田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道の開拓期の女学校

2024-12-21 16:01:38 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道において開拓期に女学生のために学校を拓いたのは私立の学校だったそうです。北海道の開拓期の状況を調査・研究する学芸員の方から北海道の開拓期の女学校の様子についてお話を伺った。

   

 一昨日(12月19日)夜、札幌市豊平館において豊平館と北海道開拓の村の共催による「歴史連続講座」(全4回開催)の第1回講座が開講され、受講しました。第1回講座は「開拓期の女学生」と題して、北海道開拓の村学芸員の西田結香さんが講師を務められました。

      
      ※ 講師を務めた西田結香さんです。

 開拓期における女子教育の推進に努めたのは、開拓次官だった黒田清隆だという。黒田は明治4年に「開拓の要は人材教育、その根本は母となる女子の教育にある」として、わずか8歳だった津田梅子(後の津田塾大を創設した人物)をはじめとする5人の少女をアメリカに留学させた人として知られています。
 一方で黒田は、明治5年に東京芝増上寺境内に4月に男子の「開拓使仮学校」を創立したのに続いて、9月には「開拓使女学校」を創立させたそうです。それは、女学校卒業後に北海道で開拓事業に従事する者の配偶者として、開拓に協力する花嫁を養成する目的があったそうです。
 明治8年、男子の「開拓使仮学校」は「札幌学校」と名を改め札幌に移転したのに続いて、「開拓使女学校」も「札幌女学校」と改称して札幌に移転しました。ところが官員と女生徒の間に醜聞が発生したことで当時の開拓大判官の松本十郎が激怒して翌明治9年に廃校となってしまったそうです。
 その後の女子教育は、明治11年になって函館に三人の修道女がやってきて教育事業を興した(現在の函館白百合学園)のが本格的な女子教育の始まりとされています。
 続いて明治15年、同じ函館にメソジスト派のメリマン・ハリス夫妻によって「カロライン・ライト・メモリアルスクール(現在の遺愛学院)」が創設されました。
  明治20年になって札幌にも「スミス女学校(現在の北星学園)」が新渡戸稲造の支援もあって創設されました。また、函館にはさらに仏教系の「六和女学校(現在の函館大谷高校)」も創設されています。
 こうして紹介してくると、北海道の女学校の始まりは全て私立の学校であることが特徴の一つです。公立の女学校はそれから遅れること15年。明治35年になってようやく北海道庁立札幌高等女学校(現在の札幌北高校)」が始まりでした。その後は、北海道各地に公立の高等女学校が次々と創設されていきました。
 講師の西田さんは、直接「遺愛学院」に赴き、学校の実態調査を行ったそうです。創設当時から保管されていた明治期の資料は明治40年函館大火により大半を焼失してしまい、現存するのは大正以降の資料だったということですが、当時の入学願書、在学保証書、成績表、学校日誌、等々貴重な資料を確認することができたということで、そのうちの何点かを写真で拝見することができました。校内の様子も古き良き時代の雰囲気を残したものを写真で確認させていただきました。
 「函館遺愛学院」というと、校舎の壁がピンク色に彩られていて、いかにも女子高という感じですが、私も函館を訪れた際に校舎を外側から見させていただいたことを思い出しました。

    
    ※ ピンク色の壁が印象的な函館遺愛学院の校舎です。

 現在、道内の女子高校は全て私立で、函館に3校(遺愛女子高校、函館大妻高校、函館白百合高校)、札幌に2校(藤女子高校、北星女子高校)の5校だけとなってしまいました。(札幌聖心女子学院高校は、本年度で募集停止となりました)時代の流れとはいえ、女子高の卒業生や関係者にとって寂しさは隠せないものと想像される。講師の西田さん自身、女子中学、女子高校の卒業生ということでしたが、彼女がその想いについて語ることはありませんでした。しかし、彼女が女子教育の歴史を研究テーマとしていること自体が、彼女の女子教育に対する思いが伝わってくるようでした…。

映画 深夜食堂 №384

2024-12-20 13:01:52 | 映画観賞・感想
 「小腹も心も満たします」が公式HPのキャッチコピーだが、文字どおり観終わった私の中にはホッコリとした、なんとも幸せな気分に満ち足りた思いだった。

   

