていただくことにした。
問題は、それを誰が案内するか?ということだった。結局、企画担当である私が俄か勉強をして、その任に当たることになったのである。
それでは俄か勉強をした成果をもとに順に、知事公館の庭園にご案内します。
初めに、知事公館の庭の奥の方にある【竪穴住居跡】をご案内します。
知事公館の庭園内には今から約1,000年前の擦文時代に先住民が住んでいたとされる「竪穴住居跡」がたくさん残されています。研究者によると、その住居跡は17ヵ所とされていますが、素人の私たちが明らかにそれと分かるのは2ヵ所ほどです。都市化が進んだ市内中心部にこうした住居跡が見られることは世界的にも珍しいということです。
※ 芝地のかすかな凹みが竪穴住居跡です。
続いて、庭園内の林の中の目立たないところに立っている【桑園碑】です。知事公館の敷地を含む開拓使本庁(現在の道庁)の西側一帯は、北海道開拓期には桑畑が広がり、一帯は「桑園」と呼ばれていました。面積21万坪にも及ぶ桑畑を開墾したのは、昭和8年に入植した鶴岡藩の氏族約160人で、わずか三か月で開墾したということです。
そうした桑園の縁を記念して昭和40年に有志によってたてられたそうです。
しかし、「桑園碑」にはその元になった碑が存在します。それは【国富在農碑】です。庭園の一番東側に立っていますので、今日は行きませんが、明治時代に立てられたものと言われています。
続いて、知事公館の入口近くに立っているのが【村橋久成胸像 残響】です。村橋久成は道民にはあまり知られた存在ではありませんでしたが、実は開拓使ビールの創設の他、七重勧業試験場、琴似屯田兵村、葡萄酒醸造所、製糸所、牧羊場などの創設に関わり、北海道の産業の礎を築いた人だそうです。北海道在住の作家・田中和夫が村橋の業績を掘り起こし、小説「残響」として著したことにより、その名が知られるようになったそうです。
平成15年、村橋の業績を知った高橋はるみ北海道知事が道政執行方針演説で取り上げたことが縁となって平成17年に現在地に胸像が建立されました。
残りは、知事公館の中庭の芝生の上に設置された二つの彫刻作品です。
一つは、美唄市出身でイタリアの白大理石を使った彫刻で知られる【安田侃作 意心帰】です。「意心帰」とは、英語で「Shape of mind」と表記され、「自らの心に帰るところ」という意味があるそうです。安田侃は、有珠山噴火の際の泥流によって犠牲になった方々を鎮魂する意味からこの作品を創ったと言われています。
安田侃の作品は、札幌市内でも多数見られることができますね。
最後は、中庭に立つ二つの立像 【流政之作 サキモリ】です。流政之は特に北海道に縁のある方ではないようですが、北海道各地に彼の作品は数多くあるようです。道立近代美術館前にも「雲の砦 jr.」という作品があります。
流政之は「サキモリ」の作品について次のように言っています。「私の代表作の一つである『サキモリ』シーリーズは内臓部分が空洞になった人型の作品だ。私が作るまで、そういうヌードはなかった。空洞の中に、生命とか、夢を入れて考えるんだ。サキモリは文字通り『防人(さきもり)』が題材。防人は守る側で、自分からは攻撃しない。防衛する存在だ」と言っています。流氏は自身が少年時代に特攻兵だったことに強い嫌悪感を抱いていることが創作活動の原点になっているようです。
概ね、私は以上のようなことを説明しながら、二つのグループを案内した。
心掛けたことは「簡にして要を得る」説明だった。素人なのだから、へんな知ったかぶりは危険である。見学者の中に私より詳しい人が何人もいたはずである。だからいらないことは言わないように気をつけた。そういう意味では「まあまただった」のかな、と自己評価している。
今回のガイドをするにあたって、私は初めて「村橋久成」の存在を知ることができたし、「国富在農碑」も初めて目にすることができた。そういう意味では、私自身も収穫のあった観光ボランティア的ガイドの初体験だった。