田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌学院大コミュニティ・カレッジ 札幌歴史雑学(3)

2024-11-28 18:57:35 | 講演・講義・フォーラム等
 今回も札幌の面白歴史雑学をたくさん聴くができた。この講座は今回で三度目だったが、残念ながら最終回だった。今回もまたお聴きした中から三つのテーマに絞ってレポすることにしたい。

 本日午後、札幌学院大学のコミュニティ・カレッジ「誰かに話さずにはいられない 札幌歴史雑学」第3講(最終講義)が札幌学院大の新札幌キャンパスで開講したので受講した。講師はもちろん街歩き研究家の和田哲氏である。

     
     ※ 講師を務められた和田哲氏です。
  
 今回の全体テーマは「冬とスポーツの物語」と題して9つのテーマについてお話を聴いた。その9つのテーマとは…。
 ① スケート事始め
 ② スキー事始め
 ③ 山小屋
 ④ 戦後のスキー場
 ⑤ 中島スポーツセンター
 ⑥ 幻の札幌オリンピック
 ⑦ スポーツ史を変えた大会
 ⑧ 札幌冬季オリンピック
 ⑨ おまけ
どれも興味深かったが、本欄では②、⑤、⑦についてレポしたい。
 その前に、和田氏は札幌がいかに冬季スポーツに適した街であるかについて言及された。良く知られた(?)ことであるが、札幌の降雪量が年平均で479cmもあり(600cmを超えた年もあったという)、世界の大都市ではダントツに多い積雪量であることを紹介し、冬季スポーツに適した条件とは、①低温、②降雪量、③スキーに適した地形の三条件が必要だが、その三条件が揃った大都市は世界の中で札幌市外にはない、と強調された。
 さて、その上で「スキーの事始め」であるが、一般には1911(明治44)年にオーストリアから来日したレルヒ少佐が新潟県高田(現在の上越市)においてスキーを指導したのが最初と伝えられている。しかし、それより遡ること3年前の1908(明治41)年に札幌農学校のドイツ語教師として来日したスイス人のH.コラーがスキーを持参し楽しんでいたそうだ。ただし、コラー氏はスキー技術が未熟だったこともあり、スキー史には取り上げられなかったようだ。初めて耳にしたお話だった。

       
       ※ 日本に初めてスキーを伝えたとされるレルヒ少佐です。
            コラー氏の写真は探しましたが見つかりませんでした。

 続いて「中島スポーツセンター」は、1954(昭和29)年、国民体育大会のメイン会場として建設されたという。当時は国内最大級のスポーツセンターで2階の観客席だけで1,777席あり、1階のアリーナに客席を作ると6,000人を収容できたという。そのためコンサート会場や大相撲の巡業会場として重用されたが、最も中島スポーツセンターを有名にしたのは、プロレス会場として使用され大人気を博したそうだ。そこで行われたプロレスの中で「雪の札幌テロ事件」とファンの中で語り継がれた事件(?)があったそうだ。

     
     ※ 健在だったころの北海道立札幌中島スポーツセンターです。

 三つ目のテーマは「スポーツ史を変えた大会」である。
 札幌では1940(昭和15)年、開催が決定していた冬季オリンピックが戦争のために開催中止となったが、その後のオリンピックの参加も受け入れられない状況の中、国際スケート連盟は1954(昭和29)年、世界スケート大会の会場として札幌市を選定した。この大会は今では当たり前のように開催されている各種スポーツの世界大会で初めての世界大会だったそうだ。大会は円山陸上競技場を会場に開催されたそうだが、連日観衆が推しかけ大盛況だったそうだ。国際スケート連盟の役員は、大会の完璧な運営、そして熱狂的な観衆の様子にいたく感激して、帰国してその様子を報告したという。札幌での開催が契機となり、その後次々と各種スポーツの世界大会が実施されるようになったという。この話をお聞きするのも初めてだったが、なんだか誇らしい気がしてきたのだった。

   
   ※ 現在の冬季の円山陸上競技場のスケートリンクです。
      競技用ではないので、400mの長さはないリンクです。

 そうした先人たちの業績があったからこそ、1972(昭和47)年の札幌冬季オリンピック大会の誘致に繋がったことは想像に難くない。
 3回にわたってお聞きした和田哲氏の「札幌歴史雑学」であるが、これまで和田氏を初めてとして多くの方から札幌の歴史についてお話を聴く機会があったが、今回の講座で初めてお聴きすることも数多かった。機会を見つけてこれからも札幌の歴史を追いかけてみたい。