道民カレッジ「懐かしフィルム上映会」の第2弾は、2015年公開された「深夜食堂」の第一作目の上映でした。(映画「深夜食堂」は「深夜食堂2」も公開されている)
キャッチコピーはさらに続きます。それは次のとおりです。
 「繁華街の路地裏にひっそりと佇む  “めしや” 。営業時間は深夜0時から朝の7時ごろまで。人は「深夜食堂」って言ってるよ。性別も、年齢も、境遇も異なったさまざまな客が店を訪れては、カウンターで生まれる小さなドラマ――。忘れられない味、そろってます。」
 映画はコミック雑誌で大評判となった「深夜食堂」が原作ということだが、私は全く見たことがありません。映画で “めしや” は「トン汁定食」が唯一のメニューだが、お客さんが所望すればマスター(小林薫)が作れるものなら何でも作ってくれるという食堂です。そこで映画では、「ナポリタン」、「とろろご飯」、「カレーライス」と、なんとも庶民的なメニューを小見出しとしたオムニバス的な構成でストーリーは進んでいきます。
 「ナポリタン」ではたまこ(高岡早紀)が、「とろろご飯」ではちはる(多部未華子)が、そして「カレーライス」では大石謙三(筒井道隆)が、それぞれ訳ありの事情を抱えながら偶然にもマスターの店の暖簾を潜ったのだった。訳あり役を演じた3人はそれぞれ演技達者な俳優だったのですが、その中でも最もホッコリさせてもらったちはる「とろろご飯」編のちはる(多部未華子)について少し深堀してみます。ちはるは故郷新潟で恋人に騙され有り金をすべて奪われ、傷心のまま東京に流れ着き、空腹のあまりマスターの店で無銭飲食してしまう。その食事代を弁償するためにマスターの店で住み込みで働かせてもらうことになった。そこで思わぬ才能を見せたことで、マスターの縁で料亭に板前見習いの職を得た、という凡そのストーリーです。その何とも一途な若い女性役を多部未華子が好演しているのです。 “めしや” を後にする際、「とろろご飯」を美味しそうにかっこむ多部未華子の食べっぷりも印象的です。

    

 筒井道隆、高岡早紀もそれぞれが役達者ぶりを発揮していましたし、小林薫の寡黙なマスター役も主役らしい存在感を発揮しています。そして脇を固める“めしや”の常連たちもそれぞれ個性を発揮し、なくてはならない存在として映画を締めていました。

    

 実は私はこの映画は2019年に一度見ていましたし、「深夜食堂2」も観ているのです。それくらいこの映画は私にとって特別な映画になっています。「深夜食堂2」も機会があればまた観てみたいと思っている映画です。
 それにしてもマスターの顔の縦面にうっすらと残る傷跡がずーっと気になりました。それについて全く説明はないのですが、あるいはマスターも若い頃はやんちゃをしていたのかなぁ…、などと想像しながら映画に魅入りました。

札幌おもしろ歴史散歩 by 和田哲氏

2024-12-19 22:08:12 | 講演・講義・フォーラム等
 和田氏のお話を伺うのは今年5度目である。さすがに博学の和田氏でもネタ切れの感があった感じです。それでも私は和田氏のお話を楽しくお聴きしたのでした。

   

 昨夜(12月18日)、連続受講している「労文協リレー講座」の第3回講座が北海道自治労会館で開講されました。第3回目のテーマは「札幌おもしろ歴史散歩」と題して街歩き研究家の和田哲氏が講師を務められました。
 和田氏のお話は、今年に入って「ほっかいどう学かでる講座」で1回、「札幌学院大コミュニティカレッジ」で3回、いずれも同じテーマでこれまで受講してきました。
 「あるいは同じような話を聴くことになるかも?」と思っていたところもあったのですが、さすがにいくら博学の和田氏とはいえ、おもしろそうな札幌の歴史の話がそうそう多くは転がっていなかったようです。私にとっては、聴いたことのあるお話が多かったのも仕方のないことだと思えました。

    

 昨夜お話された内容は、①札幌の条・丁目、②北海道三大名橋、③札幌市電+名古屋市電、④北海道私鉄物語、⑤アンパン道路、⑥冬季札幌オリンピック、⑦ススキノの劇場&狸小路、⑧北海道盆踊り、⑨幻の藻岩山スキー場、そして「おまけ」として藻岩山中腹に設けられたスキー神社のお話、といったラインナップでした。
 いずれもが、以前にお聞きした話で、拙ブログでもその多くを触れているので、本稿では、①の札幌の条・丁目のお話を少し深堀してみたいと思います。
 まず、街の中心部を「北○条・西丁目」というような企画割りしている都市は他府県には存在しないということです。北海道内には札幌に倣って20数市町で採用しているものの、他府県では街の名称を付けているということです。例えば東京都では大手町1条1丁目というように…。もちろん札幌でも、郊外へ行くと平岸2条3丁目というような表示はありますが、札幌市の中心部のほとんどは北〇条西〇丁目というように表示されていて、私たちとしてはそれが当たり前のように思っていますが、全国的に見るとそれが当たり前のことではないことが分かりました。
   
