元和九年(1623)の六月十六日、豊前時代の忠興の愛妾・小やゝが亡くなっている。
忠興が愛してやまなかった萬姫(烏丸光賢簾中)の生母である。小やゝは綿考輯録によると「このうえ」と呼ばれていたらしいが、福岡県史・近世史編「細川小倉藩・三」によると「小御上」と記してある。
萬姫の生年が慶長三年(1598)である事からすると40歳前後であろうか?
小やゝは明智光秀の家老・明智次左衛門女とされる。
上記「細川小倉藩」によると、死去については全く触れられていないが、発病の状況などが記されている。
五月十二日
一、中津小御上様御煩之由候て、仁喜斎呼ニ参候間、乗物かき七人可申付由、式部殿・民部殿ゟ被仰
候間、御荒仕子七人、十一日夜半時分ニ申付、遣事
五月廿六日
御町奉行衆へ申渡、廿七日二みこ(巫女)中津へ遣候事
一、中津御おく方御用ニて、田町之みこ呼来候事
六月二日
御加子無之ニ付、浦水夫申付候処、越前宰相様御物送参候御船弐艘、明日之夜戻其御加子三拾弐人申付、今日遣候也
一、中津小御上様御煩ニ付、見齋御薬ニ而無御験故、重而上方へ御薬師呼ニ被遣候、御加子三拾弐
人申付候へと、続少助・長船十右衛門方ゟ、式部殿・民部殿・我々三人へ申來候事
六月八日
御舟加子四拾人、六月十日ニ、中津へ遣申候事
一、中津ゟ、小御上様御煩ニ付、御医師之御用ニ、御加子之儀申来ルり、民部殿ニて返事仕候、御飛
脚亥之刻ニ戻し申候
六月十三日
一、小御上様御煩ニ付、御薬師見齋御上せ候ニ、御加子入と候て、四十人、又、御浦加子六人御やと
い候て遣候へ共、不入由候て、今晩おもとし候、御加子之内三十五人もとり、五人ハ上方へ御の
ほせ候由候、浦加子六人ハ在所〃へもとり申候由候
六月十六日逝去 (記事なし)
忠興公により豊前中津に西光寺が建立されたが、忠興公が八代に入られるにあたり西光寺も移築され、後盛光寺と寺号を改められた。
その盛光寺に関する情報を探ると、ここに「法号西光寺法樹栄林」という方が祀られており、その没年月が元和九年(1623)の六月十六日とある。
ここでは「小山リン」と名乗っていたとされるが、「小山」という姓も謎である。
西光寺法樹栄林が「小やゝ」であることはほぼ間違いないと思っているが、現在盛光寺様に問い合わせをしている。
どのような回答が得られるか待ち遠しいところである。
「小やゝ」を周岳院とする論考が見受けられるが、これはこれは明らかな間違いである。
当ブログに於いて、2009・06・03に「小野武次郎の完全なる間違い」でご紹介しているのでご覧いただきたい。
註:私はこの人物を「小やゝ」としてこの記事を書いたが、「小やゝ」は寛永十二年十一月十九日八代で没したことが判明した。
文章の削除は行わずーーーを入れて一応修正して置く。