津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠興愛妾「小やゝ」の死

2018-06-16 09:18:16 | 歴史

 元和九年(1623)の六月十六日、豊前時代の忠興の愛妾・小やゝが亡くなっている。
忠興が愛してやまなかった萬姫(烏丸光賢簾中)の生母である。小やゝは綿考輯録によると「このうえ」と呼ばれていたらしいが、福岡県史・近世史編「細川小倉藩・三」によると「小御上」と記してある。
萬姫の生年が慶長三年(1598)である事からすると40歳前後であろうか?
小やゝは明智光秀の家老・明智次左衛門女とされる。
上記「細川小倉藩」によると、死去については全く触れられていないが、発病の状況などが記されている。


   五月十二日
   一、中津小御上様御煩之由候て、仁喜斎呼ニ参候間、乗物かき七人可申付由、式部殿・民部殿ゟ被仰
     候間、御荒仕子七人、十一日夜半時分ニ申付、遣事

   五月廿六日
     御町奉行衆へ申渡、廿七日二みこ(巫女)中津へ遣候事
   一、中津御おく方御用ニて、田町之みこ呼来候事

   六月二日
     御加子無之ニ付、浦水夫申付候処、越前宰相様御物送参候御船弐艘、明日之夜戻其御加子三拾弐人申付、今日遣候也
   一、中津小御上様御煩ニ付、見齋御薬ニ而無御験故、重而上方へ御薬師呼ニ被遣候、御加子三拾弐
     人申付候へと、続少助・長船十右衛門方ゟ、式部殿・民部殿・我々三人へ申來候事

   六月八日
     御舟加子四拾人、六月十日ニ、中津へ遣申候事
   一、中津ゟ、小御上様御煩ニ付、御医師之御用ニ、御加子之儀申来ルり、民部殿ニて返事仕候、御飛
     脚亥之刻ニ戻し申候

   六月十三日
   一、小御上様御煩ニ付、御薬師見齋御上せ候ニ、御加子入と候て、四十人、又、御浦加子六人御やと
     い候て遣候へ共、不入由候て、今晩おもとし候、御加子之内三十五人もとり、五人ハ上方へ御の
     ほせ候由候、浦加子六人ハ在所〃へもとり申候由候

   六月十六日逝去     (記事なし)

 忠興公により豊前中津に西光寺が建立されたが、忠興公が八代に入られるにあたり西光寺も移築され、後盛光寺と寺号を改められた。
その盛光寺に関する情報を探ると、ここに「法号西光寺法樹栄林」という方が祀られており、その没年月が元和九年(1623)の六月十六日とある。
ここでは「小山リン」と名乗っていたとされるが、「小山」という姓も謎である。
西光寺法樹栄林が「小やゝ」であることはほぼ間違いないと思っているが、現在盛光寺様に問い合わせをしている。
どのような回答が得られるか待ち遠しいところである。

「小やゝ」を周岳院とする論考が見受けられるが、これはこれは明らかな間違いである。
当ブログに於いて、2009・06・03に「小野武次郎の完全なる間違い」でご紹介しているのでご覧いただきたい。

註:私はこの人物を「小やゝ」としてこの記事を書いたが、「小やゝ」は寛永十二年十一月十九日八代で没したことが判明した。
  文章の削除は行わずーーーを入れて一応修正して置く。

 

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■井田衍義・歛法條諭 十二・十三(6)