※ 少々図が不鮮明ですが、東京の街名が非常にたくさん付けられていることが分かる図です。

 そして札幌の条・丁目がどれだけ広がっているかというと、「条」では南は南39条、北は北51条まで広がっています。「丁目」の方は東西ともに30丁目まで広がっています。
 そして条・丁目の一つの区画は道路を除き一辺が109mの正方形で区角割りされています。ですから歩くときに目的のところまで凡その距離を知ることができるのです。
 ところが特例はどこにもあるようで、区画が正方形でないところも存在します。その中でも南10条西2丁目は、ほんの小さな三角形の区画で一周しても僅か40mに満たない広さで、札幌市内で最小の条・丁目だそうです。もちろん住んでいる人はいないそうです。
 一方、桁違いに広い条・丁目は北16条西16丁目で、ここは札幌競馬場がすっぽりと入る区画だそうです。こちらは一周約4kmだそうです。
 また、札幌の街は前記したように正方形で条・丁目が区角割して街づくりをしたために、碁盤の街とも称されますが、NHKテレビの「ブラタモリ」でも話題になったように、街中で微妙に道路が屈曲しているところがあるのです。その理由は、北海道開拓使が区角割をした際に、大通に対して現在の国道230号線(通称「石山通」)を接続する際に直角ではなく95度で接続したことに原因があるそうです。(これは磁石上の南北を基準としたため)

  
  ※ 大通公園(緑色の区画です)とそれに接続する赤い縦の線(国道230号線)が微妙に歪んで接続されていることがお分かりかと思います。

 札幌本府は大友堀(現在の創成川)を基準として街づくりを進めたのに対して、当時は札幌本部とは離れた山鼻地区の開拓に入った山鼻屯田兵村は国道230号線を基準に(つまり磁石の北を基本に)街づくりが進められたそうです。そのため街が発展し、札幌の中心街と山鼻地区が結ばれたときに道路に微妙な差が生じたそうです。その微妙な差が今現在もその痕跡を残しているそうです。
 そのことについて、和田氏は札幌本府の街づくりを担当したのが岩村通俊だったのに対して、屯田兵制度を指揮したのが黒田清隆だったことに遠因があるのでは、推測を述べられました。つまり岩村と黒田は互いに反目し合っていた間柄だったそうで、岩村は山鼻屯田兵村の区角割をする際、札幌本府の街づくりに準ずることが当然と考えていたのだが、黒田は岩村の思いなどには一顧だにすることなく独自の街づくりを指示したために、今のように微妙な差が生じてしまったのではないか、との推測を述べられました。果たして真相は?? 
 いや~、歴史って面白いですね。和田氏には、これからも札幌の街を隅々まで巡り歩いて新たな発見をしていただき、それを私たちの提供していただけたらと勝手な願いを持っているのですが…。                                     

久々の札幌市内地下道ウォーク

2024-12-18 14:06:20 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 久々に何かの用件を果たすのが目的ではなく、ただ “歩く” ことだけを目的に札幌市内の地下道をウォーキングしました。「それじゃ、何のため?」と訝る向きもあるかもしれませんが、それは以下に綴るなんともつまらぬ理由だったのです。

 一昨日(12月16日)、この日は特に予定していたことがなかったので、「地下歩道を歩いてみよう!」と思い立った。それは、今年は夏季間に長距離ウォークやJRヘルシーウォークに取り組んできたこともあって、冬季になって歩くことが減ってきていたにも関わらず、12月に入ってからも一日平均の歩行歩数が1万歩を超えていました。ところがその歩数が1万数十歩まで落ち込んでいたのです。「せっかくここまで1万歩以上をキープしてきたのに、1万歩を切るのはいかにも惜しい!」という思いになり、健康目的でも何でもなく、ただただ年間平均歩数1万歩を達成したいがために、地下道ウォークを思い立ったというわけなのです。
 私は「札幌駅前地下歩道空間」が完成した2011年の4月に一度その当時に完成していた地下歩道を全て歩いたことがありました。その記録を見ると、地下道を歩いての合計が12,890歩、距離約7.7kmとなっていました。その後、地下歩道が延びたところもあり、現在はどれくらいの歩数、距離となるのかも興味の一つでした。
 札幌市の地下歩道を網羅した地図を探したのですが、適当なものがなく下に示した図がせいぜいでしたので、それを用いながら当日を再現してみることにします。

