津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ナットキングコール

2014-05-25 08:45:41 | 徒然

 もうひと月以上まえのことだが、郵便局に行ったついでに散歩をしようと思いいつもの長い坂を下った。
風も爽やかでなんとなく口に突いて出たのが、ナットキングコールのUnforgettableである。
今では娘のナタリーコールとのディユエット曲が有名だが、私はナットキングコールの端正な顔と、素晴らしい声に魅了されている。
最近の日本の音楽シーンは我々の年代になると何ともついて行けず、その点洋楽のスタンダードは心が和む。
Unforgettable まさに「心に残る」名曲である。

 

      Unforgettable

    Unforgettable, That's what you are.
    Unforgettable, Though near or far.
    Like a song of love that clings to me,
    How the thought of you does things to me.
    Never before has someone been born.

            Unforgettable in every way.
            And forevermore that's how you'll stay.
            That's why darling it's incredible
            That someone so unforgettable
            Thinks that I am unforgettable, too.

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・3

2014-05-24 08:35:38 | 史料

        

 

人吉は佐敷より山道八里と道中記其外の板本にも
しるしあれども三十六町道につもりては凡十五里も有べ
し 道はさしてあしからす佐敷より一の瀬へ三里半甚遠
し五里とも有べしつげ村といふ所より相良侯の知行所にて番所
有りて往来切手を改メ旅人壱人にても村役人より一人
ツゝ番人を付て村送りにする事也 尤宿等は其地/\
の村役として留る事にて宿代は勿論米代も取らす
御領主より諸用は下さるる事と云是は有難き
事ながら旅人の御領内を委しく見る事ならぬ
やうにせしものなり さて求摩一郡は古しへ求摩國
といひし一国にて深山くる/\と屏風を引まわせし
やふに地理分明の所にて其うちの広き事甚タ
大ひなり相良侯二万余石の御知行にて凡十万余石の
地といふ人吉は山の腰を幾曲となくめくり/\て坂に
登りて見渡すに原野ひらけし所見へかゝる山奥にも
風土よき所も有るものかなと不思議に思ひしほと
なり諸品の中に海魚不自由のミにて外の品ハ何ニ
一つとして不足なく城はあらすして薩州鹿児島
のごとく館城にて古風の家作りて市中もあしからす
豊後日向大隅の在/\よりはよし予山本村といふ
所の庄やの家に行しに少し風雅心ありて上方筋の
物語を聞かまほし一夜は爰にとゝまれと有りて
晝頃より止宿しいろ/\の物語のうちニ村々めぐり
やふもきゝ侍りしになか/\十余ヶ日も守行せねば盡す
となり此庄屋の支配せる一村方四里有りといひき
いかに山中なればとて一村にて四里とは廣大なる事
也 五ヶの庄の事をききしに奈須山と云うより山道
十三里といへとも幾里有る事にや道もなき険阻の山を
数峯も越へ行く事にて此辺の者にても行し者は甚タ
稀也 むかしはいろ/\の奇物も所持し武器類も
有りし所なから佐敷より小かしこき商人年々往来
して交易なとしてよき物は取盡して今は何もなし
と云 家数凡百余軒五家の長有りて三家は緒方氏
二家はヲゴウ氏にて平家の子孫と称す 赤間か関にて平家没落の節通盛の氏族
の此地に遁れ隠れしといふ 至ての僻地にて粟稗も山中の人の食事に
不足する土地故に長たる五家も哀れなる暮かたにて
熊の膽、猪・鹿の皮なとを携へて人吉へ折々は出て諸品に
交易してかへると云之 予もあるじの物語を聞て行も
おそろしく止りし事也今は肥前嶋の支配所と
なりて一年に一度は五家のうちより一人ツゝ嶋原へ御礼
と称して出仕せる也熊本侯相良侯へも右のことし

   五ヶの庄の地方六里余人吉より行に少人数にてはなか/\行
   事ならす巖石のうへより綱にとりつきて上る所の有りまた
   熊狼に行逢ふ事も有りしといふ五ヶの庄より山奥にも
   一村有りて他へ出る事なし此地は日向路へ山道有りて肥後之
   阿蘇郡の者といふて交易のために稀に出ると五ヶ庄の
   ものゝ語りしと或人も語りしなり