2018-06-16 06:30:10 | 史料

 一三七
  同五年
 〇色付帳畝物之儀ニ付、御達之事
   覺
一諸御郡色付之儀、毎年六月朔日より村々坪々相改、各寄
 帳付札にて色を付、印形用置、色付帳面被相達候様、去
 々年より及沙汰候、然處、間ニハ村役人共迄手前聞繕、
 其儘にて仕出候も有之由相聞候、去々年歯名寄帳改仕寄
 不申村方ハ、色付も及延引候、當時迄用來候坪々ニ色を
 付申儀候ヘハ、月越ニ成致延引候儀不埒之事共候、向後
 延引無之様可被相心得候、右色付改方之儀は、各受持之
 場所村々地方田畑有前委敷見届、被存居候ヘハ、秋ニ至
 御徳懸之節、村境幷早田・中田有所、畑方胡麻・大豆其
 外所々作り物地味相應、不相應之儀、得斗存居被申候ニ
 月、取捌宜可有之哉、荒地多村々は自然と荒地も改申儀
 ニ候得は、一應不成事候、一手永坪々不殘改候儀は、隙
 取可申候、中程之村・境合之村々立合一ヶ村委敷相改候
 ハヽ、六、質ヶ村ハ濟可申哉、次村々ハ改候村ニ順候仕
 法も可有之候、右之色付之儀、彌以六月朔日より相改、廿
 五日限帳面御役所へ可被差出候、尤新地方畝物ニ至迄、
 本が他同前可被相心得候事
一畝物之儀付て、去々年より及沙汰置候、然處、坪々有躰ニ
 は不書出、得斗無之由相聞不届き之至候、色付改之節、野
 開・御開畝物・御赦免開共、坪々札を立可被相改候、御
 赦免開之儀、近年ハ御免不成儀、然處御赦免開有之村
 々、近年開之田畑御赦免と申掠(カスメ)取候様成も有之由相聞
 候、野開地受野にても、空地又は御山畔御藪剪跡等開候
 ても、野開請野之内之由申候て作取候様なる儀も有之由
 相聞不届候、去々年委敷及沙汰候通、近年開申候分ハ、
 畝物ニ色付仕出せ、坪々可被相改候、川筋幷海邊旱出之
 所々七嶋植候分も、御定法之通畝物に出せ可被申事
一御百姓共零落仕潰候者共高地、村惣作いたし候村々も有
 之由、左様之村方ハ、別て諸事心を附可被申候、去年之
 改之節、一人別帳面ニ抱高・新地幷野開畝物・他村出    (カマド)=世帯
 作・御赦免開等迄付出候、右之作り掛分當御土免割帳一
 人別付札ニて、抱高外之田畑品々不殘書出せ見しらへ候
 て、村方ハ聢と不受持、外之品を受持候て作候者有之候
 ハヽ、夫々委被致吟味御役所へ可被相達事
 右之通、御内檢役へ及沙汰候間、此段下方へも可有御沙
 汰候、以上
   寶暦五年六月       御郡方

 一三八
  同年
 〇御免方之儀ニ付平太左衛門殿より被相渡候書付之事
   覺
一追々田方熟の時節ニ趣候、御免方之儀前々ハ書付を以沙
 汰有之候得共、各職分之事故年々委不申達、去年も一ト
 通及口達候事候、今年も同前と申内前代希有之水害にて、
 及大損候所も有之、又ハ蟲付或ハ水浸の所も追々はみ
 出、或ハ水害無之田方は豊作も有之、岡村ニても段々之
 厚薄可有之候得ハ、御免合之儀別て六ヶ敷年柄と相見候
 間、下見帳随分入念候様被申付、御土免割竈數之帳面分
 レ色付等迄引合、麁抹無之様上下厚薄夫々のかね合を被
 考候儀、第一之事候、水損之高落莫大之事ニて、御勝手
 向取計も至て難澁之儀候間、不及申旁委敷心を用可被申
 候、以上
   寶暦五年七月         堀 平太左衛門

 一三九
 〇寶暦六年御土免二歩下ヶ被下候ニ付御達之事
   覺
一去年度々之天災ニ付て、諸御郡共ニ下方至極及難儀候様
 子に相聞候、依之為御救各別之譯を以、當秋之儀、御蔵
 納・御給知共御土免貮歩下被下候間、此段可有沙汰候事
  但、損引二出候分ハ、土免崩候事候得ハ沙汰之外ニ
  候、以上
   正月    平太左衛門殿被仰渡候事