     
※ 私が見つけた中で、最も相応しい地図です。地図の中に赤く丸く描いているところは、「ここに地下道があったら…」という希望だと思われます。私が✖をしています。方位は右上に私が書き加えました。

 まず朝、自宅から都心に向かい、地下歩道では最西端となる北1条西6丁目の「公共地下歩道」というところから地下に入りました。この地下歩道は真っ直ぐ東に向かい、「札幌駅前地下歩道空間」と交差します。

    
 ※ 最初に地下道に入った最西端にあたる地下道入口です。傍の建物は「アーバンネット北海道」のビルです。

 交差した地点から進路を北に取り、JR札幌駅の地下を通り、「札幌エルプラザ公共4施設」の前を右折して50mほど行ったところから再び右折して進路を南に取り、再びJR札幌駅の地下を通過し、東急百貨店の地下一階を通り過ぎ、地下鉄南北線「札幌駅」と地下鉄東豊線「札幌駅」を繋ぐ通路に出ます。
 地下鉄東豊線「札幌駅」に至ると、今度は再び北へ進路を取ると、なんとも長い長い地下道が北に向かって伸びているところを歩きます。この部分が最近できた地下道です。その終点は北8条西1丁目に新設された「ONE札幌ステーションタワー」という高層マンションや「ホテルエミオン札幌」という施設と繋がっていました。ここが地下道の最北端ということになります。ここまで地下道に入ってから4,655歩、3.2kmと歩数計は表示していました。

    
    ※ 地下歩道の最北端にあたる「ONE札幌ステーションタワー」です。2階部分には「北八劇場」が入っています。
    
    「ONE札幌ステーションタワー」に至る通路が最も閑散としていました。

 進路はもと来た地下道を戻ります。この地下歩道が最も人との交差が少ない、寂しい通路でした。再び「札幌駅前地下歩道空間」を通り、真っすぐ南に向かいます。

    
   ※ 「札幌駅前地下歩道空間」の通路はいつも通行する人で賑わっているようです。

 「札幌駅前地下歩道空間」を抜け、地下鉄「大通駅」のコンコースを抜け、地下道の中でも最も賑わっている「ポールタウン」を通って、地下道の最南端となる新設なった「ココノススキノ」に至ります。ここで一度地上へ出ると戸外は雪模様でした。地下歩道はまったく別世界です。地下歩道が冬季のウォーキングに適していることを実感させられました。

    
    ※ 最南端にあたる「ココノススキノ」のビルです。真ん中付近に白い表示板が見えるところが地下歩道への入り口です。この日は雪が舞っていました。

 「ココノススキノ」から折り返して、地下鉄「大通駅」のコンコースまで戻って、今度は東に進路を取って、地下鉄の「大通駅」と「バスセンター前駅」を繋ぐ通路を往きます。地下歩道は「バスセンター前駅」を通り過ぎ大通東5丁目まで延びています。ここの出口の先には「市立中央小学校」が建っています。ここが今回の地下歩道ウォークの最東端となります。ここまでで地下道をスタートしてから歩数11,600歩、距離約8kmと表示されていました。

    
    ※ 地下歩道最東端にあたる大通東5丁目の入口です。
    
 このあたりまで来て、私はもう疲労困憊でした。地下鉄「大通駅」のコンコースまで戻り、とあるカフェでハンバーガーを頬張りながら一休みしました。
そして、ここから札幌地下街の「オーロラタウン」の先に延ばされた、色々な文化施設が入る「市民交流プラザ」までの地下歩道を往復しました。ここのプレイガイドであるチケットを入手しようとしたのですが、取り扱っていなかったことから、地下歩道をまたまた移動し、「道新プレイガイド」(書店「ジュンク堂」の地下にある)まで往復したのは予定外の行動でした。
 そしてようやく最初に地下歩道に入った北1条西6丁目の「公共地下歩道」から地上に戻りました。この時の歩数計は、歩数15,945歩、距離約10.8kmと出ました。これに自宅までの往復を加えると、この日は歩数21,482歩、距離約14.1kmということになりました。

       
       ※ 札幌地下街「オーロラタウン」と繋がる市民交流プラザのビルです。
 
 今日現在、目的の平均歩数は10,181歩です。なんとか2024年の平均歩数1万歩をクリアできるのでは?と思っていますが、安心はできません。これからも移動にはできるだけ歩こうと思っています。その結果については年末に報告します。


