田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道のラベンダー80年史

2019-05-20 16:57:36 | 講演・講義・フォーラム等

 北海道でラベンダーの栽培が始まって80年が経つという。今でこそ、有力な観光資源として富良野地方を中心に北海道はラベンダーの栽培が盛んであるが、80年の間には私たちの知らなかった栄枯盛衰があったという。

           

 本日(5月20日)午後、「ほっかいどう学」かでる講座の第2回講座が開講された。今回は「北海道のラベンター80年目の真実 ~写真と証言でたどる歴史秘話~」と題して、香り通信舎編集人の伊藤由紀子氏が講師としてお話された。

             

             ※ 講師を務めた伊藤由紀子氏です。

 北海道におけるラベンター栽培の始まりは、昭和12(1937)年に関東で香料会社を経営していた曽田香料株式会社の創業者の曽田政治氏がフランスより種子を入手して現在の札幌市西区二十四軒(札幌工場付属農園)で試験栽培を開始したのが始まりとされているということだ。その後、曽田香料株式会社は栽培地を南区南沢(南沢農場)、後志郡共和町(岩内農場)と栽培地を広げ、昭和17(1942)年には南沢農場、岩内農場で蒸留を開始し、本邦初のラベンダーオイルを生産したそうだ。

 太平洋戦争を挟み、戦後になるとラベンターの栽培は上富良野町など富良野地方全域、さらには空知、後志地方にも栽培が普及し、品種改良も伴って昭和45(1970)年には全道の耕作面積は235haに及び、ラベンダーオイルの生産も5トンと、最盛期を迎えるに至ったという。

 なぜ北海道においてラベンターの栽培が盛んになったのか?伊藤氏は4つの理由をあげられた。それは①栽培に適した冷涼な気候、②生産コスト上の利点(土地代、人件費)、③ハマナス香料の生産計画が進んでいた。④ハッカ油の生産技術が確立されていた。ことなどがその理由としてあげられるとした。

 しかし、その後ラベンダー生産は激減の一途をたどる。昭和45年から5年後の昭和50(1975)年には栽培面積が1/3に激減し、それから10年後の昭和60(1985)年にはほぼ壊滅状態にまで落ち込んでいる。

 なぜこのような状態になったかというと、①外国産の似たようなオイル(仏産ラバンジンオイル)との価格競争を凌げなかったこと。②合成香料の発明による天然香料の需要減少。③他の農作物の価格が高騰したこと。④農業の機械化が進む中、ラベンター栽培が機械化に乗り遅れた。などのことがその要因だったと伊藤氏は述べた。

             

           ※ あまりにも有名な富田ファームのラベンターをはじめとした彩り豊かな観光農場です。

 そうした中で細々とラベンター栽培を続けていたのは、その後有名となる「ファーム富田」の富田忠雄など数軒だったという。その富田も栽培を諦めようとしていた矢先の昭和51(1976)年、富田のラベンダー畑が国鉄のカレンダーや新聞で紹介されたことによって観光客が押し寄せるようになったそうだ。さらにはTVドラマ「北の国から」、映画「時をかける少女」などでラベンダー畑が紹介されることによって一大観光ブームが到来し、今に至っていることは、私も良く知っていることである。

 今や富良野というとラベンダーをはじめとして、雄大な畑作地帯など農業風景が大きな観光資源となっている。ラベンダーの栽培、さらにはラベンダーオイルの生産はとても往時に比べるべくもないが、北海道とラベンダーの縁が途切れることなく現在にまで繋がってくれたこと、そしてこれからも細々ながらも繋がっていきそうな状況にあることを道産子の一人として感謝したい思いである。

 ※ ラベンダーの写真は2枚ともウェブ上の写真を拝借した。