 一四〇
 〇同年右同受合免被仰付、増水夫二ノ口米御免之事
   覺
一當秋免の儀、只今より受合免被仰付、少々之不毛上にて
 も受合之通上納可被仰付候、作方無難ニ候得は、先達て
 貮歩下被仰付置候事ニ付、彌以上申分無之儀勿論二候得
 共、右二申達候少々之不毛上ハ、兎哉角なしニ此節受合
 之通上納仕事ニ付、猶左之通
 一水夫米増分
 一二ノ口米
 右貮稜、御免被下受合か被仰付候、左候得は下方も只今
 より限二安し、其上之事ハ銘々益ニ成事を相勵、根浚
 其外の手入ともに別て精力を盡し可申と存候、其上徳懸
 等之入組も無之、苅上ヶ跡作等ニ至迄、萬事簡易に有之、
 自然と下方之甘キニ可相成と存候、右二申達候通、作方
 無難に候得は、先達て之二歩下之上ニ、
右二稜之御免結
 構過る程候得は、只今より受合少々之不毛上ニハ、とや
 かく御断不申ため之事ニ候間、此段能々可有御承知候、
 勿論去年抔のことき若非常之天災有之候得は、是非受合
 之通趣各御出在委細小百姓共迄ニ御申聞、一統具ニ承知
 仕、彌以精力を盡し候様、尤水夫米増分二ノ口米、又は
 先達ての貮歩下ヶ之米合て、高ニ何程、反ニ何程下り候
 事、委敷書附、百姓共銘々下り方承知仕候様可有御取計
 候、不及申惣庄屋初村庄屋共不心懸、或ハ奸曲之ものハ
 却て行當不取計之所も可有之哉、左候てハ折角之仕法行
 届不申候間、別て各御取計至て肝要ニ存候、右之儀は、
 御同役一同之申談ニ不及、支配所限ニ御調へ可有候、右
 之程次第胡麻・大豆を初メ徳懸相止可申候條、不及遅滞
 様御出在候て、御極追て可有御達候
  但、極々零落之村ハ本行之通ニても、受合難成所も可
  有之哉、左様之時は、猶又右之上ニ少々歩下ヶも可被
  仰付、併此儀は、先各御胸腹ニ被納置、御惣庄屋以下
  ニは容易ニ御申聞無之、重疊御吟味之上受合難成所
  ハ、御願か有之哉之筋ニて御しらへ候様存候
   寶暦六年六月         堀 平太左衛門
一昨十五日、御郡間密間ニて平野太郎四郎方被申聞候處、
 左之通
一今度御免之貮稜之儀、只今より御土免受合候所迄御免被
 成筈候處、受合御免不成所も、一統ニ被成御免候様、下
 方相心得候趣、平太左衛門殿被及承候所も有之由、若仲
 間内其通心得居候も有之ニてハ無之哉、御土免ニ只今よ
 り受合不申所ハ、何れ之稜も御免不被成、毎々通御徳掛
 可被仰付事
一平太左衛門殿書付之内、但書相見候、極々零落之村高貮
 歩下り、又ハ今度御免之貮稜貮ても受合難成、少々之歩
 下ニて受合可申と私共見込之處は、歩下願米高只今より
 相極、願申筈候、間ニは御免は受合せ、秋ニ至、歩願可
 仕様心得候も有之ニてハ無之候哉、右之通ニてハ常躰之
 歩願ニて候間、只今より相極申筈候
一請合御免極方之儀、延々ニ相成候ては、下方は飽さる者
 故、何角と申分も出來可申候間、早々相極候様有之度由
 之事
 右之趣、太郎四郎方より被申達候様ニと、平太左衛門殿
 より被申聞候間、仲間中へハ私より申談候様ニと被申聞
 候、以上
   六月十六日           伴田七左衛門 

 

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