改めてACP(人生会議)について学ぶ

2024-12-17 20:57:43 | 講演・講義・フォーラム等
 今年に入ってから何度か「人生会議」という言葉を聴く機会がありました。「人生会議とは何のことか?」おぼろげながら概要は把握していましたが、今回改めて「人生会議」について学ぶ機会を得ることができました。

   

 12月15日(日)午前、札幌市立病院市民公開講座が開講されたので参加した。テーマは「自分の価値観や希望を、大切な人に、医療関係者に伝えるために」というもので、札幌市立病院の看護関係職員の方3名の方が「人生会議」について様々な角度から説明してくれました。
 そもそもACPとは、Advance Care Planningの頭文字を取ったもので、Advanceとは「進む」とか「進める」という意味があるようです。Careは「心配」とか「不安」という意味です。そしてPlanningは「計画」とか「立案」という意味があります。つまり直訳すると「不安なことに対して、計画的に解決に向けて進める」というような意味になろうかと思います。もう少し意訳をすると「人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族や医療・ケアチームと共にあらかじめ話し合うプロセス」のことを日本(厚労省)では「人生会議」と称したようです。
 各講師のテーマは以下のとおりです。
 ◇「大切な人とあなたの人生会議」
 ◇「もしもに備えた私の心づもりを考える」
 ◇「APC 人生会議~自分の価値観や希望を大切な人や医療者に伝えるために~」
と三者が講義をされたのだが、三者の内容に大きな違いはありませんでした。そこで本稿では、三人の講師が説かれた内容を統合して記録することにします。
 「人生会議」を行う時、大切にしたいことは「自分が何を大切としているのか。どのように生き方を望むのか。繰り返し考え、話し合い、家族や医療・ケアチームと共有する」ことが大切だということです。 

     
 具体的には、
 ① 病気の有無に関わらず、「日々を過ごすうえで大切にしたいとや希望は何か?」
 ② もしも治らない病気などになった際に、「延命治療を望むのか?」それとも「痛みや辛さを緩和する治療のみを希望するのか?」
 ③ 治療やケアについて、自分が決められなくなったとき、代わりを誰に頼むのか?
 ④ もしも治らない病気などになった場合、最期をどこで過ごしたいのか?
 ⑤ だんだん口から栄養が取れなくなった時、「栄養点滴」、「鼻から管で栄養を入れるのか」、「胃ろうを希望するのか」、「自然の経過でいいのか」、どれを希望するのか?
 ⑥ 治らない病気で療養中に、急に心臓や呼吸が止まった時、延命措置を希望するのか、希望しないのか?
 等々について、家族や医療従事者と話し合い、希望を伝えおくことを「人生会議」と称しているようです。
 この希望は、時と共に、あるいは病変によって変わっていくことも一向にかまわないと言います。今現在の本人の希望や気持ちを周りに伝えておくことが大切だと各講師は強調されました。

    
    ※ 札幌市立病院の全景です。

 自分らしく最後まで生きるために、現在の自分の気持ちを周りに伝えておくことにより、自分も、そして周りの人たちも納得できる最期を迎えることができる、というのが「人生会議」の大きな特長であることを教えられました。

札響の第九 XVI

2024-12-16 19:55:12 | ステージ & エンターテイメント
 「XVI」とは、ローマ数字で「16」を表します。つまり私たちにとって「札響の第九」を聴き始めてから16年目ということになるのです。今や完全なる年末行事と化してしまった2024年の「札響の第九」を4人揃って楽しみました。

   

 12月21日(土)夕刻、午後5時スタートの「札響の第九」を今年も友人たちと一緒に楽しむことができました。
 毎年触れていることですが、私たちにとって「札響の第九」は “習い性” となったようなもので、16年間も継続して聴いていると「札響の第九」を聴かねば年を越した気になれないのでは?と思ってしまっているところがあるようです。
 考えてみると、私たち4人のうち、私を含めて3人は退職を機に札幌に居を定めた集まりなのです。そして出会った翌年に「第九でも聴いて年を越しましょうか?」と提案したのを機に、それが今日までそれが続いているということなのです。
 「札響の第九」では、本編であるベートーヴェンの「交響曲第9番ニ短調『合唱付き』」の前にいつも小曲が演奏されるが、今年はフィンジ作曲の「武器よさらば」が取り上げられた。今回この曲が取り上げられた理由について書かれたものをどこかで見た記憶があるのだが、それによると現在のきな臭い世界情勢に対するメッセージ的意味合いがあるとしていたようです。曲はテノール歌手(宮里直樹)がアリアを披露したのですが、その旋律がどこか物悲し気に聴こえてきた。「第九」の前奏曲的な意味合いが感じられた一曲でした。
 さて、肝心の「交響曲第9番ニ短調『合唱付き』」の方ですが、もう私としては表現する何物もないのですが、ブログに投稿することを意識して、演奏を聴きながら簡単なメモを書きながら演奏に聞き入りました。

