1946(昭和21)年生まれの私は勝手に民主主義の申し子世代だと自負している。一介の庶民である私には「民主主義」の深遠な真理など分かるはずもないが、少なくとも戦後日本においては国民主権・基本的人権・法の支配・権力の分立などが確立された中で、人間の自由と平等を尊重する立場が保証されていると思っているのだが…。
拙ブログにおいては、政治的な問題にコミットするようなセンシティブな問題には触れないようにしてきた。それは私がそうしたことを論ずるほどの力量もないし、研鑽を積んだこともないからだ。ところが今回私はあるところで酔いに任せたこともあり「民主主義」という言葉を使ってしまった。場面は次のような場面だった。
昨日もレポしたが、私が所属するシニアの生涯学習グループ「めだかの学校」では月に一度「給食会」と称する会員同士の懇親の場が設けられている。10月7日(月)がその日だった。札幌市内でも極安の居酒屋が定例の会場となっている。
その席上で北海道新幹線工事に伴うトンネル工事から排泄される残土の処理問題で紛糾している現状についてさまざまな意見が出た。「残土の処理問題をクリアしてから工事を始めるべきだった」、「いや、工期期間が定められているから止むを得なかった」、「そもそも北海道新幹線は必要なの?」等々…。しかし、現実としては工事が進む中、残土問題は解決どころか、処理候補地となった住民が断固反対の姿勢を示し、解決の方向が見えない現状にある。そのことによる工事の遅れを指摘し、当局の取り組みの甘さを指摘する声があった。
この頃我が国においては、ゴミ処理場や保育園などの建設問題が起きるたびに、建設予定地の住民が反対運動を起こす例をよく見聞する。上記のトンネルの残土問題も同種の問題であろう。このことをどう見るかである。私はある意味、これが民主主義の世の中なんだろうと、と思っている。つまり民主主義の世の中とは、何かコトを進める時に、その決定段階や合意形成を図る段階でたくさんの時間やコストがかかる仕組みなのではないかと思っている。それがある種の健全な姿ではないかと…。これが一党独裁の国家などでは、鶴の一声(?)でモノゴトが進められ、為政者側から見ると効率的に国家や地域が運営されていくんだろうと思われる。
私たちは外(USA)からの移植によってだが、「民主主義」というものを獲得した。そのことを体得した第一世代が私たちだったのではないか、と自負している。北海道の片田舎で育った私だったが、小学校において週に一度行われる学級会が何より楽しみだった。そこではさまざまな学級の問題が稚拙ながらも自由闊達に自分の考えを述べ合ったことを懐かしく思い出している。「民主主義」というのは、おそろしく時間もコストもかかる仕組みかもしれない。しかし、そこには誰もが自由で、平等の立場で意思決定に参加できるという極めて人間的な仕組みだと思う。現代は「民主主義」の危機が懸念されているともいう。せっかく手に入れた人間の自由と平等を尊重するこの仕組みを手放すようなことはけっしてあってはならないと考えた月曜の夜だった…。