是まで来りし事にてせめては奈須山まてハ
行へしと人吉に止宿せんと山本より来りしに日中とて
宿の願ひ不叶して二里歩行して森根といふに止宿す是ゟ
奈須山村へ僅に一里といへども棧道の危ふきミちにて荷
なとおひては心もとなし行て見物せるものもなく
淋しき山中にて茶のおびただしく有るのみなれは行
事なかれとあるしのひらとめに止し故に不行米良山
の事を聞しに人吉より山道十三里にて五ヶの庄よりも
通し此地と日向大隅につゝきし深山の中にて廣大
なる事はかりなし求摩郡の者にても御領主の御
ゆるしなくては行事ならす奈須山のものにても
用叓なき所故に不行米良うしの館も人吉に有りて
米良山に居ます事はなし 土人の云所は米良の地
壱万五千石はかりも有りて肥前嶋原侯の御預り所
といふ定而米良御うじの食地は其うちなるへし
爰にしるす處土人の物語を載ものにて虚実予詳
にせす人しらぬ山中に一万五千石余とは少し信しかたし
田所にても数多有る事にやくれ/\も不審に思ひ
し事なり強て信すへき物語にあらす谷川幾瀬も
流落て人吉にてハよほとの川となり舟路八代の
城下まて十七里十六里十八里とも云たゝ一時にて下る急流にて飛泉を
おとす所十ヶ所有りて膽ひやす云先達而聞しハ
九州第一要害の地と風聞せる所なから引込ニて
居るにはひょうたんうちへ入るやふの所にてあしからす
といへとも外を略せんとするには分内狭く出るに
道遠く面白からぬ所なり

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・2

2014-05-24 08:35:15 | 人物

                             

                                             世に有る板本の図に
                                             甚だしき齟齬有る故
                                             爰に図し置く者也
                                             地方と天草嶋の間
                                             潮の干潟に歩行
                                             渡りにもなるへきやふ
                                             に見ゆ 地方より年々
                                             築洲を開きて
                                             新田とする事すく
                                             なからす

 

                                             天草ト称スル嶋
                                             数島肥後ノ海
                                             上ヲ図ノ如ク
                                             一面メクル地方
                                             ヨリ三里五里
                                             七里アリ
                                              

 

 

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■松寿庵先生 第100講

2014-05-23 08:48:53 | 史料
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■すいぜんじ海苔

2014-05-22 17:19:13 | 熊本

西遊雑記を読んでいると「八代蜜柑」と「水前寺海苔」の事が出てくる。両方とも将軍家に献上する、細川家にとっては大事な産物である。
海苔は五六千枚ほど取れたらしいが、その生産量は随分出入りがあったらしい。水質は天下逸品の湧水なのだが、時には長雨などで雨水の流入などもあって水質が作用したのであろう。古川古松軒もこの水前寺海苔をよく承知のうえで、また記録にとどめたのであろう。
水前寺成趣園の御庭を見たいと止宿した御庭奉行に頼み込んでいるが、他国の者は拝見できないという事で奉行からいろいろ聞いた事を記している。

処で松尾芭蕉の句に  吸物はまず出来(でか)されしすいぜんじ  という句がある。ウィキペディアによると「宝暦13年遠藤幸右衛門が筑前の領地の川にに生育している藻に気づき「川苔」と名付け、この頃から食用とされるようになった。」としているが、この句からすると、修正を要する説明である。芭蕉は 寛永21年生まれ 、元禄7年10月12日に亡くなった人だが、水前寺海苔がこの時代すでに巷間に知られていることが判る。この句からすると芭蕉も食したのだろうか?
私は七十年ほどの熊本地ごろうだが、水前寺海苔は未だ食したことは無い。

いまは自生のものは見受けられず、嘉島町のきれいな湧水を利用して人口的に栽培が為されている。
現在では食物と云うよりも、その保水力に脚光が当たり、化粧品その他いろいろなものに使われる貴重な資源となっている。
個人の努力によって生き延びている水前寺海苔だが、将来も安泰という状況にはない。 