      
      ※ 演奏会当日に配布されたプログラムの表紙です。

 そのメモによると、〈第一楽章〉入りのヴァイオリンの囁くような調べを聴くとぞくぞくする。またこの季節がやってきたなぁ、と…。そして第一楽章の後半の力強い響きが素晴らしい。〈第二楽章〉きれいな弦の響きが印象的。〈第三楽章〉前半の印象はやや薄い。第三楽章の最後半、チェロとコントラバスによる主旋律が重低音のように響き、それが他の楽器を誘い、次第に大きな響きになっていき、第四楽章の合唱への期待感を高めてくれる。そして〈第四楽章〉それまで約50分間、じっと座ったまま出番を待っていた4人のソプラノ、アルト、テノール、バリトンの4人の歌手と、100人を超える大合唱団が高らかに高らかに「歓喜」の歌を歌いあげる様はまさに圧巻!
 と私のメモは記されていた。私にとって、クラシック音楽の感想を評するのはこれくらいがせいぜいです。例えのその感想が稚拙ではあっても、その人個々人が演奏に対して満足感を抱くことができれば、それでいいのだと私は思っています。
 おっと、指揮を担当された川瀬賢太郎氏についても触れておかねばならない。川瀬氏は現在札響の正指揮者です。スラリとした長身で指揮ぶりも見映えする方ですが、調べてみると現在39歳と、指揮者としてはまだ若手に属するのではないでしょうか?その指揮ぶりは若々しく、楽団員をぐいぐいと引っ張っていく躍動感に満ちた指揮ぶりがとても印象的な方でした。
 今年も「札響の第九」に満足感を抱いた、私たち4人はいつものように近くのホテルに移動し、「また、今年も4人で聴くことができましたねぇ」と互いの健康を喜び、ささやかな忘年の宴を催したのでした。

薩摩琵琶で聴く義士講

2024-12-15 15:16:24 | ステージ & エンターテイメント
 何とも古風な雰囲気の中で「義士講」を聴いた。「義士」といえば、我が国では「赤穂義士」である。12月14日、赤穂義士が討ち入りをした記念の日に「雅水会」の皆さんが吟ずる赤穂事件を興味深くお聴きした。

      

 昨日(12月14日)午後、札幌市資料館で「雅水会」の皆さんが「義士講」を吟ずる(“吟ずる”と称して適当なのか判断できないのだが…)のを聴いた。
 薩摩琵琶で聴く「義士講」ということで、私同様に珍しさが興味を読んだのか、会場となった札幌市資料館の2F研修室は満員の盛況だった。(50名前後入っていたのでは?)
当日のプログラムは次のようになっていた。
 1.門琵琶  5名による薩摩琵琶の演奏

    

 2.鳥川   客演による「大和胡弓」の演奏
  〈以下は個人による義士講の演奏と口演です〉
 3.松の廊下
 4.田村屋敷
 5.山科の別れ
 6.雪の南部坂
 7.松浦の太鼓
   ( 休 憩 )
 8.鹿の遠音 客演による「大和胡弓」の演奏
 9.雪晴れ  5名による薩摩琵琶の演奏         
 私は都合で休憩のところで中座することになってしまったが、3~7の「赤穂事件」の顛末を演奏しながら吟ずるところが非常の興味深かった。少しその場面を説明すると…。
 「松の廊下」はご存じ、赤穂藩主浅野内匠頭が、江戸城松之廊下で吉良上野介に斬りかかった事件の場面である。
       
  ※ 「松の廊下」を奏し、吟じた「雅水会」の代表・山西雅水さんです。

 「田村屋敷」は、第5代将軍綱吉から切腹を命ぜられた浅野内匠頭が田村屋敷にて切腹するところを描いた場面である。
 「山科の別れ」は、赤穂藩の筆頭家老の大石内蔵助は吉良上野介への復讐を決意するが、その意志を悟られぬよう敵を欺くため酒色に溺れたような生活で妻や母親からも愛想をつかされるが、息子主税には本心を打ち明けると主税は感激し父と運命を共にすることを誓う場面である。
 「雪の南部坂」は、いよいよ討ち入り当日、雪が降りしきる中、吉良邸に向かう吉良邸に向かう中、ようやく大石内蔵助が討ち入りの本心を明かす場面である。
 「松浦の太鼓」は、いよいよ討ち入り直前に吉良邸の隣に居する両国橋に近い松浦鎮信公の庭にて夜のしじまを打ち破って太鼓の音が響き渡った。その太鼓を合図に積年の恨みを晴らすべく四十七士が獅子奮迅の活躍で思いを遂げる場面である。
 実はこれらの吟ずる内容については主催者が予め文書を用意してくれていたため、私たちは吟ずる内容がよく把握することができた。
    
