昨日の6日は恐怖の日・オーメンの日だそうだ。
新約聖書の以下の一節に因む。
また凡ての人をして、大小・貧富・自主・奴隷の別なく、或はその右の手、あるいは其の額に徽章を受けしむ。
この徽章を有たぬ凡ての者に賣買することを得ざらしめたり。
その徽章は獸の名、もしくは其の名の數字なり。
智慧は茲にあり、心ある者は獸の數字を算へよ。
獸の數字は人の數字にして、その數字は六百六十六なり。
映画『オーメン』に出てくる「666」という数字の根拠は上記の一節である。
『今日は何の日~毎日が記念日』参照
それで思い出したが怖い話と言うか不思議な話?
はたまた夢の話かもしれない。
あれは、十何年になるだろうか。
たしか…ばぁ~ちゃんが寝たきりになる、2~3年前
ちょうど我が家の夫が、くも膜下出血で入院手術をした時の話。
術後の経過もよく、入院当初から泊り込んでいた私に
看護師さんに『泊り込みで付いてなくても大丈夫ですよ』と言われ
当時一番下の子が小学生だった事もあり
いくら、ばぁ~ちゃんが付いているとは言え
何日も留守にするわけにもいかずに、夜は家に帰ることにした。
その時に入っていた部屋は二人部屋で
そのひとつのベッドも空いていた状態だった。
入院して即手術で、術後一週間まで経っていなかったので
確か…8月の末頃だったのではないかと思う。
消灯時間になって、じゃ~今夜からは帰って、また明日来るからと病室を後にした。
次の朝、病室へ行くと夫が真面目な顔で、オレは夢でも見たのだろうか…と。
夜中に看護婦(当時は看護婦と言っていた。)さんが来て
区切られたカーテンから入り足元に立ち、夜の見回りかと思ったが
足元の布団を持ち上げ揺さぶったらしい。
寝ぼけ半分だったので、自分の足でその辺りを蹴った事は覚えているが
やっぱり 夢だったのだろうか…と言う。
ただそれだけなのだが、夢を見ていただけなのかもしれないが
夢ではなかったのかもしれない。
病院と言う所は生と死の間にある場所だ。
元気で出て行く者もいれば、無言の帰宅をする者もいる。
夜に誰も居なくなった待合室や止まったエレベーターから誰も出てこない時
廊下の先の薄暗い空間などには、生への想いが漂っていてもおかしくはない。
手術が終わったばかりの時
観察室と言って看護師詰め所の隣にある部屋にいるのだが
真夜中に運ばれてきた老人が次の日には息を引き取った。
その老人の連れ合いは、これから何を支えに生きて行けば良いのかと
泣き崩れた場所にも居合わせた。
そんな、残していく者への未練を残して逝かなければならない無念さ。
何があってもおかしくはないとさえ思える場所なのだ。
なに~ 夜一人になったから、寂しくって夢でも見たんだべ。
看護婦さんに甘やかしちゃダメだって言われたよ~~!と、一括。
それで終わった話だが、たまに何かの折に夫はその事を話す…。
ただ年々話がオーバーになってくるような気がするのには笑えるのだが。
逢魔ヶ時には少し早い午後6時の夕暮れ。
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逢魔ヶ時とは、夕方・黄昏の頃…日が沈み周囲が闇に浸かる時刻。
この時間帯は一般的に、奇妙な感覚を覚えたり幻覚を見たりしやすく
その為なのか、事故などが多い時間帯でもある。
あらぬものを見る、事故を起こす…一番 “魔”に遭遇しやすい時刻。
魔に出逢う刻…それが逢魔ヶ時。