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・1

2014-05-22 08:46:12 | 史料

古川古松軒が著した西遊雑記は七巻に及び、巻一 備中・安藝・周防・長門、巻二 豊前・豊後・佐賀関、巻三 豊後・日向、巻四 大隅・薩摩、巻五 肥後、
巻六 筑後・肥前・佐賀・長崎、巻七 嶋原・天草・有田・唐津・福岡・筑前 と多岐に亘っている。
後に古松軒は東遊雑記を表わしているが、これは堂々幕府の巡見使の一員としての廻国であるが、この西遊雑記は一人の旅人としての記録として貴重である。
インターネットの世界においても未だ釈文が紹介されていないので、古文解読を楽しみながらここにご紹介する。若し間違いがあればご指摘賜りたい。

 

薩州米津ヨリ肥後一州之記

   西遊雑記巻之五(肥後)      古松軒草稿

薩摩の米津より肥後の水股まて三里半此間に国界
の標木双方より建ッ 鹿児島札の辻まて卅六丁道にて
廿六里卅丁熊本札の辻まて廿五里弐町九間肥後侯の
番所は袋村といふに有り往来人をさして不改薩
摩の番所にて旅人の改メ六むつかし しかれども間道
抜道幾筋もあれは肥後の水股佐敷商人薩州へ
の往来はみな/\抜道を入るといへり 水股は求摩
郡より幾谷川となく小流落合ふ所なり大概の
町場にて一村門徒家にてよき寺院の有之所也 此節
数日雨ふらすして井水もなきくらひにて数十ヶ村申合
せて雨乞有り土人の噂をきけは龍神へ人柱を立て
いけにへを供せると云珍しき事なれは一見せんと
思ひ其地に行見る 海岸にかけ造りのこやをたて
幕にて長壱丈はかりに婦人の形をつくり紙を以て
大振袖の衣しよふをきせそれに赤きもやふを画き
髪ハ苧を黒く染て後へうち乱しきて村役人社人巫女
見物人彼是数百人群集し其中の頭と覚しき
社人海上にむかい至て古き唐櫃のうちより壱巻を
取出し高/\とよみあけし事也 其祭文の文章甚タ
埒なき事なからかな書の古文章思はれ侍りしなり
其後太鼓をかづ/\たゝき大せひ同音に唱へるには
龍神龍王末神々へもの申ス浪風をしつめてきゝめ
され娘は神代の娘にへ祭り雨をたもれ/\雨がふらねは
木草もかれる人たねも絶へる雨をたもれ娘をま
しよよ/\ かくのことく入かはり/\雨のふるまては右の
通に唱へて雨ふる時はかの藁人形を海へ流す事也
右文句を大ぜひ声高にいふ時に傍
よりひやうしをとりていかにも/\と云 土人の物語に二百年以前には
数十ヶ村の娘を集めてくし取をさせくじにあたりし
娘は右のごとくして海へ入れしと辺鄙の地にはいろいろ
のおかしき例も有る事にて古しへの事を傳へてうし
なはす右祭文の文章聞なれぬ文おゝかりし故に写し
取らんと土人を頼みしに急にて調はす あまりも
古雅なる雨乞ゆへに聞流し見捨にせるも心残りにて
見る人の笑ひいかにもならんかと爰に筆を費しぬ
水股より湯の浦へ三里此間に綱木太郎と称せる坂
有り上下弐里険しき事いふはかりなし 肥後の方言
にて坂の名は太郎と云て坂とはいはす 此辺は肥後に
ても風土のよき所にて民家のもやふ薩州よりは勝
れたり湯の裏少しき在所にて温泉有り旅人
入湯せるに誰とがむる者もなく明はなしの温泉な
り 湯はあしからす巧有る温泉のよし しかれとも辺
鄙の地故に他方より入湯に来る人さらになしよく/\
聞は是より山分に入りては爰もかしこも湯
の浦地数ヶ所有りと云
湯の浦より佐敷へ一里此所は南肥後にては第一の
よき所にて商人多く近郷の調もの此地にて事済ほと
の市場なり此佐敷より球磨郡人吉の城下まて
八里といふ
肥後の在/\に入りて百姓の妻女までも諸侯に様をつけ
す薩摩侯は薩摩殿相良侯は求摩どのと称せる事なり
何国も古しへはかく有りし事なるへし辺鄙には
古き言葉も残りて殊勝ならすや殿は様よりも人を
尊ふ言葉なれとも今は下/\にても様を通称とす世の
流行にまかすもまたよし
土人の物語に當国の名所女しまといへるは佐敷
の事といひき予詳からす古哥に
    年するやめしまの松の深みとりしの枝は浦の
                             波にひたして