     ※ このような吟ずる内容を記したペーパーが配られました。

 5人の技量はそれぞれではあったが、皆さん一生懸命に琵琶を奏し、吟じられる姿には好感が持て、聴かせていただいた私も初めての体験に満足度が大きかった。
 なお、薩摩琵琶とは、音階がないため奏ずるのが難しいとされているようだ。その薩摩琵琶を改良したものが有名な筑前琵琶ということのようだ。したがって、薩摩琵琶は男性向き、筑前琵琶は女性向とされているようだが、「雅水会」の皆さまは全員が女性である。なぜ薩摩琵琶を選んだのか聴いてみたい気もするのだが…。 
     
     ※ 薩摩琵琶です。   

映画 シャレード №383  

2024-12-14 11:30:24 | 映画観賞・感想
 1963(昭和38)年の映画である。往年の大スター、オードリーヘップバーンとケイリーブラントが主演するロマンチックサスペンスであり、ちょっぴりコメディ的要素も混じった映画だったが、後半の盛り上げ方はさすがにハリウッド映画である。おおいに楽しませてもらった。

      

 道民カレッジでは時折り「懐かしフィルム上映会」を催しているが、本年は今週の12、13日と来週の19、20日に実施することになっていた。
 そこで私は昨日(13日)、表記のように舞台はフランス・パリだがハリウッドが制作した映画「シャレード」を楽しませてもらった。
「シャレード」とは、フランス語で「謎解き」とか「言葉当て遊び」といった意味があるそうだ。
 この映画のストーリーはアメリカ人のレジーナ・ランパート(オードリーヘップバーン)は、富豪ではあるが謎の多いフランス人の夫との離婚を決意するのだが、その夫が謎の死を遂げたことで、夫の隠し資産の争奪を巡って、昔の仲間3人が暗躍する。その中にランバートを助けるホワイトナイトにピーター・ジョシュア(ケーリー・グラント)に現れるのだが、彼も一筋縄ではいかない謎を秘めた男だった。さらにはレジーナを助けるかのようにアメリカ大使館員のバーソロミューという男が絡んでくる。この “謎解き” がこの映画のテーマということのようだ。

    

 映画の前半はこうした登場人物の相関関係に多くの時間を要するのだが、後半はスリルに満ちた謎解きが非常に見ている者を夢中にさせる要素に富んでいた。
 最後の最後のどんでん返しも観客を思わず「わぁー!」言わせる程の鮮やかな結末でした。

 実はこの日、私は上映開始時間の30分ほど前に会場に着いたのだが、すると懇意にしている講座の担当の方が「○○さんはパリへ行ったことがあるの?」と問いかけてきました。「私は50数年前の学生時代に訪れたことがあります」と答えたところ、「何かエピソードがありますか?」との問いだった。私は担当者との気楽な会話のつもりで、パリ市内で「詐欺に遭遇した」という話をしたところ、そのことを上映前に参加者の前で話をしてほしいということになり、とんだ失敗談を参加者の前で披歴することになってしまい冷や汗をかいてしまった。もっとも、詐欺に遭遇とはいっても所詮貧乏旅行者である。損害は微々たるものだったのだが…。

     
     ※ この形のシトロエンをご記憶の方もいらっしゃると思います。

 映画は1963年制作ということだが、私がパリを訪れたのは1968年11月だったので、映画が制作された5年後だったということになる。映画の中に出てきたカエルのような、今見れば異様な形状をしたシトロエンの車が懐かしい。

かでるクリスマスコンサート2024

2024-12-13 11:54:30 | ステージ & エンターテイメント
 北海道警察音楽隊の吹奏楽は軽やかで、聴いている誰もが心地良い気持ちになれる音である。その軽やかな音で、クリスマスソングをはじめとした親しみ深い曲目の演奏を楽しんだ。加えて同隊所属(?)のカラーガード隊が目の方も楽しませてくれた。

    

