これが今噂の岩波文庫のしおり「本の知識」シリーズ。
以前一番右の「書体」を手に入れて久しく、今回左から二番目の「約物・記号」をゲット、これは捨てられないと嬉しくなった。
ちょっとした心遣いが読者を増やすことになる。いいアイディアだ。又岩波文庫の書籍一覧を眺めている。
一四一
〇同年反掛米御免之儀ニ付御達之事
覺
一反懸米之儀、去年天災ニ付、諸御郡共御百姓共及困窮申
様子ニ付、去秋上納被成御免候、當年野儀も御憐憫を以
上納被成御免旨候間、可有其沙汰候、尤御家中其外御惣
庄屋・一領一疋・地侍御赦免開之儀は、去年之通上納被
仰付筈候條、御仲間中えも御通達、早々下方へ可有御沙
汰候、以上
寶暦六年六月 御郡間
一四二
〇同年御免貮歩通下ヶ被下候儀に付、重て御達之事
一御土免貮歩下り之儀は、先達て御書附ニも相見へ候通り、
御蔵納・御給知迄ニて候事
一二ノ口米・増水夫米御免之儀ハ、御蔵納御給知新地方・
御郡方上納新地方共都て被成御免候事
一本庄手永新南部村、池田手永新村之儀、村立新知にて本
方は無御座、新地高迄を受持居申儀候ハヽ、本方同前貮
歩下可被下候事
右之通御心得候様存候、以上
同年六月廿八日
覺
一當秋免之儀、御土免貮歩下之上、猶又水夫米増分・二ノ
口米貮稜被成御免、只今より受合免被仰付段及沙汰候
處、難有奉存御受申上候所も有之、又ハ右之通ニてハ御
受難申上由の村々も有之様子相聞候、畢竟徳懸等の入組
も無之、下方勝手ニ相成ため被仰付候得共、受合難澁之
村々ハ、却て勝手ニ不宜筋有之故と相聞、案外ニ候間、
受合不申村々ハ、只今迄之通徳懸可被仰付候、尤一村之
内ニても受合可申者ハ、竈別ニ受除被仰付、受合不申者
之田畑迄徳懸可被仰付候條、強チ一村揃候ニハ不及候、
尤右之通ニて村分有之候ハヽ、受除候者之田畑、紛無之
様前以各手札を御渡、坪々へ御立せ可被置候、先達ても
申達候通徳懸被仰付候間、御免相極候分ハ、水夫米・増
二ノ口米共今迄之通候事
一一郡或ハ一手永貮ても零落之所も可有之候貮付、一統之
受合難成、少々之歩下貮て受合可被仰付宜候、最前御内
意申達候通ニ付、追々其通程能御取計之所も可有之候、
左様之所々ハ此上之しらへ直しニ不及様可申談候條、先
早々御達候ハヽ相決可及沙汰事
一譬(タトエ)は一ヶ村十竈有之、其内七・八竈ハ受合、二・三竈ハ
受合難成と申村も可有之哉、左様之類ハ村中より少々は
助候て、一同之受合貮相成候様御取計可有之儀二候事
一右受合難成者共ハ、胡麻・大豆を初、徳懸被仰付候所ニ
早、右之時節ニ差向候得は、前條申達候儀相決候迄ハ及
延引候間、此節より御内檢差出、會所又ハ村々ニて承繕、
受合候ものハ相省キ、受合不申者之胡麻・大豆迄ニ徳懸
仕候様申付候間、此段得斗可有御沙汰候事
一右胡麻・大豆徳懸相濟候儀之否を相待申達候筈候得共、
今以相揃不申段々及延引、其上當時最中御取計所も有之
由ニ付申達候、以上
寶暦六年七月廿護日 堀 平太左衛門
一平太左衛門殿、於詰間被仰聞候趣左之通
一當秋御免之儀、受除候分は御土免二歩下ヶ被下候段、當
春及沙汰、猶又御土免ニ受合候ハヽ、二口米・増水夫米
共可被成御免旨、其分ニても難受合所ハ足米をも被渡下
候、然處、當作不毛上月ては、右之通にても受合難成、
御損引願出其通ニも相成候、右御損引ニ出候分は、二歩
下り米・二ノ口・増水夫米共不被下筈ニ最前より之御沙
汰ニ候へは、其分之事ニ候へ共、當春以來之困窮之上、
當作不毛上付て御損引ニ出候事ニ候へハ、作徳も夫ニ應
し申す事ニ付、格別之御心附を以書付之通被為拝領候、右
之米高ハ、則二ノ口米ニて候得共、最前より之御沙汰ニ
付、二ノ口米を御免被下候とハ不被及御沙汰、石數を以
被為拝領候、惣体最前之御沙汰筋後ニ違不申様有之度儀
と被存候間、右之趣共得斗同役中へ私共より申通、下方
へも存違不申候様、右御心付之趣委敷及沙汰候様被仰
聞、別紙被有御渡候事
寶暦六年十月九日 津田七左衛門
猿渡 才兵衛
覺
當秋御免之儀、先達て被仰付候御土免二歩下幷二口・増
水夫米迄にて難受除足米被渡下候様二と願出候所々ハ、
夫々足高被渡下受除申候、然處、御損引相願候村々之儀
も、去年度々之天災に付ては、當春以来別て及困窮、其
上當秋不毛上二付、損引願出候程之事ニ候得は、自然と
作徳も少く、一入及難儀可申候、依之各別之筋を以、物
成百石に付米貮石宛御心附米被為拝領筈候間、此段御仲
間中へも通達有之、不洩様早々可有御沙汰候事
十月
手元に熊本地名研究会編著の「熊本の消えた地名」と「くまもと城下の地名」がある。
前者は45人、後者は17人の会員の方々が執筆しておられる。地名が重複しているところが何ヶ所か見られるが、微妙な解釈の差があり面白い。
会として見解を統一されることはないようだ。
上通郵便局の裏手あたりを「黑鍬小路」とよんでいたが、黑鍬を用いて生業とする下級武士の集団が住んでいた所とされている。
前地名研究会会長の故・鈴木喬先生は「戦国時代には築城・開墾・道普請などの工事に従事する人々の総称(中略)江戸時代には城内の掃除や荷物の運搬などに従事」とされている。
一方現役最古参の小崎龍也先生は、「城内の庭木や庭・道路の手入れ」をしながら「隠密」の仕事をしていたとしている。
先輩の鈴木先生は「隠密」についてはわざわざ否定されている。
この黒鍬衆については、その発祥は細川家の松井氏だとする記述が綿考輯録にある。
天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。
そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。
このことから黒鍬衆は工兵隊といった意味合いを持つ集団であることが判る。両先生ともこの事には触れて居られない。
江戸幕府にも「黑鍬衆」と呼ばれる集団があるが、いつの比から始まったのだろうか。
江戸白銀の細川家下屋敷②の近くに徳川家の黒鍬衆③の屋敷がある。