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■沼田直次というひと

2014-05-21 08:42:53 | 人物

 織田信長を討取った明智光秀が、藤孝・忠興父子に対して味方するように使者を送ったが、その使者とは忠興にとっては母方の叔父にあたる沼田権之助光友(直次)である。
剃髪して名乗りを替えた幽齋玄旨と・忠興は大いに怒り返書も認めず、光友に対しても「討捨らるへけれ共、此度は思ふ旨有て命を助くる也、重て不可来とて御家人に仰て追出」される。のち権之助は光秀の逆罪をうとみ、米田是政に付終に忠興公の家人となる。

その後「御領内不慮の変を被思召、熊野郡佐野城に長岡権之助直次を城代として被遣」されたが、この地の旧主佐野源五郎常次が郷民数多を以て城を襲い、為小勢の直次は戦死した。こののち佐野をはじめとする多くの者が細川軍に依り殲滅された。 

 

 光兼---+--光長
      |
      +--女(荒川治部少輔晴宣室)---菅野輝宗
      |
      +--女(飯河山城守信堅室)---飯河豊前宗祐---長岡肥後宗信
      |                     
      |       +--女(細川興元室)
      |       |
      +---清延--+---延元---+--延之   +--延相---兼辰
      |                |       |        
      |                +--延将---+=====兼辰---元昭---将休(熊五郎)
      |
      +---女・若州前川城主山形刑部少輔源秀之室--圭長老
      |
      |  細川藤孝(幽齋)---+--忠興      
      |     ∥         |
      +-----麝香         +--興元  
      |
      +---女・北畠左衛門佐教正室---女・米田求政室
      |
      +---女・進士美作守国秀室-----進士作左衛門(田辺城籠城)
      |
      +---直次(権之助)光友
      | 
      +---女・築山弥十郎貞俊室(義晴命により藤孝生母付き)

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■町人考見録から(二)

2014-05-20 09:09:20 | 人物

先に 町人考見録から を書いた。「不埒成御家柄」という文言は、大名貸しによって身代を潰した家原自元の紹介の文章に登場している。

     家原自光
   一、親は自仙といふ。所は西洞院竹屋町上ル丁に住す。自仙代より細川どのへ大分取替相滞候へども、いまだ相続いたし、なを彼御屋敷勤候所、
     四つ宝新銀立替の節、又弐三百貫目ほど相滞、其上金借り旁故、借しかたへは年賦に断を申。扨自元は肥後へ下り、段/\御すくいを願候
     所、太守(綱利)は元来茶を御好被成、一入自元へは御目をかけられ候故、先は願の通相調、古借の内へ新銀七十五貫目宛、五年の内相渡
     り申積りにて、一両年も右のごとく相渡り来り候所、自元も相果、其前年の暮よりはや、約束の通りには相渡り不申、殊に立花飛騨守殿へ前/\
     取替滞居申候を、自元起し出し、大坂町人共と相仕に成、此仕送りを致し候所、初年は究のごとく少/\、春は屋敷より請込に相見へ候へども、
     其次の年より段々江戸不時の御物入ども打続、引に不引、五年の内に是も四五百貫目滞、身上さしつかへ申候、それ故居宅も明け、ひっそく
     致し、なを又今の次兵衛肥後へ下り願ひ候へども、御国凶年故、はか/"\敷渡る事も無之、少/\宛すくい銀の内渡りを受取居申候。大かた
     大名がしの筋は同じ事とは云ながら、其内わけて細川家は、前々より不埒成御家柄にて、度/\町人の借銀断在之、此節辻・玉屋・家原、皆
     /\此御屋敷へ大分の滞故、つぶれ申候。いづれも件の内済の積りにて、年/\相渡り申やくそくには候へども、みな/\跡は又/\不埒に
     成事、あながち細川家には限り不申、大名がた年賦断の通例と存べく候。

まことにもって肩身の狭くなる話ではある。
     

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■光秀室の姪とは誰?