 昨夕(12月12日)、毎年年末の恒例コンサート「かでるクリスマスコンサート2024」が開催され、応募したところ幸運にも当選葉書が舞い込んだので会場のかでるホールに駆け付けた。会場は北海道警察音楽隊の人気を裏付けるように満席状態だった。
 コンサートは2部に分かれていて、第1部は北海道警察音楽隊の単独のコンサート、第2部はカラーガード隊のステージドリルに道警音楽隊が伴奏をするという形で行われた。
 例によって演奏されて曲目を紹介すると…
【第1部】
 ◇L.アンダーソン/クリスマスフェスティバル
 ◇久石譲/人生のメリーゴーランド
 ◇米津玄師/さよーならまたいつか
 ◇大野雄二/ルパン三世のテーマ ’89
       ~札幌中央警察署からのお知らせ~
 ◇R. ラヴランド/ユー・レイズ・ミー・アップ
 ◇本間勇輔/古畑任三郎のテーマ
 ◇黒須克彦/夢をかなえてドラえもん
 ◇山下達郎/クリスマス・イブ
【第2部】
  《ステージドリル》
   ミュージック・パトロール2024 クリスマススペシャル
【アンコール】
 ◇V.イルヴィソーケル他/The Fox 
     ※音楽にカラーガード隊が「キツネダンス」を披露

   
 最初にも触れたが、道警音楽隊の音楽は私の耳には実に軽やかである。軽やかということは、その技量が優れているために演奏者たちが余裕をもって演奏しているからに他ならない。26名としてけっし多くはない演奏陣ではあるが、個々の技量はかなり確かなものであるということだ。それが聴く者にとっては心地良い音に感じられるのだ。
 一方、カラーガード隊は北海道警察の女性警官の中から選抜された方々だろうか?いずれもがスタイルが良く、見映えする方6名で構成されている。練習で相当に鍛えられているのであろう、キレの良いドリル、ダンスを披露してくれた。
 音楽隊のモットーは「皆さま(道民)に愛される音楽隊」ということだ。これからも私たち道民を楽しませてくれる演奏を期待したいと思う。
 

映画  海の沈黙  №382 

2024-12-12 15:20:29 | 映画観賞・感想
 倉本聰の原作・脚本、豪華出演陣、そして小樽市でのロケと魅力いっぱいの映画だったのだが、観終えた後に何故かもやもや感が残ったのも事実だった…。それが何だったのか?振り返ってみたい。

     

 昨日(12月18日)午後、ユナイテッドシネマに赴いて映画「海の沈黙」を観賞した。
 原作はテレビドラマで数々の名作を世に出したあの倉本聰氏が満を持して放った集大成的作品であるという。私は期待をもって映画館に向かった。
 凡そのストーリーは次のようだった。(あるいは解釈違いも含まれているかもしれない)
 「二人の画家、田村修三(石坂浩二)と津山竜次(元木雅弘)は若い頃同じ師について作画の修行に励んでいた。その頃、津山は天才画家とも評されていたのだが、天才ゆえの奇抜な行動も多く、田村の暗躍もあって師匠から破門されたという。一方の田村は順調に出世し、今や世界的な画家となり名声を博している。一方津山は貧困の生活の中で作画だけは続けていた」

   

 こうした背景をもとに、映画は冒頭に田村の作品展において、田村は自らの作品に贋作があると指摘する。その贋作はどうやら津山が描いたもので、原作より良い出来となっていた。このことを軸としてストーリーが展開するのなら、私も付いていけたのだが、そこに新たな要素が次々と加わるのだ。一つは、津山は油絵を描く一方、父の技を受け継ぎ刺青の彫り士としての顔を持っていた。その津山が彫った刺青を全身に施した女が自殺するのだ。さらには、田村の妻である安奈(小泉今日子)は、以前は津山の恋人だった…。そしてスイケン(中井貴一)と称する得体のしれない人物が田村と津山の周りで蠢く、というように複雑極まりないストーリー展開なのだが、そのあたりについて説明がないまま話が進行していくために、観る者としてはたえずもやもや感に包まれたままに画面を見つめるしかなかった。
 唯一の救いは、主演の本木雅弘が相変わらずの迫真の演技を見せていたことか?彼はこの映画のために10キロもの減量を敢行したともいう。中井貴一の年齢相応の渋い面妖な演技も見ものである。

    

 惜しむらくは、倉本氏が久しぶりの原作・脚本ということもあって少し張り切り過ぎ、多くの要素を詰め込み過ぎたきらいはなかったろうか?
映画として多くの観客を楽しませるためには、もう少しスリムな内容にして観客に丁寧に説明することが必要だったような気がしてならない…。