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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №2

2022-04-29 08:44:29 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 「北区歴史と文化の八十八選巡り」の第2弾をなかなか投稿する機会がなかった。本日ようやく№2を投稿したい。「偕楽園跡」、「清華亭」、「新選組隊士永倉新八来訪の地」、「佐藤昌介像」の四つについてレポする。

〈5〉偕楽園跡

 偕楽園は明治4年、開拓使によって造られた日本で初めての都市公園と言われている。当時は幾多の施設が設けられて賑わったようだが、開拓使の廃止と共に土地は人手を転々とするなどして公園としての機能は失われていったという。そのあたり経緯について、説明する銘板が公園跡の近くにあったので転写することにしたい。

「明治4年(1871年)開拓使は、この地に市民の憩いの場である『偕楽園』を設置しました。日本の公園制度は明治6年の太政官布達によってはじまりますが、これにさきがけて開設された偕楽園は日本の最初期の公園といえます。かつてこの周辺一帯は「ヌプ・サム・メム(野の傍らの泉地)」と呼ばれ、泉が湧きサクシュコトニ川の清流が流れる景勝地でした。これに加え、偕楽園内には農業試験場やサケマスふ化場などが整備され、産業振興施設としても活用されていました。敷地内の清華亭は「開拓使貴賓接待所」として設けられた施設で、現在は札幌市の有形文化財に指定されています。当時の札幌市民に親しまれていた偕楽園ですが、明治15年に開拓使が廃止されると、土地の売却が行われたり周辺の市街地化が進むなど、時代の流れとともにその姿が変わっていきました。現在の「偕楽園緑地」はかつての偕楽園の一部分であり、くぼんだ地形に先人の親しんだ水辺の面影をとどめております。」

   

   ※ 偕楽園跡が建物の間から覗くことができるところに写真のような説明板がありました。

 銘板の説明にあるように、くぼ地に微かな当時の面影はうかがえるものの周りは住宅に囲まれていた。それでも小さいながら当時の一部分が「偕楽園緑地」として保全され、緑地内にはベンチなども配されて市民の憩いの場となっているのが救いのように思えた。

   

   ※ 偕楽園緑地の入口です。

   

   ※ 訪れた時(4月19日)には凹地にはまだ雪が残っていました。

   

   ※ 緑地内は小奇麗に整備されていました。

 なお直接的には関係ないが「偕楽園緑地」内に石川啄木の歌碑が建立されていた。啄木の在札期間はわずか2週間であったが、その間に詠ったものと思われるが「アカシアの街樾(なみき)にポプラに秋の風 吹くがかなしと日記(にき)に殘れり」と詠っている。

   

   ※ 緑地内に建てられていた石川啄木の歌碑です。

〔住 所〕 北区北7条西7丁目

〔訪問日〕 4月19日

 

〈6〉清華亭

 その「偕楽園緑地」の一角に建っているのが札幌市の有形文化財に指定されている「清華亭」である。外観はやや古びた木造家屋であるが保全され、内部も公開されている。周囲を見渡したところ北区制作の説明板は見当たらなかったが、札幌市の有形文化財に指定されていることからそのことについての説明板があった。しかし、内容的には主として偕楽園全体を説明しているように思えた。そこでより清華亭を説明した文章がウェブ上で見つけたので、それを掲載することにする。

   

   ※ 清華亭の門です。清華亭はこの大木の陰に建てられています。

「この建物は明治13(1880)年、札幌の最初の公園であった偕楽園に、開拓使の貴賓接待所として建てられました。開拓使長官黒田清隆が「水木清華亭(みずきせいかてい)」と名付け、明治天皇行幸の際に休憩された由緒ある建物です。外観は洋風な印象でありながら、内部は漆喰塗で大きな張出し窓が広がる洋室と、縁側のある和室を並べた和洋折衷様式となっています。明治19(1886)年の道庁設置とともに民間に払い下げられました。その後北海道史研究家らによって組織された保存会の所有を経て、昭和8(1933)年、札幌市へ寄付されました。」

とあった。訪れた時は内部が開放されていたので見学させていただいた。見学できるところは和室と洋室の二部屋だけだった。清華亭はあくまで接待所としての機能であり、宿泊所としての機能は有していなかったようだ。

   

   ※ 清華亭の玄関です。意外に質素な造りです。

   

   ※ 清華亭の建物を横から撮ったもものです。

   

   ※ 明治天皇が札幌行啓の際に休憩所とされたのが清華亭です。そのことを記した記念碑です。

   

   ※ 明治天皇がご休憩をされたであろう清華亭の洋室です。

   

   ※ 清華亭内に展示されていた偕楽園全体のジオラマです。清華亭はジオラマの一番上部に位置しています。

〔住 所〕 北区北7条西7丁目

〔訪問日〕 4月19日

〈7〉新選組隊士永倉新八来訪の地

 永倉新八というと新選組で勇名をはせた人物として知られる。新選組においては二番組々長や撃剣師範を務め土方歳三や沖田総司と並ぶ剣客として恐れられた。後に近藤勇や沖田総司と対立したこともあり、新政府軍に敗れてからは松前藩への帰参が認められ小樽に移住した。それからは樺戸集治監の剣術師範や北大剣道部の指導に当たり県道の型を指南したという。その当時の北大の道場が現北大本部の北西に位置していたことから、その近くの北大の塀のところに表示があり、歩道上には化粧タイルが埋め込まれていた。 

   

    ※ 永倉新八の足跡を示すのは歩道にたてられた写真の説明板だけでした。

   

   ※ その説明板の足元に化粧タイルが埋め込まれていました。

   

   ※ 道端に立てかけられていた説明板です。

〔住 所〕 北区北9条西5丁目北海道大学正門前

〔訪問日〕 4月19日

〈8〉佐藤昌介像

 北海道帝国大学の初代総長である佐藤昌介の銅像は、北大本部(北大正門を入って直ぐ)の庭園に設置されていた。

 佐藤昌介は札幌農学校1期生としてクラークの教えを受けたが、その後アメリカに留学し、帰国して札幌農学校教授、校長などを経て、大正7(1918)年に北海道帝国大学初代学長に就任した。現在の北海道大学は、札幌農学校として設立され、その後東北帝国大学札幌農科大学となったが、大正7年に北海道帝国大学として独立したが、その際に奔走しその後大学の基礎を築いたことから「北大育ての親」と呼ばれている北大初期の立役者である。なお、佐藤氏の専門は「農業経済学」である。

 銅像が建てられている場所は、その立役者に相応しい場所に建てられているように思えた。

   

   ※ 右側の建物が北大本部の事務管理棟です。その脇に佐藤昌介像が建立されていました。

   

   

    

〔住 所〕 北区北9条西5丁目北海道大学構内

〔訪問日〕 4月19日  



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