2014-05-20 08:17:06 | 人物

 明智光秀の謀叛による信長の生害(天正10年6月2日)のことが宮津に聞こえると、幽齋・忠興父子の処へ米田助右衛門是政も伺候した。
「忠興公被仰けるハ、如此無道なる者に縁を組ぬれハ、他のそしりに逢ん事口惜しと被仰、是政申けるハ、光秀逆意以前の御縁組なれハ兼而御存有へき
にあらす、
此上は弥自己の道を守んより外他事なしと申、忠興公かゝる無道之者の子を妻とし難し、如何すへきやと有けれハ、是政申けるハ、某か妻も光秀
内室の
姪に候ヘハ相同敷候、先ツ丹波の山谷中三戸野辺に兼て知たる山伏罷在り、此者宅に御蟄居可然と申す」とある。

是政の嫡子・是季の生母は真賀法印の娘だとされるから、ここに登場する光秀妻の姪ではない。二人の姉がいるがこれはどうか・・・資料が乏しくよく判らない。是政は慶長五年八月二十三日岐阜攻めの折に討死しているが、当時42歳である。上記の時期是政は24歳であり、光秀室の姪である正室との間に子があっても不思議ではないと思われるが、二人の女子がそうなのであろうか・・・・?
光秀室とは妻木範煕女煕子のことであろうが、また難問に遭遇した。 

 

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■古文書の中の難解語

2014-05-19 20:55:45 | 徒然

 綿考輯録のある文章に「北ヶ入る」とある。(忠興公・上 p26下段5行目)

敗北という言葉があるが、当然のことながら「戦いに負けること。戦いに負けて逃げること。敗走。」なのだが、この場合の北は方角を意味するものではない。
北はこの一文字をもって「 背を向けて逃げる。」という意味がある。

即ち「北ヶ入る」とは「逃げ入る」と読むことになる。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同じく (忠興公・上 p24上段5行目)に「良久して」とあるが、「良」という字義に「 非常に,大変」とあり、良久とは中日辞典によると「ずいぶんと久しい,長きに渡る」という意味に成る。
「良久して忠興公仰せけるは」という文章なのだが、「しばらくして」とでも読むのだろうか・・・・ 


 

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■このサイトの往く末

2014-05-19 11:24:12 | 徒然

 もう随分前の話だが、ある所から「侍帳」を出版しないかと言う話があった。即座にお断りしたのは当然である。

最近、その「侍帳」四五冊でも製本してみようかと考え、本の体裁にデータをワードに移してみようと思いたった。「あ」行のみを試してみたらなんと40数ページになった。
すべてやると1,400~1,500頁になるのではないか、唖然となってしまった。それにデータを移すのが何とも面倒くさい。元々8~9年前ホームペジビルダーで作成したもので、この生データをワードに変換すのも簡単にいかないし、サイトからコピペするとソフトのせいで文字のバックに背景色が付いてしまうし・・・・。サクラエディタに移し厄介な操作をしてワードに移すことに成るが、72爺にとっては難儀な作業であり根気が続かない。これはもう没だと諦めた。

しかしこの「侍帳」だけは記事の出典をすべて明らかにして、2020年まで頑張ってなんとか完成させたいと思っているのだが、最近の体調からいささか不安もある。
日に日に想いはつのるのだが、想いに反して身体が動かない。
年を取るという事はこういうことなのかと実感する毎日だが、体調をととのえてあとひと踏ん張りと参りたい。 

「肥後細川藩拾遺」については、後継者を心づもりしている人が居る。或る日突然サイトが消えてしまうのも淋しいなーと思うが故である。

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■入江平内宛て忠利書状

2014-05-19 09:55:31 | オークション

ヤフオクに「細川忠利 古文書 本物保証」という、即決価格が200,000円と指定された品物が出品されている。
随分高いなーと思っていたら案の定落札はなく、再度の出品となっている。
品物は忠利が入江平内に宛てた書状である。入江平内はガラシャ夫人の最期を伝える「霜女覚書」を書した霜が嫁いだ人物である。
  
                入江平内事  入江平内事(二)  入江平内事(三) でご紹介した。

値段が値段だけに何か特別なことが書かれているかと興味があり読みにかかったが、なにせ癖のある忠利公の書状に悪戦苦闘している。
両御所様とあるが、家康・秀忠時代なのか、秀忠・家光時代のものなのかも判らないし・・・・・
古文書解読の資料にさせていただいているが、オークションに出品されるこのような書状の登場は大変面白し有り難いものである。
どなたか落札前に解読されましたらご教授下さい。 


 

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■5月20日 兼見卿記(1)(2)新訂増補版 (3)新刊 発売さる 

2014-05-18 07:06:40 | 書籍・読書

                   史料纂集古記録編 第171回配本 新訂増補 兼見卿記1

                   史料纂集古記録編 第172回配本 新訂増補 兼見卿記2

                   史料纂集古記録編 第173回配本 兼見卿記3

 3巻は40年振りの発刊だそうだが、併せて1・2巻も新訂増補されて5月20日に発刊される。
3巻は、天正13年(1585)から天正15年(1587)に至る、 織豊期の最重要史料として興味深い資料である。

1・2巻については「日本の古本屋」でも三件ほどしか見受けられず、入手が難しかったが、今回の1・2・3巻の発刊はセンセーショナルである。

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■史談会例会大にぎわい

2014-05-17 15:53:57 | 熊本史談会

 今月の史談会例会は清田泰興氏をお招きして、「飛行機のことや、飛行機の旅又江戸時代の三貨制度」についてお話を伺ったが、会員以外の多くの皆様もご参加をいただき大賑わいであった。いつもの歴史ずくめの堅苦しい雰囲気もなく、時には笑い声が聞こえ、間断ないQ&Aもあり誠に楽しい時間を過ごした。御迎えした責を果たしたと、誠にうれしい限りであった。
大成功の裏に、今後の史談会の運営を考えさせらた次第でもある。清田様、ご出席の皆様にただただ感謝申し上げる。 

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■町人考見録から

2014-05-17 15:53:48 | 歴史

 細川家を「前々から不埒なる御家柄にて・・・」と、豪商越後屋の三井高房がその著「町人考見録」で痛罵している。享保十三年の刊行であるから、時の藩主は宣紀である。先代綱利の隠居に伴い正徳二年七月に家督を相続している。このような刊本を果して読んだかどうかは知る由もないが、家中には噂として広がっていたのであろう、上妻文庫にその写本が残されている。忸怩たる想いであったろう。

いわゆる「大名貸し」で多くの商人が貸し倒れをして身代を潰したとされる。
細川家に単独で大名貸しをした石河自安、 二村寿安、糸屋十右衛門、家原自元など四名の名が上げられている。又、辻 次郎左衛門は前田・細川・浅野家、三井三郎左は紀州徳川家・ 細川家、吉野屋惣左衛門は細川家・ 黒田・立花家への大名貸しによってとされる。
何といっても細川家がその筆頭であるのが何ともいただけない。
「緒方夫右衛門筆記」「吉村文右衛門覚書」「国武覚書」などの提言・諫言の書ともいうべきものが多いのも綱利・宣紀・宗孝・重賢公治世代である。

天草島原の乱につづく、長崎和蘭船入港警備の出兵、天下普請、参勤交代、加えて綱利やその生母である清高院の浪費癖がその原因の一つでもあろうが、今一つの原因は綱利・宣紀の沢山の女子の結婚費用もあろう。
宣紀公の生活ぶりは大変質素であったと伝えられる。その治世の頃にこの本が発刊されているのが、なんとも痛々しい。
宗孝公の時代も同様であったろう。誠に不幸な死が訪れるのだが、部屋住みの弟・重賢公の登場は歴史の偶然とは考えられない様に思える。
合せて堀平太左衛門他多くの優秀な人材の登場も同様である。起死回生の秘策はまさしく人材にあった。

 

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